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安倍晋三を批判す。

塩見孝也

2006年 9月 9日
                    

 著書、「美しい国へ」も読みました。この人物のこの頃の言説、動きも注視しています。

 「美しい国」、「使命感を持つ」「闘う政治家」----甘美な言葉の裏に隠された、なんとも、おどろおどろしい、危うさが、漂よってくるではないでしょうか!

 伝統的な日本支配階級が持ってきた日本民族主義(ブルジョア民族主義)の視野狭窄の近視眼政治、ネオ国家主義、ネオ軍国主義!覇権主義と侵略賛歌!

 このようにしか、僕には、どのように見ても、彼は評価しようがない。

 資本家達は、日中共存からの経済効果に替わる、軍事産業を軸とする景気浮揚に惑わされたりもするでしょうが、全体的には、決して満足はしないでしょう。

 全くの超保守・右翼のリーダー達が屯する、「日本文化チャンネル、桜」で、この主要な面々と僕等「反戦派」「民衆派」の仲間たちは、計4回、一回3時間の鎬を削る大論争を「どうする、日本、左右激突」で昨年から今年にかけてやりましたが、今から考えれば、僕等は、実は、安倍晋三と対決していたのだな、と、思い至ります。

 それほど、安倍晋三の論調、雰囲気とあの「桜」の論客たちの醸しだす雰囲気、政治・思想内容とは酷似していたのです。

 当時から、チャンネル桜の社長、水島さんたちは安倍氏と気脈を通じ、安倍グループの中核にして、ブレーンであっただろうことは、推して知れてはいましたが-----。

であれば、わが日本国は、近々、これまでの戦後政治に登場しなかった、異例、異色のウルトラ保守、分けても、アジア人蔑視、民族差別、ハードなネオ国家主義、ネオ軍国主義の政治家を、日本国政府首班に据える事となります。

 安倍の「戦後レジームからの脱却」は、あの20年代後半のもっとも民主的といわれた「ドイツ・ワイマール体制」から、ヒットラー・ナチズムが飛び出し、政権を握ったような異様な衝撃を、今後、日本、世界の政治、社会状況に与えてゆくでしょう。

 対米従属のグローバリゼーション無条件賛美のプラグマティスト、ポーピュラリストの小泉純一郎とは全く違うタイプの反動的民族主義者、ウルトラファッショの、これまでとは全く違うタイプの政治家の登場と言えます

 だが、その「改革」は、1930年代、ルーズベルトが取ったようなアメリカニューディールの構想のようなものには、足下にも及ばない。独りよがり、独善、思い込みの「レジーム改革」といえます。

そう!まったくの独善もいいところなのです。

 それだからこそ、全く始末に負えないのですが、あのぎらぎらさに根負けせず、じっくりと腰を落とし、真っ向から一歩も退かず、我々民衆は、批判の刃を研ぎ澄まし、それを蓄積し、対決してゆかなければなりません。  彼の何処に民衆を思いやる心、ヒューマンなものが伺われるでしょうか!

 何処に冷静な、しっかりした理念の下での、長期的視野、構想が見受けられるでしょうか。

 あるのは身勝手極まる軍事至上主義の反動的民族主義のみです。

 確かに、日本の右翼、そして中国、韓国ら一部の部分に発火点を持つ、アジアのある種の狂騒化しつつある、国際政治の雰囲気に飲まれ、1対1的な民族主義の一国主義的視野からのみの対応に終始する、彼ら流の危機感だけは伝わってきますが、それは、彼等、自民党執権勢力の内輪からのみ出て来る独善的悲憤慷慨としかいえません。

 安倍晋三はこの執権勢力の危機感、狂騒を反映し、全く、余裕無き、民族主義の力の政治への疾走開始の幕く開き人を買って出ているのです。  随分と「勇ましい」限りです。

 むっつり表情の中にそつなさ、抜け目なさは感じられても、何処に、寅さん的なは茶目茶、ずっこけながら、人民大衆と人間を信じる開けっぴろげ、楽天主義のユーモア、磊落さが感じられるでしょうか?

