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BSフジの番組に出演しました

有意義な論戦が出来ました。

2010年 1月20日

塩見孝也


1.去る1月15日に、BSフジ Prime News 『徹底総括! 全共闘運動 いま語る40年前の真実』という番組に出演しました。番組を通じて、僕(塩見)のメッセージ を、いろんなシフトを打ち破りつつ、論戦に勝利して日本全国の視聴者に届ける事において、圧倒的に成功したと報告できます。
 
「ゲスト:塩見孝也 元赤軍派議長
     表三郎  元大阪市立大学全共闘議長・予備校講師
     小浜逸朗 評論家・国士舘大学客員教授

  司会:反町理(フジテレビ政治部デスク)
      島田彩夏(フジテレビアナウンサ−)
 
 解説キャスタ―:小林泰一郎(フジテレビ解説員)」

となっており、20:00〜21:55の二時間番組でした。僕は論戦の合間、合間で、わが「9条改憲阻止の会」の意義や活動状況、僕が清瀬駐車場「クレア」でシルバーとして働いていることやミクシィをやっていることらの報告も忘れませんでした。
トークは9コーナーと別れ、前回紹介したのに、さらにいろんなテーマが盛り込まれていました。

 1:ゲスト紹介、挨拶、テーマ紹介
 2:なぜ全共闘運動に駆り立てられたか?関わり合いと当時の雰囲気
 3:VTR「東大安田攻防戦〜全共闘最盛期」、全共闘世代はなんとどう闘ったか?
 4:なぜ全共闘運動は急速に衰退したか?
 5:VTR「赤軍派〜よど号〜山岳ベース、〜浅間山荘」、赤軍派結成&連合赤軍とは何であったのか?赤軍派はどういう道筋で
  改革を成し遂げようとしたのか?連合赤軍・リンチ殺人、連合赤軍とオウムの共通点とは?
 6:全共闘世代の功罪とは?企業戦士となった多くの全共闘世代について。
 7:全共闘世代が今の若者達に伝えるべきことは?現代の若者について。全共闘世代は今後、次世代に何をなすべきか?
 8:提言!定年後の全共闘世代かくあるべし!3人それぞれの
 9:メール紹介、エンディング

 以上の構成でした。トークの時間は、コマーシャルが可なり入りましたので、正味1時間10分〜20分位ではなかったでしょうか。トーク、論戦の関係から、番組はその通りに割り振られたものの、突っ込んだやり取りもあれば、テーマに沿って言っておくべきことで、言い落とすようなところも出ましたが、これは自然の成り行きですから仕方ないにして、全般的に見れば、全体のテーマに即し、相当踏み込んだ内容の迫力あるトーク、論戦になっていたと思います。いくらかのファックスやメールなどの小細工、ある種の誘導も感じられましたが、全体的にはトーク、論戦の流れに沿うもので、僕も縦横に語れ、こういった機会を与えてくださったBSフジテレビとこの番組の司会者、プロデューサー、ディレクタ―、スタッフの方々に感謝の意を表明したいと思っております。



2.いろんなシフトを打ち破り、今回の論戦に勝利できたと思います。

 結局、基本テーマは全共闘運動の評価、赤軍派の各闘い、ブントら新左翼、特殊には連合赤軍事件の評価が加わった、全般的な60年代、70年代のブント、全共闘―新左翼運動の総括となったこと。ここにおいて、あわよくば僕を火達磨にして撃沈するというのが、小浜氏―フジ側の作戦だったかもしれませんでしたが、そこを打ち破って、この全共闘運動、安保闘争、赤軍派らの武装闘争の戦いの歴史的意義と限界を鮮明にし、さらにその意義を、恐慌、不況の現在の経済、政治危機との関連で、最照射し、パラダイムの違った立場から(それは、この40年間で、ほぼ確立してきていましたので)評価しなおす僕の作戦はほぼ成功したと思います。

 この番組が90年代に企画されたなら、僕は主体的には確固不動なものの、客観情勢を加味すれば分が悪かったでしょうが、情勢、時代が変わり始めている現状では、僕の総括は光を放つものになっていたと思います。

 歴史の評価は、常に現在に引きつけられ、そことの課題解決においてなされるものであります。

 フジ―小浜氏の主張は、80年代、90年代、いわば小泉―竹中時代に引きつけて、70年闘争を見、否定するものであり、僕や表氏の主張は、その時代が終焉した、その後の時代、世界恐慌と長期不況の現在に引きつけて、それを評価してゆくものであった。「いわく、大菩薩峠の軍事訓練では、一人だけ、逮捕されないで逃げた奴がいる。梅内恒夫だ。」こういうのは検証されていず、嘘か本当か、分らない。

 もとより、この時代について何の定見も持たない小浜―フジ側は、もう言い古された80年代、90年代の総括を再度持ち出し、僕や表氏の主張にケチを付ける様な代物でしかなく、作戦通りには行かないであろう事も想定していた様にも思え、僕の話も聞いて、学んでゆこうという姿勢も感じられました。

