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ラジカリズムそのものを罪とする見地はいただけない。

         ーーー 「赤軍事件の女達」(日本テレビ、12/24)を見て
                           塩見孝也


 この番組は僕も多少かかわり合い、出演もしたので最初から熱心に見た。
僕がこの企画を評価したのは、赤軍関係の事件を女性達を主役にして事件と現代を抉ろうとしている視点です。

 赤軍関係の事件とその総括、そして現代を抉る視点は、その中で生活を抱え、苦しみ、もがきながら生きる女達の中に未来を光明づける普遍的何かが孕まれていると思っていたし、それが世の中への強いメッセージとなると思ったからです。

とりわけその娘達、家族関係を導入した場合、強力な説得力を持つと思います。
有本さんの母堂を基底に据え、八尾さん、永田さん、重信さんの本、手記を淡々と口述し、「日テレ」の蓄積されたフィルムを巧みに配し、映像的構成をなしている。読み手、出演者も贅沢極まりない形で配している。

もう1つは連合赤軍事件、よど号事件、日本赤軍事件と言ったどの1つをとっても日本社会に突き刺さり、それぞれが特殊な国際性を持つ大難事件を、ばらばらではなくナントか統一的に映写し、そこに流れるトーンをなんとか一貫したものに映像化していることです。

 最初からトーンが確定され、一定の統一的総合力があったわけではなく、それは丹念にそれぞれの事件を、そのヒロインの3人の女性の本を通じて思想的軌跡を追って行く中で、構想力の統一性が出来上がっていったのであろう。

 しかし、後で述べるように政治的意図は決して良いとは言えないが、戦後史を画する赤軍関係のしかも現在進行形の3大難事件を統一的に捉えた手腕は率直に言って一応の敬意を表すものである。

 1,僕がこの番組、というより三人の女性がつづったドキュメントの内容から感じたのは、僕がこの十年間「幸福論」等で主張もしているいのち(命)の大切さ、それは人間一人一人の尊厳としての自主性と同一のことがらであったし、それが織りなす社会的関係性(恋人、夫婦、親子、友人、労働や政治の関係等等)の大切さ、そしてこのような関係性を通じての大地、自然、宇宙とのいのちの契合、循環、代謝関係の大切さであった。総じて人間自主とそれに基づく関係性の変革、であった。

それはこの3人の著作の中に奇しくも共通的に貫かれて居たのであった。
一人一人生きる民衆の命の尊厳、自主と協同性の尊重、発展、それ故のこの本性と対立する暴力、戦争の否定、非暴力が21世紀の変革の基本骨格であることを3人の女性達は奇しくも共通に語っている居るのである。

 このような思想、世界観を否定するスターリニズムへの憎悪とその拒絶、3人のしなやかさ、とらわれなさがマルクス主義の超克、訣別を辛い、厳しい体験を通じ、やり遂げていると言うことである。

 僕流に言えば所有関係、階級闘争も重要だが、それ以上に重要で規定的なものは、人民大衆を中心とした人間のいのちと自主性、共同性、愛ある関係性、それを実現する諸個人の役所、居場所のより大切さである。

 マルクス主義は所有関係と人間疎外、経済的不平等とそこからの階級闘争を説くが、階級闘争至上となり、決して人間の尊厳性や愛を根拠づける原理をその世界観の中に有していない。

 その原理は人間疎外、人間解放から出発しているようで、終局は労働疎外、階級闘争至上に短絡され、人間憎悪と暴力、殺人を正当化して行く。これは唯物論的人間観の限界であり、この限界を突破し相対化する人間観は人間を世界との関係で「自主的な社会存在(共同存在)」としてとらえ、人間を信頼や愛を求める存在と捉えられないからである。

スターリニズムの問題は決して過去の問題ではない、「連合赤軍」の過ちは毛沢東思想が引きずっていたスターリン主義の問題であり、「よど号」のその後の過ちもスターリン主義の闇から起こってきた問題である。重信さんはそこから比較的自由な人であったがスターリン主義やマルクス主義の限界に苦しめられざるを得なかった。 

 永田さんの問題は決して永田さん個人の資質、性癖によるものではなく川島君や中国共産党が引きずっていたスターリン主義の問題である。このことはこれまで殆ど総括運動の視野から排除されていたが、ここに「連合赤軍問題」の基本原因があると言っても過言ではありません。

 八尾さんが自己批判し、戦闘宣言を発している相手も又朝鮮社会の引きずる連合赤軍問題よりより幾千倍も深く、その先に極限的に完成されている朝鮮に独特化される朝鮮民族の革命的民族思想、チュチェ思想をかき消すほどの、スターリン主義の闇であり、彼女はそれを男女の愛、親子の愛の全くの破壊、破産の苦しみの中から身をもって知ったのである。