 このような政治家がでて来る必然性とその破綻性は十分説明できます。

 対米従属と伝統保守、復古政治の往還、折衷。これに飽き飽きし、この状態を「超克したい」と幻想する、政治的には未知な反動的民族主義のの政治家登場の願望が支配階級に漲っていたことからして、一定の合点が行きます。

 しかし、その内容たるや、新しさの粉飾はしているが旧慣墨守のお馴染みの粗雑極まる超国家主義、そのエッセンスとしての権力と力の信奉、その要としての核武装を展望する軍事力強化に鍵を求める軍事至上主義の政治、唯軍事政治以上の何物でもないのです。

 ネオ軍国主義政治!いつか来た道、何の新鮮さもないのです。なんという貧しい発想、政治でしょう。

 そこら辺りから聞こえてくる街宣車の拡声器のトーンと何処が違っているでしょう。

 リバイヤサン渇望、「優柔不断」のチェンバレンを批判し、「開戦」を提示した某イギリス政治家の賛美。

 真に内側の日本民衆、日本人、日本社会の矛盾、民衆の苦悩をしっかり見つめ、自己反省するのではなく、その反対に、問題、表面的に狂騒的に論じるだけの、民衆を蒙昧にし、排外化して解決するお馴染みの手法です。

 彼は、開けてはならない別のパンドラの箱を開けようとしているのです。  日本民衆は、このような彼等が煽る狂騒に染まらず、これを醒めた目で見、これを徹底批判し、これを超えてゆく政治を生み出して行かなければなりません。

 袋小路に入っているのは自民党政治であり、民衆、民族それ自身が、袋小路に陥っているわけではないこと、ここのところを混同しないことが肝要です。

 民衆は執権勢力、独占資本の支配階級と運命共同体となって、一蓮托生する必要は全くないのです。

 日本民衆、日本社会、日本人は、事態に対処しうる、もっともっと健全で、底力、可能性を秘めています。

 我々民衆に必要とされているのは、この民族主義、国家主義の地平に、留まり、別の新規な対案を模索するのではなく、パラダイ・ムチェンジした次元から、全く別のアプローチをして行くことです。

 有体に言えば、今、ギリギリと煮詰まっている「戦争と平和の問題」は、反戦・平和の観点、主権在民の民主主義の観点を踏まえ、革命的祖国敗北主義、そこから出発する新しい世界と日本社会主義革命、世界同時革命以外、根本的な脱出口がないといということです。

 あの日本人にとって,画時代的であった、戦後の出発点、戦争の国民体験を踏みしめ、憲法理念を大切にし、活かし、決して後戻りしないグローバル化した相互依存の関係の世界を前提にし、一国規模ではなく、世界規模で、近視眼ではなく、21世紀全体の射程で、あくまでも民衆中心、人間中心に、物事を、考えてゆくべきでしょう。

 愛クニ心は、国家を前提にした一国規模ではなく、民衆中心、人間中心で、グローバル化した21世紀全体を見渡した、グローカル(グローバルでローカル)な観点から、止揚された、日本の理念、構想、ポジション、スタンス,進路の問題として設定されるべきでしょう。

 いつものような、国家や民族のいがみ合いから、民族が狂騒化して行く事象から、脱却できる「脱国家」化した、「世界平和・世界福祉の人類共同体」、「世界民衆共和国」の世界理念を持ち、この世界理念から位置づけられる、あくまで、自主的民衆に根を置いたものであるべきであろう。

 必ず、そうなって行きます。

 国家対国家の醸しだす狂騒の嵐の中でもタジろかない、もっと、確固とし、どっしりした世界史的視野から,資本主義批判をベースにし、脱国家化して行く、民衆の国際連帯に基礎を置く、長期展望、長期持久政治を考えてゆく必要があります。

 このような、諸点をしっかりと踏まえた、スターリン主義を完全に克服した新しい意味を持つ、世界・日本社会主義革命、世界日本同時革命が求められます。

 このような意味で、安倍は完全に政治家の資格を失っています。

 こんな、一種の暴走族的、日本的ネオコン的熱狂を長続きさせてはなりません。

 また、こんな近視眼政治は長続きしないでしょう。

遅かれ早かれ、破綻し、日本人は、このインチキ愛国心、国家主義、軍事力強化の熱狂から醒めます。

 先ず、日本民衆が許しません。経済界が許容しません。アジアの人々が許しません。そして、アメリカ帝国主義支配階級やアメリカ民衆もまた、このような陋劣極まる報復主義政治を批判するでしょう。

