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資本論 第1部 資本の生産過程 第2章「交換過程」

抜粋と僕の理解に基づく解説

2010年 1月18日

塩見孝也


1.この編の「資本論」における、部、編、章、節らの編別構成の関係把握から確認してゆきましょう。

 僕らは、第1章「商品」の章の1〜4節でもって、マルクスの「商品論」を読み合わせ、研究してきました。この全4節で、彼の言いたい「商品論」のガイストは、言い尽くされているわけですが、この二章で彼は、その成果の上に、彼の「交換過程」の分析、認識を展開して行きます。

 僕らは、この章を読み通してみれば、いきなり「交換過程」を分析しようとしてみても、第一章の「商品の二要因」「商品に表される労働の二重性」、そして、「価値形態」の分析、さらには、「商品の物神的性格」の分析、それに基づく、諸概念規定なくしては、「交換過程」の分析は正確になされてゆかない事がわかります。

 第1編は、「商品と貨幣」というタイトルであるわけですが、これまで読んで来た「商品論」の第一章とこの二章「交換過程」論と三章の「貨幣または商品流通」の3章構成でもって終わります。

 一章の分析手続きを終えれば、彼の「交換過程」の基本観点、展開方法、展開の構造は極めて明瞭に見えてきます。さらに、現実に、今一歩上降したものとしての、実際の商品経済に近づいた「貨幣や商品流通」の実体的な姿、認識も見えてきます。

 マルクスは、それを、貨幣の機能としてa,価値の尺度、b,流通手段、さらに貨幣の態様としa,蓄蔵貨幣b,支払い手段、c,世界貨幣として説明してゆきます。ここでは、価値と価格の概念的違いも言われるようになって来ています。

 ここまでくれば、資本主義商品経済の「資本の生産過程」を分析してゆく下工事はすべて完了してゆきますから、3,4,5,6、7の諸編の「絶対的剰余価値の生産」、「相対的剰余価値の生産」「「絶対的相対的剰余価値生産」、「労賃」、「資本の蓄積過程」に移ってゆけるわけです。
 もちろんマルクスは用意周到に、「何故、貨幣が資本に転化してゆくか」、を解析した「貨幣の資本への転化」の分析をやり、「資本の生産過程」に結節させてゆく、結節的編「貨幣の資本への転化」の編をちゃんと書いていることも忘れてはなりません。

 ところで、この「交換過程論」では、「価値形態論」でマルクスが展開した同じ分析、検証手法、論理や歴史的記述が使われており、両者は、同じではないか、あるいは、一緒にして展開したら良いではないか、極端な意見としては、「交換過程論」は必要でないのでは、とかいった感想すらも出てきます。

  先ず検証の目的が違います。

「価値形態論」はあくまで「価値形態」の検証であり、「交換過程論」はあくまで「交換過程」の分析、検証で、検証のテーマが違っているのです。又「交換過程」は、「価値形態」の検証抜きには、検証できない検証目的のレベルが違います。  

 ですから、<同じ分析手法、検証の論理や歴史的記述が使われ>ているにしても、その使用目的が違っていると考えるべきです。
 このことは、より上向した「交換過程」の分析でもある第三章の「貨幣または商品流通」の章が、第二章抜きには、語りきれない内容であることでも明らかです。



2.さて、この章のマルクスが言いたいポイントを列挙してゆきつつ抜粋して,若干の解説を加えてゆきましょう。

、商品交換における人と人の関係を、唯物弁証法者らしく、又、これまでの革命的なプロレタリア経済学思想家、学者らしく、商品交換の性質、つまり「商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけという事情」に即しての相互主義における平等の観点、あるいはこの事情において人の役割は、人が感覚で補完してゆく関係としてマルクスは捉えています。

 「商品は自分で市場に行くわけには行かないし、自分で、自分達を交換しあうことも出来ない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。商品は物であり、したがって、人間に対して無抵抗である。もし、商品が従順でなければ、人間は暴力を持ちいることが出来る。言い換えればそれを捉まえることが出来る。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分達の意志をこれらの物に宿す人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただただ同意の下にのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介してのみ、自分の商品を手放す事によって、他人の商品を自分の物にするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければならない。」

 このように、マルクスは商品所持者を、<商品の番人>として捉え、経済的な物質形態である商品が主体であることを鮮明にし、「人々の経済的粉装はただ経済的諸関係の人化でしかない」「商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけという事情である。だから、商品は生まれながらの平等派であり、犬儒派である」ことを鮮明にしています。
 以上の事柄は、これまでの商品交換の認識に照らせば「<交換価値の素材的の担い手>でしかない使用価値(自分にとっては、なんの有用性、使用価値でない)保持者」、言い換えれば「交換手段としての使用価値」をもっている><商品の番人>Aと「非使用価値保持者の商品の番人B」の関係は、両者が相互に自己の欲求を満足させねばならず、この点において、双方は相手を認め合わなければならず法律以前に、法律と関係なく、経済関係において相互主義の関係に立っている、ことを意味します。