 よど号の同志達も又そのくびきに呻吟し、もがき苦しんでいるのである。
2,ナレーションはそれ程あくどいものではないが、3人の「罪の深さ」をいい、それを彼女たちの革命的ラジカリズム、赤軍派のラジカリズムの所為に求める。
 所々に「罪人」の認識をちらつかせる。 
 「日テレ」は決して彼女らをラジカリズムに追いやった、あらゆる罪の根元とも言える資本主義、アメリカを始めとする資本制帝国主義の罪悪、或いは当時のベトナム侵略については述べず、自らの社会的存在、地位の「罪深さ」については触れようとしない。

 まるで自分たちの方が人間的に優れ、高尚な存在であるかの如く振る舞う。人民大衆、庶民の立場に立って居るかの如く振る舞う。

 このような態度はどうしたものであろうか。もっともっと思想的研鑽が必要と思われる。

 僕は元赤軍派議長の看板を掲げ続けている者であれば、この種の番組が提出されるたび毎にいつもこれとの対決を迫られ、時にはたじろくこともある。当時の思想的至らなさに恥じ入ることもある。

 しかし、当時の闘いの歴史的正当性を疑わないし、マルクス資本主義批判については捨てようとは思わないし、又自己の個人主義、実存主義の限界、利己主義を今到達している人間自主論の見地から見つめ続ける。

 又、島成郎書記長に始まったブント・新左翼、そして赤軍派のラジカリズムを恥じようとは決して思わない。そこには戦後日本人青年達の最上の精神、「ピュアーなスピリットと良い意味でのロマンティシズム、合理主義、創造力、リアリズム」が脈打っていた。この精神は維新の志士、戦前共産党員、2/26の青年将校達、特攻隊の青年達の精神ーー総じて日本人の持つ最良の民族的精神を継承したものと思う。

 そして、赤軍派が目指していた国際的思想的、政治的目標が決して「地上の楽園」とその「イディオロギー」ではなくチェ・ゲバラやフィデル・カストロの精神であったことを言っておかなければなりません。

 わが兄事する二人の革命家の思想と行動は世界に於いて最も最良質の思想ではなかったか。ところが、われわれ赤軍派がキューバを目指し居たのではなく、始めから朝鮮を「地上の楽園」と思いこみ、それを最終目的地であったかのごとく偽造する。これは歴史的事実と違った歴史の偽造であり、極めて悪質である。

 僕はこのようなラジカリズムの不徹底を恥はすれ、ラジカリズムそのものを恥じようとは思わない。

 「ピュアーなスピリットと良い意味でのロマンティシズム」のラジカリズムこそが、支配階級や日本社会の腐敗を敢然として摘発し続け、国と民族、人民大衆の危機の際は地の塩となって発動して行くのと思う。

 この良き感性、思想性、倫理観、認識能力を日本の文化の最良のものとして捉え返し、外国文化の正反をしっかり吟味し、自分に合ったものとして摂取しきれなかっったことこそ反省すべきであったと思っている。このことに於いて我々赤軍派の未熟性は歪みを生じさせざるを得なかったのである。

 だがらこそ、赤軍派やその女性達の真摯さ、高潔さ、強烈な魅力、そのラジカル性を憧憬しつつも、その本質が何者であるかについては深く省察仕切れず、トドのつまりは「罪深い人々」として切って捨てようとするこのような態度はいかがなものであろうか。

 この思想の流れが命と人間の自主の尊厳、愛と信頼、非暴力、日本人らしい現代にあった、パトリオティズム(愛郷主義、愛国主義)と国際主義の潮の源流であることを自覚しようとしない、のである。

 この辺のことを企画者、脚本家、プロデューサー、ディレクターは一考すべきでなかろうか。

3,中野裁判長等の永田さんになした「権力欲」や「嫉妬癖」等の「資質論」への植垣の批判、寂聴さんの永田さんの判決後の不屈の総括運動堅持と贖罪への理解の訴えは全く正当であるし、まだまだ弱点はあるが「氷解」の思想的営為をディレクター等が評価しているのは正鵠である。又「16の墓標」等が自己弁護の裁判用として、事実に違反し、虚偽をもって、殺された12(14名)を再度「山」に続き、法廷でも汚したり、必要以上に森君に責任が集中し、連合赤軍問題の真の思想的、政治的要因、毛沢東教条主義、スターリン主義の要因や自己権力のための無原則野合「粛清」の直接の要因をかき消している、ことを指摘しようとしているのは正しい。

 つまり、ナレーターは永田さんの不屈の反省活動を高く、評価しつつも「16の墓標」のような事実報告は改められ、真実の事実報告が待たれる、と述べているのである。

 人間自主の哲学が未完な場合、それを女性の自主、自立として追求するのは女性の場合、必然性があり、永田さん、八尾さんがこの問題にしつこく期せずして拘っているのは男の僕として十分了解できる。

 しかし、重信さんがこのような態度を取らず、真っ正面から人間自主、人間中心主義、関係性の変革、非暴力を問題にして行くのは、彼女がこの問題に無自覚と言うことではなく、反対に既にそれをクリアーし、自主の関係、環境を創ってきたからに他ならない。彼女はこの関係、環境の下でメイさんを産み、育てこの母子関係の中でさらに自己を成長させてきたと言える。

 とは言え、重圧は永田さん、八尾さんの側に重くのしかかり、彼女たちはそれと闘わずしては人間自主、自立に至り得なかったことを指摘せざるを得ない。

 どういうことか?