 このような、ある種の暴走族政治は、結局孤立し、真夏の夜の夢となるでしょう。

 とは言え、問題はこの安倍政治と民衆が対決し始めた、今の現在から、民衆側からの、今の日本の漂流と右往左往情況を根本的に解決する政治、上記根本解決方向がしっかり、踏まえなおされねばなりません。 であれば、政治は、外へ、ではなく、当然にも、内側に向かってゆくでしょう。何故なら、問題が内側から惹起されているからです。

 だからこそ、民衆は、覚悟を固め、戦後の再出発の理念に忠実になり、それを、そこから、明治維新以来の近代史おも再検討し、それを、「世界平和」「世界福祉」の理念に結合、発展させてゆかなければなりません。

 この安倍みたいな復古保守政治の根元を断つ、「世界―日本民衆共同体」「世界民衆共和国」創出して行くような、変革の力を、創造して行かなければなりません。

 それこそが、日本の根本的活路です。

 たゆまざる、民衆中心、人間中心の平和、福祉、環境、世界支援、主権在民の民主主義立国への努力!資本の横暴を許さない民衆中心の生産の社会化追及!

 徳高き、信義ある、世界に“平和”と“福祉”で貢献し、尊敬される日本へ。

 世界平和の前線基地、砦となり、世界に徳と道義で、尊敬される日本へ。

 この意味で、戦後、中途半端にしか、やりきれなかった戦争責任総括を徹底的にやりきり、実行しなおさなければなりません。

 この意味で、意識的民衆は文化、社会、政治革命をやりきってゆく覚悟をしなければなりません。

 根本は、ぼんくら、ぼんぼん政治家達の民衆操作政治、煽りマスコミ、軽薄な御用文化人のインチキ教養のご託宣、などに惑わされない日本人、日本民衆一人一人の自主度、文明、文化度を高めてゆくことと思います。

 「一身の独立自主無くして、国の独立自主なし(福沢諭吉、「学問の進め」)」です。

 急がば、回れ。余裕を持ち、大胆にして、ゆっくり、着実に進んでゆきましょう。

 以下、安倍晋三批判をまとめ的に列挙してみます。


1.  安倍には、支配階級に特有な伝統的な、明治、大久保利通政治以来からの「脱亜入欧」の、アジア人、アジア他民族蔑視、差別感情、思想が根元に強烈にあります。

 これは、祖父に戦犯、岸信介をもつ執権勢力の正系の家系からしても明らかなことです。

 ハッキリ言えば、彼は「アメリカには負けたが、中国人や朝鮮人、ロシア人には負けていないぞ。今度は勝ってやる」といった、レコンキスタ(失地回復)に向けての臥薪嘗胆の民族的復讐主義感情の持ち主だということです。

 彼は、日本民衆、民族の侵略戦争反省を「自虐史観」と批判し、「侵略戦争を聖戦の自衛戦」と黒を白と言いくるめる形で、一挙に報復主義のレコンキスタ感情に逆転させてゆくことを願望する、エスノセントリズム(自民族中心、優越の民族主義、自民族至上主義)思想とその感情の持ち主だということです。

 アジア侵略を推進し、2000万の人を殺し、日本人同胞300万人を死に至らしめた祖父、曽祖父を持つ人であれば、その罪障があるが故に、そのもっとも被害を受けた中国人や朝鮮人に対して、「屈服しない限り、対話もしない」「這いつくばって土下座の坊主懺悔はしない」という侵略戦争を居直り正当化する感情を、彼は、父祖、曽祖父らから、子供の時から教え込まれて育った人なのです。

 だから、彼にとって、中国人、朝鮮人に対する蔑視感情は、実は歴史的な先祖伝来の良心の呵責、トラウマに負う所の、根深い、もっとも根本的な感情,感性なのです。

 僕等、日本民衆からすれば、この感情は、全く時代錯誤も良いところの感情ですが、日本帝国主義支配階級の父祖の名跡、衣鉢を継ぐ、彼等2代目、3代目のボンボン政治家には、その感情、感覚は臥薪嘗胆しても、是が非でも、日の目を見させ、復権させたい感情な訳です。

 このような思想を政治手法として実験でき、一定成功させた、とマスコミが囃すものが、「政治家安倍の拉致問題での貢献」というお話しがあります。

 彼は、その「貢献」を、この著書の冒頭でとくとくと語っています。

 一見このことは、取り立てて言うほどのこともない、ありふれた、彼の立身出世物語り、とも取れないことはないのですが、しかし、その行動の意欲の根底には、決して、普通の日本人が感じているヒューマンな同胞愛、といったピュアーな感情とは決して言えない、上記の全く別の感情があるのです。