  商品と商品の関係とそれを所有する人(と人の関係)を「商品所持者は、商品体に欠けている、具体的なものに対する感覚を、自分自身の五つ以上もの感覚で補う」こういった人間の五感以上で補う、商品(交換)の補完者として位置づけています。

 「見苦しいマリトリネスは、それ故に心だけではなく体まで交わそうといつでも用意している」この比喩の中に、相互主義と人の補完性質の関係は見事に表現されています。

、商品交換の原理と構造をマルクスは次のごとく規定します。

,「すべての商品は、その所持者にとっては、非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから、商品は全面的に持ち手を交換しなければならない。そして、この持ち手の取替えが商品の交換である。」これが、マルクスの交換の規定といえます。

,「商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。
  商品は使用価値として実現する前に、価値として実現されなければならないのである。他方では、商品は、自分を価値として実現する前に、自分を使用価値として実証しなければならない。」これが、マルクスの交換の構造の原理的認識といえます。
、ある広さと深さの商品交換の発展段階に達しつつある臨界における商品交換の矛盾を<交換の個人的性質>と<一般的な社会的性質>の矛盾として理論的、論理的に捉え、その解決策が<一般的等価物>としての商品の創出、すなわち貨幣の創出の必然性を次に語ります。

,「どの商品所持者も、自分の欲望を満足させる使用価値を持つ別の商品と引き換えでなければ、自分の商品を手放そうとはしない。その限りでは、交換は、彼にとっては、ただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気に入った同じ価値の他の商品でさえあれば、その商品所持者にとって、彼自身の商品が使用価値を持っているかどうかにかかわりなく、どれとでも実現しようとする。その限りでは、交換は、彼にとっては一般的な社会的過程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時に個人的でありながら又同時にただ、一般的社会的であるということはありえない。」ここが商品交換における、 ここが更なる商品交換の飛躍のための矛盾点であり、それを捉える理論的、論理的問題設定といえます。

、つまり「どの商品所持者にとっても、他人の商品は、どれでも、自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品は、すべての他の商品(から見れば)の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがって又諸商品は互いに価値として等置される価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態を持っていない。したがって、又諸商品は、決して商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである」
 これは、上述の商品交換の発展における矛盾点を、マルクス概念から言い直した把握といえます。

、この回答として、「大初(はじめ)に業(わざ)ありき。考える前に既に行っている。――――――彼らが自分達の商品を互いに価値として関係させ、したがって又商品と関係させることができるのは、ただ自分達の商品を、一般的等価物としての別のある一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析で明らかにした。(「価値形態論」の第3形態、<一般的価値形態>のところ、いわゆる「ひっくり返す」「逆にする」のところ、塩見註)この社会的行為のみが、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他のすべての商品が自分達の価値を全面的に表すだけである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態となる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会機能となる。こうして、この商品は―――貨幣になるのである。」
 「貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が互いに倒置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の必然的産物である。」

、「交換の歴史的な広がりと深まりは、商品の本性の中に眠っていた使用価値と価値の対立を展開する。この対立を交易のために外的に表そうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それ故に労働生産物の商品への転化が実現されるのと同程度に商品の貨幣への転化が実現される。」この論理をマルクスは何度も使用しますし、僕もこのことを何度も強調しました。マー、僕らにとっては御馴染みのマルクスの論理といえます。

 以上の矛盾の問題設定とその解決策の必然的現出のプロセス分析は「価値形態論」で彼が展開した問題設定、その論理、構造の抽出、必然的解決策、歴史的過程の基本素描は全く同じです。

 「逆にすれば―――」と「排除された第3の商品」についてはP123 〜p125、p130の「形態3」らで言及しています。

 必然的解決策につきましては、「価値形態論」P117のところで以下のように彼は簡にして要にまとめています。

 「商品Bに対する価値関係の中での商品Aの価値表現の一層の詳しい考察は、この価値関係の中では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められていることを示した。つまり、商品のうちに包み込まれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係の中では、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にただ使用価値としてのみ認められるのであり(等価形態のこと)、これに対して、それで価値が表現される他方の商品(相対的価値形態のこと)は直接にはただ交換価値と認められるのである。」

  この<自分の>と、<それで>が、抽象化された二つの価値形態(等価形態と相対的価値形態の関係)の理解のうえに、この二つの価値形態の関係がさらに抽象化されつつ概括されていますから、すぐの理解困難性を僕らにもたらしますが、―まー、分ってみればたいしたことはないのですが―この概括にこそ、「価値形態論」のエッセンスが凝縮されていると考えても良いと思います。

