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1・25「新年会」をやりきったぞー

お陰様で、大盛況でした



2009年 2月 1日

塩見孝也


●70名前後のいろんな方々が参加してくださいました。

 この人数は、参加を約束されていたが、インフルエンザで「討ち死に」した方々や急遽の仕事で、やむなく、不参加となった十数名の方々らの諸事情を踏まえれば、ほぼ、僕が予測していたものでした。

 ちょうどこの日の朝、京浜ホテルにおいて、組合が強制排除された事情など、−−、残念で悔しいことですが、−−この首都において、物情騒然たる雰囲気が漂い始める、2009年、年頭において、ハチャメチャながら、活気にあふれた「決起集会」がもたれたことは大いに意義あることと考え、僕は参加された方々、応援してくださった方々に感謝するものです。

 「戦艦大和」会場は、キャビン風のぎゅうぎゅうであれば、ほぼ100名近くは収容できる、宴会、パ−ティ−、集会も出来る、ビデオ、DVD放映、オーディオなども聴ける申し分のないものといえました。

 テレビでは映画「We」の映像が流されていました。

 さすが、新宿・歌舞伎町で看板を掲げ続け、根を張る「海の家」シンジケートの一部だけのことはあります。

 また、会費3,000円で、3時間の飲み放題ではありましたが、食事については特に後から来られた方にははさびしいものに感じられたと思います。その点では、いらっしゃった方々にお詫びを申し上げておきます。


●お集まりになった方々は、ほぼ四グループに分けられるように思いました。

 第一グループはミクシィつながり、いわゆるミク友の方達です。この方達が、全体の半分以上を占める老−中−青で満遍なき構成と思われました。

 若い方を含め、女性が、かなりの数でいらっしゃっていたと思います。こうでないと面白くありません。

 僕にとっては、この日の第一の目的はミク友の方々と顔を合わせ、相互理解を深めることでしたが、ほぼ30数名の初対面の方とお会いできました。“この方が、あのハンドルネ−ムの方か!”といった次第で、お会いできたことは、僕の望外とする喜びでした。思わず握手し合うう、という具合でした。既にお会いしているミク友の方々も来られました。

 フリータ−労働運動のY君ら、元中核派系であったJ君とその仲間、東大駒場際の時、僕を招いてくれ、僕のインタビューをしてくれ、既に発表してくれた近ちゃん、パレスチナ連帯運動をやっている若い人たち、問題意識の塊で、各界を縦横にフットワーク軽く翔けまわっている元気はつらつのIちゃんと彼女の同伴の青年、クリエーター系のお仕事をされているGさん、秘境探訪のWさん、その他、2〜3人で来られた方々、ミク友として交流してき個々の人たち。

 900人近くになったミク友の構成がどうなっているのかも、この「新年会」を準備する中で、大分、整理されてきました。

 いずれにしても、いらっしゃった皆さんは、それぞれに問題意識を持たれ、それぞれの分野で、程度の差はあれ、活躍されていることもわかりました。このような若い人たちとこうやって交流できるのはミクシ−の最大の効用というところではないでしょうか。
 
 「阻止の会」の先輩、長老、同輩、後輩の僕の闘いの親しい同志、会の共に闘うスタッフとも言える方々が会場中央のテーブルをデンと占められたことは、大変心強かったです。

 80歳に近い千葉から駆けつけられたIさん夫妻や杉並区から原水禁運動を起こされた平和運動の草分けのTさん、下山さん、正清さん、江田さん、渕上さん、片山さん、長岩さんら「会」重鎮で実務を仕切られているような方々、下山保さんは、「異端派生協の逆襲−−生協は格差社会の共犯者か(同時代社)」を最近、上梓された、60年代からの生協運動の草分けの方です。それに、「ホット・スペース八王子」のHさん。

 この仲間達は、会場中央に構えられ、上記ミク友の若い人たちとそれぞれ流で交流されていったようです。

 いずれも、いまも第一線で活動されている兵(つわもの)達で、ただの「老人」、「壮年」と思ってもらっては困ります。僕が、現在、一番心を通わせ合う、胸の裡に志とロマンを秘めた歴戦の勇士達です。

 この方達と若い方々との交流はこの集まりの僕の目的としていた一つでした。

 そして、第三グループは僕の長年の友人、知人の方たちですが、若松孝二監督、鈴木邦男さん、ピースボ−トの旅から、つい一週間前に帰国したロフト席亭・平野裕ら「有名人」や、2003年、空爆直前のイラク・バクダットに訪問した人々、「白船訪朝平和義士団」の仲間、法政反弾圧運動のOB界リ−ダ−の中川さんらパトリ運動の仲間達ら。一昨年の「4・28沖縄デ−復活闘争」の仲間ら。