 つまり、それは、先述した朝鮮人への優越、蔑視の報復感情なのです。 拉致問題は、安倍が狙っていた臥薪嘗胆の日本民族主義、失地回復の好機到来の場、であったのです。

 朝鮮スターリン主義政治の弱点を、彼は100パーセント上手く使い、折角の民族和解のチャンスを消し去り、憎しみの連鎖を増幅させる「闘う政治家」として、上記の「自虐史観の克服からエスとセントリズムのレコンキスタ(失地回復)へ」の政治手法をここで彼は実験したわけです。

 これが、「闘う政治家、安倍晋三」登場の隠された裏舞台なわけであり,核心でもあるのです。
 彼には、繰り返しますが、保守右翼の、朝鮮人、中国人、ロシア人への陋劣極まらない父祖伝来の報復感情があるのです。

 彼は、対朝鮮レコンキスタ(失地回復)政治の成功に味を占め、その運動の中心部分を核として、いまや、それを、全日本人に広げられる、と妄想し、対北朝鮮は当然として、対外的には対中国人、韓国人、ロシア人にまで拡張しようとしてきているわけです。

 今は、抑えていますが、この感情は、アメリカに対してもあります。その感情は「美しい国へ」の憲法前文の彼流の読み込み方にも現われています。

 彼は、対アメリカでも、憲法「改正」、軍事力強化、核武装でもって失地回復を狙っているわけです。

 「集団安保」論はグローバルな規模での対等な軍事同盟であり、従来の従属世界覇権戦略とは、狙いが違っているのも留意すべきです。

 「戦後レジームからの脱却」「戦後体制の再編成」、調子の良い言葉ですが、彼にとっては、正に「レコンキスタ」要求からする、当然な対応な訳です。

 戦前軍国主義回帰のあからさまな表明となってゆきます。 民主党の「前原」某と全く同じです。

 村山談話を無視する、とも公然と言っています。


 
2.  民族のプライドは支配階級から見た場合、国家を前提としますから、つまり、民衆支配を前提としますから、超国家主義、全体主義にすりかえられ、自民族優越、他民族蔑視のエスノセントリズムとなってゆきます。

 したがって、「改憲」は国家の存在原理を変える内容で志向されますし、安部こそ、これに政治生命をかけています。

 何故なら、当然にも、これが、彼のレコンキスタの戦略的目標であり、戦略的手段、方法でもあるからです。

 全くの、悪い意味でのファナティシズム。ファッショと言えます。

「専守防衛」派は全く甘い、といえます。軍事力は必ず、自己顕示のため、自己を試そうとし、ごろごろと、軍事的熱狂を伴いつつ、坂を転がるように、一人でに転がってゆく、ことの認識が弱い、のです。


3.  従属グローバリスト、プラグマチスト、ポーピュラリスト小泉とは思想も政治手法も全く違う、反動的な偏狭、視野狭窄、近視眼のナショナリスト、落着いているようで、本当は余裕無き、性急さを持った、思想も政治手法も全く違う政治家のタイプと我々はしっかりと捉えておかなければなりません。


4.  「日本文化チャンネル、桜」グループの思想と酷似し、安倍はアメリカに見習い、日本型のネオコングループをブレーンとし、最大限に活用してきています。


5.  「集団安保」、「改憲戦略」、「国家安全保障会議設立」、「情報局の設置」などアメリカの政治手法も取り込んだ、独自のナショナリストのスタンスをとっており、「共謀法」と「右翼テロ」は、彼が今後使うであろう民衆恐喝のもっとも鋭利な二つの匕首です。

 小泉も安倍も、加藤氏へのテロに対してなんらの公式の声明も出さず、沈黙してきました。

 軍事力強化、核武装推進に要を置く、伝統的な対アジア、対米「2正面政治」は、民衆、人間の道理、道義に立脚しない、独りよがりの思い込み、と腕っ節のみの、つまり、全く芸のない、軍事至上主義、唯軍事主義の全くの「力の政治」故、孤立してゆきます。それは、必然的に、国内治安反動、治安統制、超国家主義の現代のヒットラー政治、ファシズムを顕現させてゆきます。これは、戦後に対する一種の「反革命」と言えます。