 又、少し先走りますが、次の第3章の「商品または商品流通」の「商品の変態」P188で「諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、この矛盾を解決しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくり出す。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。」こんな具合にも解説しています。

  既に確認して来ましたように、一章三節の商品経済関係の発展の歴史に応じた価値形態の発展の歴史を検証して行ったやり方と2章のここでの交換過程の歴史的発展の内容は全く同じで、もうここでは抜粋して繰り返しをやることは避けますが、以下4点ぐらいは新しく叙述され、付加されていますので、以下4点ぐらいを新たな留意点として書き留めて起きます。

,一般的価値形態として、古代では奴隷として、遊牧民の間では、家畜が使用され、常態化したと思えば、又消えていったことも指摘され、18世紀には、土地がそれに当てられたことも指摘されています。

,「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する地点で、始まる。しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品となれば、その反作用的に内部共同生活でも商品となる。諸物の交換割合は、最初は全く偶然的である。」P161

,少し議論になった物々交換を巡る問題、それが商品交換に入るか、否かにつきましては、P168 に「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝縮されている他の各商品の量で表現される。このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる。」と記載されています。

,これまで、「交換過程」理解で議論になってきたと思われる「困難は貨幣が商品であるということを理解することにあるのではなく、<どのようにして、なぜ、なにによって>、商品は貨幣であるのか」につきましては、以下のように捉えられるのではないでしょうか。

 つまり、「どのようにして」(二)のb、「なぜ」が(三)のa,b「なんによって」が(三)のc、dではないかと思います。



3.次に貨幣についての分析です。

,「金、銀は生来貨幣ではないが、貨幣は生来金銀である」「これは金、銀の自然属性が貨幣の諸機能に適しているからである、つまり諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として役立つという機能を有しているから。」「どの一片をとってみてもみな同じ均等な質を持っており、他方価値量の相違は純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割する事ができ、その諸部分から再び合成する事が出来るものでなければならない。ところが、金、銀は生来これらの属性を持っているのである。」

,「貨幣商品の使用価値は二重になる。」「奢侈品としての使用価値、他方での独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値」の。
 「他のすべての商品は、ただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は一般的商品としての貨幣に対して、特殊的等価物諸商品として相対するのである。」「交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなく、その独自な価値形態を与えるのである。

,ここから二つの誤りが生まれる。一つは、金銀の価値は想像的であるという認識、もう一つは、貨幣は一定の諸機能において、それ自身の単なる商標によって代理される事ができるので、貨幣は単なる商標であるという誤った認識を生み出す。



4.以上の「交換過程の分析」「貨幣の分析」を持って、マルクスは、第一章の4節、「商品の物神崇拝(呪物崇拝)」を、「貨幣の物神崇拝」として、この「交換過程論」で「画龍点睛」します。

 「われわれがみたように、既にX量の商品A=Y量の商品Bという最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表されるところの物、その等価形態をこの関係にかかわりなく社会的な自然属性として持っているかのように見える。われわれはこの間違った外観の固定化を追跡した。この外観は、一般的価値形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合すれば、または結晶すれば、既に完成している。一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表すのでは初めて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分達の価値をこの一商品で表すように見える。媒介する運動は、運動そのもの結果では消えてしまって、何の痕跡も残していない。諸商品は、何もすることなしに、自分自身の完成した姿態を、自分の外に自分と並んで並んで存在する一つの商品体として、眼前に見出すのである。これらの物、金、銀は、地の底から出てきたままで、同時に一切の人間労働の直接的化身である。人間の社会的生産過程における彼らの単なる原始的行為は、したがって又彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人行為に係わり合いのない物的姿は、先ず第一に、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということに現れるのである。それ故に、貨幣物神の名時は、ただ商品物神の謎が人目に見えるようになり、人目をくらますようになったものでしかないのである。」p169〜170。

 二つの下線の最初の内容が、「商品の物神崇拝」の内容であり、後者の下線のところの内容が、「貨幣の物神崇拝」の内容を指します。
 1章4節では、価値形態から物神崇拝の根拠、発生と展開構造、その特性をマルクスは説かざるを得ませんでしたが、それゆえ、全体的、総合的な展開の説明とならざるをえませんでしたが、−−−ちょうど、恐慌を説明するのに、「資本論」の全体で説明するように、恐慌論は恐慌プローパーで、説明も出来るのですが−−−、ここでは、プローパーとして、商品の物神崇拝と貨幣の物神崇拝の同質性とその差異を見事に説明しているわけです。



塩見孝也