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ブント50周年記念集会へのアッピール


2009年 1月 6日

塩見孝也


 以下の文章は、昨年、東京の12月21日の「ブント50周年記念集会」に僕が参加するに当って、祝辞として、提出した文章です。

 「新たな段階としてのグローバリズム資本主義とは?戦争と革命の行く方は?」と題して発表しました。
 
 この文章は、「12月21日、「過渡期世界の攻勢の段階とは?その4」として、発表したものを、相当推敲しなおし 、文章構成も、集会用に校正しなおしも、したものです。
 
 一度、日記で、すでにお読みになられて方は、同じモチーフ、理論的、論理的展開であることにお気づきになると思いますが、一応、まったく、別個な新たな文章として、再読してくだされば、幸甚です。

 この文章は、この数年間、考え続けてきた、ネオりべのグローバリズム資本制帝国主義の論考を、集大成し、極力、簡潔にしてまとめたものです。

 個人的にも思い入れ深いものですが、この現代資本主義論は、現代資本主義を、犀利に、しっかりした論理性をもって、解析しぬく、決定的に重要な文章と自負します。

 きっと、皆さんのお役に立てるものと確信しております。(塩見)



                          
 本集会を準備された、実行委員会の皆さん。 並びに、本集会に参加された労働者ら民衆の皆さんへ。

 「過渡期世界の攻勢の段階の始まり」、と言える、現代世界の現情勢にあって、僕らの出発点であった、共産主義者同盟(ブント)50周年を記念する集会が持たれることは、非常に喜ばしい、歴史的に意義あることと考えます。

 このような集会を準備してくださった、実行委員会の皆さんに僕は感謝します。又、集まられた方々とともにブント50周年記念を持てたことを、共に喜び合い、祝賀したいと思います。

 以上の立場に立ちつつ、「新たな段階としてのグローバリズム資本制帝国主義とは?戦争と革命の行く方は?」、こういった問題設定で、僕は、一文を発表することで、本集会への祝辞としたいと思います。


 ●1章 グローバリズム資本主義とは、資本主義の新たな段階の資本主義である、ことに注目しよう。

 現情勢は、1918年のロシア革命の勝利から始まり、1975年の ベトナムーインドシナ半島での革命の勝利に終わる「過渡期世界の防御」の段階、それに続いて始まった2005年までの約30年間の「過渡期世界の対峙段階」を経て、それ以降、現代世界は、「過渡期世界の攻勢」の段階に入りつつある、と言えます。
 
 「防御」の段階は、19世紀末から、「過渡期世界の防御」段階の世界は、この時代の民衆の指導者、レーニンが著した「帝国主義論」を基礎として、解明しえます。しかし、その後の、「対峙段階」、そして、今、展開しつつある「攻勢の段階」は、この「帝国主義論」だけでは、解明できません。

 「現代の《戦争と革命の関係》、これにまつわる諸問題」も解明し得ないと考えます。

 これらの諸問題を解明してゆくには、マルクス主義の創始者であるマルクス(エンゲルス)が著した「資本論」とレーニン「帝国主義論」を、継承し、かつ、これらを総合しつつ、「資本論」で持って解析された、マルクス(エンゲルス)の「産業資本主義論」、レーニン「帝国主義論」を超克した、現代の資本主義、「グローバリズム資本主義」と言う視点が、はっきりと設定され、かつ、その分析が前提とされなければなりません。
 
 なぜなら、現代の資本主義は、資本主義の第一段階目の産業資本主義や第2段階目の金融独占資本主義の後に続く、資本主義の第三段階目の資本主義であるからです。

 こういう風に捉えて、この第三段階目の資本主義とこれがもたらす、諸現象を解析してゆかないと、二つの資本主義論、資本主義批判だけでは、解析しえないと思われるし、現代に合ったプロレタリア革命の正しい性格把握、戦略−戦術、陣形は引き出しえないと考えられるからです。

 僕は、この「グローバリズム資本主義論」についての僕の所論とそこから、引き出されてくる、世界、日本革命の基本性格、戦略−戦術、陣形のアウトラインについての、若干の僕の見解を述べ、本集会へのメッセージとしたいと考えます。

 皆さん、よろしくお願いいたします。



●2章 戦争と革命の関連を捉えるには、新たな段階としてのグローバリズム資本制帝国主義とは? といった資本主義の新たな段階設定の基本視座が必要である。

   ◆アメリカ帝国主義らの局地戦の恒常化の意義とは?