 思想的包括性無き、本質は「行け行けどんどん」の暴走族まがいの保守反動民族主義疾走政治家。民衆、人間無き、政治力学のみのボナパリスト政治家。

 何故女性が、結婚もせず,子供も産まないのか、その歴史的社会的経済的原因も一つも解明しない人口増殖論、何故子供、青年たちが、国家に賭ける事を拒否することを解明しない愛国心押し付けの教育論の致命的発想も見受けられます。

 天皇家の徹底政治利用、画策はしているが、彼は本来ボナパルチストで、天皇の「おおみこころ」など、適当な利用対象でしかないでしょう。

 天皇家が、最早利用し得ないと見れば、どんどん見捨て、他の皇族を利用するわけです。

 利用価値のあるものは全て利用する。

「靖国」は今のところ最有効の利用素材と思っているし、靖国参拝は、彼の思想、政治手法と完全に一致しています。

 諸般の情況で、今のところ行動としては出していませんが、この靖国参拝思想は彼のレコンキスタ思想、政治の決定的核心でもあり、著書にも公然と書かれています。

 「避けがたかった面があるが、今度はそれを、教訓にして、2度と戦争をやらない」と決意するのではなく、「今度は、負けないよう周到に計らい、今度やった時は、必ず勝つ」、これは、2度目の戦争に報復主義で挑戦し、敗れた、ヒトラーに指導されたドイツ人の心情と同じといえます。

 安倍ら反動的民族主義者は、口を開けば、「ヒットラードイツは連合国に完敗したが、自分等日本、日本人はそうでない。国体も軍隊も残っていた」し、「無条件降伏はしていない、完敗もしていない」と強弁し、今のドイツの姿を、「ヒットラー主義完全清算」と批判したりもします。

 これは、「日本文化チャンネル、桜」グループの常套句でした。

 僕から、言わしてもらえれば、今の安倍は、既に破産が証明されている、かつてのヒットラー主義と全く一緒のように思えます。

 ヒットラーは、第一次世界大戦の「ドイツ民族の完敗」を肯んぜず、反動的ドイツ人民族主義,凡ゲルマン主義のナチズムを煽り「レコンキスタ」政治をやり、第二次世界大戦を引き起こし、またまた、ドイツ人をして、再完敗せしめました。

 ドイツ人は、二度、ゲルマン民族主義を旗印にして、英、仏、米に完敗したわけです。

 そこから、「第三帝国建設戦争」と汎ゲルマン主義ナチズムを、ドイツ人は清算し、戦後ドイツが誕生させました。

 ドイツ人は二度の敗戦で、綺麗さっぱりと、過去の民族主義を清算したわけです。

 この2度の完敗をもって、エスノセントリズムに立つ、侵略戦争の愚をドイツ人は悟った、といえます。

 この、ドイツ人の行き方に、安部ら日本民族主義者は一度しか負けていいないから、批判的なのです。

 僕から、言わせてもらえば、安倍らは正に、二度完敗しないとわからない、全くの愚かな、現代のヒットラー的日本人と言い切れます。

 「安倍よ、君はもう一度戦争をおっぱじめ、二度完敗しないと、日本民族主義の愚かさがわからないのか!エスノセントリズムの悪、この対極の反戦・平和の意味が分からないのか」と問いたいです。


6.  安倍には思想の根本に、人間愛、民衆愛、真の民族愛、人類愛が見受けられません。世界平和の志向など皆無です。

 あるのは、矮小陋劣な悲壮感あふれる一国主義的「英雄」意識、展望も思想的余裕も無い、暴走族的民族主義政治。

 例えば、ブルジョア的意味ですら、世界理念はあるか、と問えば、無し。ポストモダン的日米融合、例えばアジア太平洋癒合の長期戦略あるか、なし。 リバイヤサン政治のみ。

 根本は右翼特有の視野狭窄の一国主義、国粋主義、ファナティシズムからの、「パトリオットゲーム」的政治手法、幕末型、戦前型の「国士」による「合従連衡」の力学主義政治、メッテルニッヒ型政治であり、パラダイム自身が新しいようで全く古い、といわざるを得ません。

 著書に、チョこっと記されている、侵略戦争の反省の弁は、嘘、虚言。マヤカシ、マヌーバーです。著書の紙面の重点は、「侵略戦争論」反批判が主です。 だから、村山談話は否定されるわけです。


 最後に、皆さん、安倍晋三批判を蓄積してゆきましょう。 当たり前な様で、決して、これは楽な作業ではないのです。

 これは、この苦闘をクリアーしてやり遂げた、その第一弾です。