 そうそう、もう一人、忘れてはならない人が来られました。

 サルコジを過激な言葉で批判する若いフランス人の留学中の女性を伴って飛び入り的に来てくれた、イタリア人のピオ・デメリアさんです。

 彼は、「赤い旅団」のロイヤ−を長年務められ、現在は、イタリアから特派されている凄腕のジャーナリストとして活躍中です。

 若松さんの「実録・連合赤軍」の外人記者クラブでの講演会の際、僕も招かれ、知り合った方です。若松さんをイタリアに紹介し、超有名人にしたり、一昨年の久々の「釜が崎暴動」を、彼の得意な映像化能力で、イタリアに紹介した方でもあります。

 「赤い旅団」の幹部連については、知り合いで、アントニオ・ネグリの日本招聘にも一役買っています。

 そして、第四のグループがこの「新年会」の実現に協力してくれ、僕と行動を共にして下さった方々、今、日常的に僕が付き合っている仲間達でした。僕にとって、何かの時に、いつも役に立ってくれるありがたい友人たちです。

 名簿に、僕が予想していなかった方達、未だどんな方か、わからない方達もいらっしゃいました。



●6:00開場、6:30開演の予定でしたが、どんどん人が来られるので、6時15分頃から始めました。

 司会は映画「We」監督の藤山顕一郎氏が買って出てくれました。氏は、終了する9時15分の最後まで、この役目を、途中10分くらいの休憩を挟んで、てきぱきと果たし抜きました。ありがとう、ご苦労さんです。彼は、「2010年決戦」を「吠え」ていました。

 彼が司会挨拶をやった後、僕が3〜4分、挨拶しました。

 僕は、この新年会の経過や来られた人々の上述の内わけを説明し、その交流、相互理解、融合の必要性を訴えました。

 この融合の要にあるものが、シオニズム・イスラエルのガザ侵攻、虐殺やプレカリアートを始めとする労働者ら勤労人民大衆への仕打ちに凝集されている政治家や資本主義、独占資本家階級らへの怒りの共有であること。自衛隊のソマリア沖、紅海への派兵への批判も触れておきました。知っておれば、この日、早朝の京浜ホテル労働者、組合員の政府の機動隊を動員しての強制排除も糾弾していたことでしょう。
 その後、「9条改憲阻止の会」の重鎮の一人、下山さんが乾杯の音頭を取られました。正清さん、江田さん、渕上さんの挨拶もなかなかなものでした。

 そして、僕が今年の抱負を、やや講演風に、僭越ですが、約30分ほど語りました。これは、僕も本「新年会」準備者諸氏も必要不可欠なメインと考え、参加者もそれを承知で来て下さってわけで、僕の「超主観主義」の「夢想」「妄想」「独断と偏見」を、文句も言わず聞き入って下さいました。
 
 「こう総括し、こう情勢把握をし、こういう姿勢、考えで、こう闘えば勝てるぞ!」という、僕が日頃、考え、書き、訴えて来た持論を、極力、簡潔に整理し、集大成的に展開しました。

  a,70年安保大会戦の総括、成果と反省すべきこと。

  b,現在の世界と日本の情勢をどう見るのか。オバマ・アメリカ新大統領をどう見るのか。

  c,こうやれば日本と世界の労働者階級ら人民大衆は勝てる。

  d,これからの時代において、どういった組織的関係、組織形態をとれば、僕らプロレタリアートら民衆は団結できるか。
 
 以上の4分野についてです。僕は、雄弁家ではないし、極力、主張点、論点を整理しつつ、会場の皆さんと交流し合え、理解してもらえるように発言の理路を整理し、そのポイントを押し出して、とつとつと語って行ったつもりです。

 これを終え、途中で休憩を挟んで、順繰りに会場から発言してもらいました。「有名人」の方、「阻止の会」らへの配慮もしつつ。

 最後にまとめをし、インターナショナルを斉唱し、終了しました。

 来られた方のほとんどが、ハチャメチャだが、良くまとまった、良い「新年会」であった、と挨拶されて帰って行かれました。

 きっかり9時半に終了しました。
  
 印象に残った発言は、「ホットスペース八王子」のHさんの自己の病歴も明らかにした精神障害者運動の報告、いもさんの報告、ピオさんの話、Jさんの話、若松さんのキャスティングを担当された方の「実録・連合赤軍」の苦労話、中川さんの話らら沢山ありました。

 僕の主張や行動とどう関連しているのか、聞き漏らしましましたが、「ファシズムを信奉している」という発言も飛び出して、会場をぎょっとさせました。

 果たして、ファシズムが何であり、どういうものとして捉えているのかを聞きたかったです。

 フランス人女性の「サルコジを拉致するんだ」というジョークについても聞きたかったです。
 
 これで、ひとまず締めて、後は、残られた方達が、貸し切られていた会場で、個々に団欒してゆかれました。11時半ほどまで、これらの方々と僕はお付き合いをしました。



塩見孝也