 ベトナム―インドシナ半島での民族解放闘争の勝利と世界の植民地体制の解体後、米中同盟の成立の後、というか、その前後に、資本主義の第三段階目である「ネオ・リベラリズムのグローバリズム資本制帝国主義」が、米中同盟を決定的必要条件、要として、登場してくることとなります。
 現代グローバリズム資本主義は、局地戦争の恒常化を必要不可欠として、これを、恒常的に追求します。

 それは可能で、現に今も展開されていますし、又今後も、追求します。

 しかし、これを通じて、先進国列強同士の「国民国家」間戦争、つまり、「第三次世界大戦」といった方向に展開されてゆく可能性は部分的に残ってはいますが、レーニン「帝国主義論」の時代のように、必ずしも、必然的なものではない、と経済学上、言って良いと思います。

 そればかりか、資本主義の段階、時代(プロレタリアートとブルジョアジーの階級的力関係のモーメント)が違いますから、このことは、次のようなことを意味することともなります。

 日本プロレタリアートを含んだ国際プロレタリアートの闘い如何では、戦争への道を、押しとどめ、世界戦争を起こさせないで、その前に、戦争の危機を逆にプロレタリア革命に転化しえる、物質的条件が成熟しつつある、と言える、ということです。
 
 又、主体的条件を考えますと、グローバリズム資本主義に規定された、プロレタリアートの存在構造が、変化し、新たな質の強搾取、収奪、賃金奴隷の位置を強制されつつも、逆に、これを通じて、国際プロレタリアートは、内包的、外延的に、階級形成上、強化されて、世界プロレタリアートになり、世界社会主義革命、世界同時革命の主体として、成長して行く、ということです。

 さらに、敷衍してゆけば、この観点に立てば、湾岸戦争やイラクやアフガンでの戦争は、このようなブルジョア国民国家間戦争とは、全然、性質が異なって来ている、という見地が成立してゆく、ということです。


    ◆現在のイラク、アフガニスタン戦争の性格とは?

 現在の帝国主義者が「テロリスト」と命名する、「反テロリズム戦争」は、ブッシュ・アメリカ対フセイン・イラクの国家対国家の「国民国家間戦争」といえないことはないですが、実質は、超強者のアメリカ帝国主義ら国際帝国主義が、「世界の憲兵」を自認しての侵略・反革命戦争、これに対する、イラク・アフガニスタンらアラブ発展途上国のプロレタリアートら民衆の「民族の完全解放から連続してゆくプロレタリア革命(民族解放・社会主義革命)」の民衆戦争の対峙であると言えます。

 「民族解放―社会主義革命」が、資本制帝国主義の“グローバライズ”侵略運動のもたらす新たな質の過酷で、強烈な搾取、収奪、民主主義派破壊への抵抗、打倒の革命的ゲリラ戦争として爆発して行っている、と言えます。

 この「民族解放―社会主義革命」は、ブント第7回大会で確認され、赤軍派が、実践した、

 1、先進資本主義国に於ける戦争を押しとどめ、その戦争への経済・政治危機を社会主義革命に転化する「前段階決戦」革命。

 2、資本主義発展途上国に於ける「プロレタリアートを中心とする民族解放―社会主義革命」。

 3、資本主義化しつつある(している)「社会主義」国に於ける「継続革命」「世界革命の根拠地化」

 を内容とする「3ブロック階級闘争の結合、世界同時革命」としてあった2の「民族解放―社会主義革命」といえます。
 
 この意味では、僕には、イスラム主義の衣をかぶった途上国、プロレタリアートら民衆の「民族解放−社会主義」の反グローバリズム・反米帝の、国境、国家を越えた、これまたグローバルでインターナショナルな階級戦争が、ブッシュ等国際帝国主義の侵略・反革命戦争へ対抗する内容で展開している、ということだと思えます。