 あまりに僕の独壇場になりすぎるのもまずいと思ったのか、けちを付けて食い下がる仕掛けにしたようにも思われます。僕はこの事情も踏まえ、徹底的に攻勢的、<挑発的に>出たのでした。



3.僕としては、自己批判すべきことは自己批判し、取るべき責任は監獄20年も含め取って来、その中で築いた新しい立場から、当時の闘いの歴史的意義と限界を真正面から主張したこと。

 表さんとのコンビが堅牢なものとしてあり、氏は独自の立場で発言されたわけですが、僕の立場からすれば、僕の足らざるところを補って下さる形にもなり、非常にありがたかったです。

 小浜氏の諸説は、80年代〜90年代の資本―体制側の定石的主張の繰り返しで、みすぼらしさを露見させるもので、失礼ですが、今回の「論戦」の相手としては、力不足といわざるをえませんでした。

 小浜氏の主張は以下の様なものだったと思います。

a,60年安保闘争は、統一戦線が組まれ、全国民的な戦いであったが、70年安保闘争は、学生達だけであった。それも、数は少なかった。<生活から離れた>、急進化した闘いで大衆性は減じてしまった。ラジカリズムが本来のラジカリズムとしてあったわけではなく、だから、急速に退き潮になり、学生達は企業戦士になっていった。

b,大菩薩峠軍事訓練・首相官邸占拠闘争は、戦前右翼の2.26のクーデタ事件に似ているし、北朝鮮を目指した<よど号事件>は反スターリン主義を掲げる赤軍派の理念に反している、ブント―新左翼運動は、連合赤軍事件に、<完全に帰結を見た>とは言わないが、やはり<帰結>した。

c,このような事態の中で、自分(小浜氏)は転向し、資本主義を肯定し、<現実主義者>となった。今の青年達は、この<現実主義>の枠を抜け出しえない。塩見は小浜氏に再転向すべきとアドバイスしたが。


 僕の反論は以下です。

d,赤軍派、第二次ブントは60年安保ブントの継承者としてあった。大衆性とラジカリズムを共に持っていた。60年安保の質とは違う<武装闘争と国際主義>の地平に到達し、それに挑戦し、戦い、敗北し、理想、目標を未完のままにして、後退した。

 この闘いは60年安保と違って、日本資本主義が高度成長・安定成長を始め、総評、原水禁運動、社共が体制内化し始めた60年末から70年代では、仕方がないことで、しかし、その右傾化を補って余りあるものとして、国際的民衆闘争の高揚がありました。

この闘いは、ベトナム反帝・反植民地闘争、ゲバラの呼びかけ、アメリカ、フランス、ドイツら先進国<スチューデント・パウワー>、黒人、先住民解放闘争、中国文革。チェッコの「プラハの春」に「過渡期世界」認識、世界同時革命(三ブロック同時革命)、「国際主義と組織された暴力」で捉え返し、呼応するものでした。

 小浜氏は、この国際階級闘争との結合から来る、<スチューデント・パワー>の大衆性、急進性の合理的根拠を全く無視しています。

<革命的敗北主義>の主張をしていた。好況期という歴史的限界と主体の未熟性故に、敗北は必死という認識を持っていた。負けるべくしてある戦いでも闘う必要がある時はあるのである。やがては訪づれる未来の魁として。又、未熟な戦いでも、労働者的とは言わないまでも、ヒューマンで、先駆け的な戦いは存在する。奥平君たち3人のパレスチナ民衆と連帯せんとする正に無私の革命的敗北主義としてのリッダ闘争、ハイジャック戦術は間違いだが、実際的に乗客を傷つけず貫徹されたよど号闘争(その後は、全く別と捉えているし、朝鮮径由で、カストロ・ゲバラのキューバに行こうとした。)。ザルで水漏れ多きものでしたが、大菩薩軍事訓練―首相官邸占拠闘争の果敢な闘争。

 このような闘いについて、<武器を取るべきでなかった>、といい70年闘争と武装闘争を、<小ブルの坊ちゃん、お嬢さん達の悪ふざけ>と悪態を吐き、歴史の単なるエピソードとして、葬り去らんとすることは許されません。

 「良く戦い、敗北した軍隊こそ、良く学ぶ」という真理にしたがって、その限界の責任を真のマルクス主義にパラダイム転換しつつ、主体的に自己否定しつつ責任をとり続け、過去の教訓を、現在に活かし、実践して来ている人々は存在する。

 こういった人々は、少数者であったかも知れないが、<哲学が哲学としてある限り、効果を持たないが、ひとたびその哲学が、プロレタリアートの心臓に収まるや否や巨大な力を発揮する。(マルクス)」のごとくなって行く必然性がある。