 永田さんは比較的男女関係が自由で、おおらかなブントや赤軍派と違って、「正統派マルクス主義」の日共系や中国派の家父長的、官僚主義的女性差別と現実に闘わざるを得なかったからであり、八尾さんに至っては朝鮮儒教「社会主義」の強烈な男性中心主義の政治と存在を賭けて闘わなければならない過酷な現実があったからである。

 八尾さんはこの闘いの中で自己の思想を研ぎ澄ませてきているのである。

 彼女の権力への態度など決定的問題を感じるが、八尾さんが突破した関門の前には、未だその関門を突破し得ず、その門の下でもがいている朝鮮儒教「社会主義」の下で苦闘している「よど号」のかつての女性仲間や娘達が居るのである。それは、今のところ日本中心に適応するのか、朝鮮の家父長秩序を優先させるのかの「帰国問題」に爆発して行っている。

 「よど号」の娘達のイディオロギーから文化に至るカルチャーショック、父親達の歪められざるを得なかった歴史の重圧は計り知れない苦しみを彼女たちに課している。

 しかし、これは八尾さんの正の面である。彼女には他の二人の女性革命家に比べ、権力に屈服して、反スターリン主義に挺身する暗い過去があり、いわば「反帝国主義なき反スターリン主義」、帝国主義反動の側面が濃厚にあり、その「女の自立」論は歪んでおり、手放しで評価出来ない。

 だからこそ、僕は彼女の本、「謝罪します」が具体的叙述であればばこそ、「よど号」グループに具体的事実において反論することを要求したが、他方では八尾さんの記述については検証作業が必要なことを強調してきた。本当に何処に落とし穴が隠されているか分からないのであり、にわかに真実としてそのまま採用するわけにはいかないのである。

 それと同質の問題として、彼女の「強制結婚論」について、彼女一人の問題として扱うだけでなく、それを「よど号グループ」全体の結婚にまで拡張しようとしているのについては、全くナンセンスと考える。福井さん、水谷さん、森さん、金子さん、黒田さん等、他の女性達がなんで恋愛感情なしに結婚したと言えようか。強制結婚でなんであんなしっかりした家庭が築けようか。彼、彼女、子供達への全くの侮辱である。

 彼女の離婚をとやかく言うつもりはないが、この「強制結婚論」が基本的には権力への屈服を境に提出され、それ以前はことさらの主張ではなかったこと、屈服以降の彼女の政治的思想的立場からそれ以前をあと付けて、出てきていると言うことである。

 だからこそ、彼女の娘達はその政治的、思想的立場を批判し、「親子の縁を切る」とまで言わざるを得なかったのである。

 八尾さんの「」女の自立」論にはこのような暗さが伴っていることをしっかり見ておかなければならない。

 この問題にまで踏み込めば、番組はより有意義であったろうが、そのことには全く触れて居ず、それを手放しで礼賛する態度である。

4,重要な事実誤認が1つあった。それは僕ら赤軍派が「地上の楽園」、朝鮮国を自己目的に目指していたとナレ−ションがあるが、僕らはゲバラ・カストロに憧れ、キューバを目指していたのであり、反スターリン主義者として当時も 「朝鮮国」を見ていたのである。

 また有本さんの母堂の行動、ご夫婦の安部君等との画面対決の中に、ご夫婦の子を思う痛酷さと安部君等の「知らぬ存ぜぬ」の態度の何とも言えぬやるせなさを感じたのはたして僕だけであろうか。真実を話しつつ、自主帰国してほしいものである。

 あなた方の「雁は帰る」に秘められた、言うに言えぬ万哭の想いはしっかりと伝わっているのである。

 「現代コリア」の人達が顧問となり、解説もやっているが、唐突で目立ち過ぎ、番組に禍々しさ、おどろおどろしい雰囲気を醸し出すことになっている。一体何故事件に関係のない「現代コリア」の人々が知ったかぶりに出てくるのか。もっと広く、深い「朝鮮論」「日本論」が必ず必要とされてくるであろう。

 それにして日本独占資本主義が、過去の人民大衆の闘いの歴史的意義を清算し、彼らの歴史を正当化しようとする、根本的意図の完全な限界孕むものの、このような包括的な番組が実現したことは、戦後史を深く総括し、21世紀の日本と世界の将来を占って行く上で良い刺激となるであろうと言うべきであろう。

                   12/25(水)