 これが、汎アラブ世界、民衆の革命的なゲリラ戦争の本質と思えます。

 この、「イスラムの衣をかぶった《民族解放―社会主義革命》」と平行して、1990年代では、中南米、欧米で、国際プロレタリアートの、真正の相貌を隠さない、さまざまな、《民族解放―社会主義革命》、あるいは、プロレタリア社会主義革命の革命的民衆運動が現れて来ています。


    ◆「新植民地主義」概念は、適切か。

 このアメリカ帝国主義らの戦争をは、一部で言われているように、ある面では、帝国主義の「新植民地主義」侵略戦争と言っても良いとは思いますが、厳密には、そう言わない方が良いと思います。

 この規定は、あまりに空疎で、保守的で、教条主義的で、現実の戦争を、本質的、包括的に表現していない、と思えるからです。

 この戦争は、レーニン「帝国主義」論的古典性を含みつつも、基本的には、そうとは言えません。

 現代資本主義の要のグローバリゼーション運動を、――もちろん、そこには、アラブ世界の石油資源の略奪という、帝国主義本来の野望が、経済の面では、強く、働いていることは、しっかりと確認されておくべきです。――イスラム世界に貫徹せんとする、極めて現代的な侵略・反革命戦争であると思えます。

 「反革命」と言う内容は、《民族解放―社会主義革命》に対するものとしての謂いです。

 言ってみれば、グローバリゼーションをイスラム世界に押し付け、この、地域を、帝国主義的に、“グローバライズ”する、グローバライズ侵略戦争、いえます。

 この、“グローバライズ侵略・反革命”こそが、1975年以降の、南北問題を貫く、基本原因、基本動力と言って良いと思います。
 
 なお、“グローバライズ”とは、経済的な資本のグローバリゼーション運動、それは、現代に即しての、レーニン「帝国主義論」でいうところの「(国内で過剰化したところの)過剰資本の自己の勢力圏への輸出」を貫徹せんとすることを、政治的、軍事的な面で保障し、貫徹させんとする、グローバリズム資本制帝国主義の帝国主義としての侵略・反革命の包括的概念、用語を意味すると言って良いと思います。

 この、言葉・概念が、現在の米帝国主義ら国際帝国主義のイラク・アフガン侵略戦争の本質をもっとも的確に、言い当てていると思えます。

 こう見て来ると、、“グローバライゼーション”こそが、現代資本主義のその本性に、根を置く、現代の帝国主義的侵略行動と言えます。

 そして、それは、単なる「資本主義の政策」とは、決して、いえない、ということです。
 
 レーニン「帝国主義論」を教条化して担ぎまわる時代錯誤の人々は、このことに、こだわるあまり、つまり「植民地主義」にこだわるあまり、それを、化粧直しして、「新植民地主義」なる、古臭い用語を、持ち出して来ていますが、この「新」の意味を、「旧」と比較して、全然、説明し得ないばかりか、逆に、この、、“グローバライゼーション”を、単なる「帝国主義の政策」としか、見ない、カウッキー、ベルンシュタイン張りの、「超帝国主義」の過ちを犯してしまっています。
 
 かつての植民地国、民族・民衆は、1975年以降、その後の一時代、「民族解放―社会主義」革命の道を、貫徹仕切れなかったとはいえ、民族独立の解放戦争の血であがなって獲得した主権をもって、その成果の上に、資本主義世界に、参入しました。

 この世界史的資本対民衆の力関係の変化の下で、そのことで、生じた、もっとも整備された世界統一市場をアメリカ帝国主義ら国際帝国主義は、このことを、極力利用しつつ、生産力の低い、これらの諸国の主権を、一応、承認する、という一歩下がったスタンスから、政治と軍事の圧倒的優位性を利用しつつ、経済・政治的に支配、隷属させるべく、経済的・政治的に侵略する、つまり、“グローバナイズ”するグローバリズム資本制帝国主義の侵略戦争を、かつての植民地護持の侵略戦争に代わって、1975年以降、展開し始めました。

 こおういった内容が、現代の『局地戦』の本質であることを、無視しているのです。
 
  しかし、“たかだか”『局地戦』と思うなかれ。

 この「局地戦」は、「南」世界全体を、先進資本主義帝国主義が、支配隷属させ、その原料・資源を独占的に略奪し、その地域の労働力を、最高に有利に利用し、搾取する、1975年以降の植民地体制喪失以降の帝国主義延命の「槍先」「橋頭堡」であり、資本のグローバリゼーション保持、保障の「培養器」であるのです。