●ただし、連合赤軍事件は赤軍派の思想的流れとは断じて違う。一緒にしてもらっては困る。あの事件は、日本の毛沢東思想教条、中国党盲従の人々が、スターリンの粛清論を日本に持ち込み起こした事件であり、赤軍派には全く関係ない。

 塩見ら獄中赤軍派や日本共産党神奈川左派の獄中川島派に隠れ,路線や思想が全く違うのに、「毛沢東思想支持」、「銃による殲滅戦」を看板に<弱さの、路線の一致なき野合><新党>を永田さんヘゲで捏造し、「新党」結成反対派を<共産主義化>のベールを被せつつ同志を抹殺したのがこの事件であり、決して赤軍派の成した事件ではない。塩見などは、全く関係ない、塩見などが批判するスターリン主義の犯罪的性格、ポルポト事件などと同質性を有す事件である。自分の頭で考え、自分の言葉で語り、行動しえなかった、日本の共産主義運動,民衆運動の戦前からあった伝統的な国際権威盲従主義の体質的弱さに基づいて発現したものである。

 僕ら赤軍派やブントの総括の基本テーマは<小ブル急進主義の克服、プロレタリア革命主義へ>であって、連合赤軍事件はこれとは全くの別枠の<スターリン主義の犯罪性の批判、克服>という問題であり、これを混同しては絶対にならない。これを、混同すれば、赤軍派―ブント―新左翼運の総括は出来なくなってしまう。権力、支配階級と民衆の中の武闘教条主義、武闘清算主義の「左」右の日和見主義は、これまで、この二つを混同させ、正しい総括運動の前進を全力を挙げて阻もうとして来た。

e,自己否定、自己止揚の根本的な視点は、マルクス資本主義批判―プロレタリアートへの信頼、プロレタリアート各諸個人の自主性の涵養とそれと一体に民衆自身が協同、協働、共同の関係を創出して行き、資本主義を止揚してゆく、ことである。

 <死ぬ覚悟は出来ていた。殺される覚悟も出来ていた。しかし、殺す覚悟は出来ていないところはあった。軍事至上主義に流れた傾向はあった。なぜか。>

 人の命の大切さ、殺さない事、非暴力は僕らの革命の最高、最大限の理念である。しかし、情勢に迫られれば、<政治の延長の軍事>として、武器を取り、闘い、殺す事もやらざるを得ないし、それこそが、民衆解放の正しい方針となる情勢、時代の到来を否定しない。

 本当に「死ぬ覚悟」が出来ておれば、無抵抗な日和見の非武装主義でもなく、政治、人民の意識水準を無視した軍事至上主義の両極を超え、真に人民に立脚する政治と軍事を創出しえ、駆使しえる。そして、民衆は死ぬ事を恐れず、それを、支持しえ、その主体となって行く。

 それでは、死ぬ覚悟とは?マルクス資本主義批判に立脚し、民衆の利益を代弁し、その実現のために戦う死生観のことである。その方途を、情勢と民衆の動向の中で、見極める思想性、科学的な世界観、分析力、総体としての正しい判断力とそこにベースを置く意志力から生まれる。そういう意味では、当時の僕らを振り返れば、死ぬ覚悟は出来てもいたが、他方で、出来きれていなかったとも言える。

f、現在情勢にひきつけて、70年闘争と武装闘争を捉え返して提出しなおした事は圧倒的に衝撃力を持っていた。

学生民衆は60年安保型ではないが、立ち上がっていた。労働者は既に 体制内に取り込まれかかっていた。反戦青年委員会とプロレタリア国際主義の路線で、対応したのは正しかった。

 資本主義が好況を続ける限り、民衆は取り込まれてゆくが、それが不可となれば、革命を承認してゆくようになる。

 80年代、90年代はやむなきところがあった。思想的、政治的、理論的節操を守る事。守りつつ、後退戦に対応してゆく。そして、危機が来れば正規の陣形に戻してゆく。客観的条件と主観的条件を分け、客観的条件を見ず、主観的条件のみで情勢に対応しえるとするのは、それこそ、主観主義である。その上で両者を綜合して捉え、対応してゆく。資本主義批判を役立て行く。
 あれから40年の長き後退戦があったが、いまや、世界恐慌、自民党体制の破綻、民主党の明白な限界の露呈、マルクス主義、社会主義、戦後民主主義の活用、止揚の正しさが証明されつつある。

 70年安保闘争の闘いの歴史的限界とその責任は、本当は日本(と世界の)の資本主義、資本家階級にこそあった。今、そのことが明瞭になりつつあるのである。責任を、民衆側に持ってくるやり方の間違いは、いまや明らかである。



4.終了して。

 フジの反応は、フランクであったと思います。終わって表さんと彼の教え子の学生達と飲みました。この人々との間で出来上がりつつある、連帯、結合の関係は新しい日本と世界の未来を切り開いてゆく力になって行くものと確信しました。僕は、翌日の駐車場の労働があり、相当語り明かした後、帰宅しました。楽しかったです。表さん。ありがとう。



塩見孝也