 分かりやすく言えば、この『局地戦』を継続することで、「南」世界全体に、にらみを利かし、「民族解放―社会主義革命」が「南」全体に、波及、爆発してゆかないよう、帝国主義としての支配秩序を維持して行くためのもの、こう言えるのです。

 そして、このことでもって、経済的に、高利潤を「北」の先進資本主義世界が確保せんとするものです。
 

     ◆戦争と革命の関係への誤った認識

  この資本のグローバリゼーション、列強資本主義国家のグローバライズ政治、軍事、経済行動が、現代資本主義の本性を体現し、その要であることを措定仕切れないがゆえに、この人々は、「戦争と革命の問題」に正しく対応しきれないのです。

 どういうことか?

 この人々は、何でも、かんでも、さまざまな種類の戦争を、きちんと区別しながら、帝国主義としての本性が、どのような連関関係にあるかを分析せず、ごちゃ混ぜにして、「帝国主義戦争」を鸚鵡返しに、連呼し、自分達が、いかにも、帝国主義の本性を見抜いているかのごとく振舞います。
 「局地戦」の意味も分からなければ、この、戦争と「世界大戦」の区別と連関も解析できず、世界戦争も「帝国主義間世界戦争」なのか否か、も分明にできず、米・中の両国家の関係も分からず、その関係が、戦争にいたるか、否かも究明せず、現在の世界恐慌以降を、1929年以降の、「ブロック化→世界戦争」と同一化してみようとしたり、「日米両帝国主義間の戦争」を想定したりもするのです。

 総じて、「帝国主義間戦争を内乱へ」の受動的な革命を設定しているのです。

 総じて、過渡期世界の能動的階級関係、これと一体の資本制帝国主義の段階的変化を押さえた上での、能動的な世界同時革命を想定しえないのです。

 これは、左翼的なようで、日和見主義といわざるを得ません。


      ◆“グローバライズ:globalize”とは?

 名詞である"グローバリズム:globalism"や"グローバリゼーション:globalization"の動詞が"グローバライズ:globalize"ですが、こう言った言葉・言語概念が一番、事態の諸現象をマルクス主義的に表現しているように思われ、僕は、当面、この言葉・概念を僕は使用してゆきます。
 
 そして、敷衍すれば、こういった現代資本主義の生命線である、“グローバライズ”侵略戦争が、敗北しかけることによって、資本主義、グローバリズム帝国主義の牽引機関車、「戦争ビジネス」が縁故することで、世界恐慌を勃発させざるを得なくなった、いえるわけです。

 そして、今や、グローバリズム帝国主義としての基本骨組みを残しつつも、アメリカ帝国主義らグローバリズム資本主義は追い詰められ、その経済方向を、ネオ・リベラリズムからネオ・ケインズ主義に路線転換せざるを得なくなっているわけです。
 
 アメリカ帝国主義は、何とかして、「国民戦争」という方向に、これを、持って行こうとしましたが、ブッシュは基本的には、失敗しました。

 このことは、上記しましたように、レーニン「帝国主義」論とは違って、グローバリズム資本主義の基本性質に関連している、その脆弱性の問題でもあります。

 グローバリゼーションの資本主義では、戦争の大義がインチキで、グローバリズム資本主義の利潤追求第一の姿が、その世界性と一国性の矛盾においても、又、その基底である、その直接的生産過程の労働における、内包性、外延性においても、その反人民性が過酷で、それが、あまりにもむき出しにでて、ミエミエとなるからです。



 ●3章 新しい段階としてのグローバリズム資本主義、帝国主義とは何か?

 以上を前置きとしつつ、「新しい段階としてのグローバリズム資本主義」をどう、僕がどう捉えているか、を、できるだけ、簡潔に説明することから始めることにします。

 1.植民地体制が消失したこと。これが、何よりも、決定的です。 ベトナム戦争以降、(第三世界)は、自らの血をもって贖い、曲りなりに、独立し、「資本主義の発展途上国」となり、主権を持ち、それを、世界が承認するという、歴史的画期の時代、ロシア革命以降で言えば「過渡期世界の防御から、対峙へ」の、新しい段階が生み出されて行くこととなりました。

 2.この独立をもっての、かつての第三世界民衆、民族が、資本主義世界に、参入することで、世界の資本主義の犠牲的基底部分であった、世界の地理的には半分、人口的には三分の一位を、それまで占めていた植民地体制が消失し、これに代わって、資本主義の世界統一市場が、かつてなく発達、整備されて行きます。

 このことによって、各国国際独占体は、国家、国境を越えて、利潤追求の資本制生産活動のグローバリゼーションを、自由に行うようになりました。

 戦後ブレトン・ウッズ体制として発足した、経済、政治上の国際諸機関が、発展途上国や中国の路線転換との相互関係の中で、ベトナム敗戦以降、IMF(国際通貨基金)、GATT(WTOの前身)、WTO(世界貿易機関)、世界銀行の飛躍的整備、列強(G7やG8、後には中国も加わるし、ロシアも加わり、最近は、発展途上国から急成長したインドやブラジルなども準会員として参加する)諸列強の円卓会議、サミットの発足と定例化など、目覚しく機能強化され、発展していったことも、かかる事態の条件になっています。

 3.このことを、通じて、「多国籍化」した国際独占体企業は、絶対的、相対的剰余価値搾取の資本制生産の直接的生産過程である工場内での分業と協業を国際化させて行きます。

 剰余価値生産、搾取の構造、あり方が、このように変化し、これに応じて、資本主義の蓄積構造とプロレタリアートのあり様も、レーニン「帝国主義時代」とは、根本的に変化して行ったのです。
 
 それは、以下の内容です。

 現代資本主義は、ICシステムを活用した管理システムの、ある面での自動化、無人化、他方での労働力の「“死んだ労働”への“生きた労働”の徹底的包摂、付属物化、部品化」、いわゆる、マルクスが言う「“外延的包摂”から、“内包的包摂”(資本論)」を、フォードシステム、テーラ−システムの継承とそのブルジョア的超克を、直接的生産過程で進行させて行きました。

 徹底的「部品化」としての、労働力の利用欲求から来る、労働の単純化、従って、安価に、その場、その場で使い捨てられてゆく労働者の《プレカリアート》化、その外延的なものとしての《マルティチュード》化が、世界的−一国的に進行します。

 このように、資本のグローバリゼーションの下で、剰余価値搾取の直接的生産過程は一大変革がなされて行ったわけです。 

 かかる事態に於いて、グローバリズム資本主義の、レーニン「帝国主義」の強調する植民地の獲得に拠る強収奪、強搾取とはまったく違う、別の質の強収奪、強搾取の構造が生まれて行きました。

 このことによって、アメリカ独占を中心とする各国列強の国際独占体や金融資本の独占体が途方もない、利潤を上げ、巨大化し、国家、国境を超えて、さらにグローバルに成長、発達して行った、といえます。
  
  a,資本はグローバル資本に、資本主義は擬似的、近似的に「世界資本主義」に接近することにおいて、国際的価値法則が、レーニン帝国主義の頃と違って、ボーダレスな単一世界市場に応じ、純化して貫徹してゆくようになった、とも言えます。

  b,それゆえ、国際的資本は、国際的なこの価値法則に従って、自由に、流動して行くようになりました。

 擬制的な資本である、株や各種の債権、債務の証書を伴った金融資本も、より自由に流動するようになりました。

  c,デリバティブやヘッジファンドなどのさらに擬制的な先物投資の債権−債務のシステムも発達し、これに応じて信用膨張と収縮もこれまでとは比較にならないほどグローバルな規模で、急激で、大量、大規模となり、これに寄生し、投機資本が、これまでとは比較にならないほどの量、規模で、世界を駆け巡って行くようになります。

 レーニン「帝国主義」論で言われている、「寄生性」「利札切り」「腐朽性」の資本主義の新たな段階での展開ともいえます。

  d,このことが、サブプライム・ローンの国際的規模での発足とその破綻の国際的規模での展開、これが、引き金となってのリーマンブラザーズら他分野の金融資本−市場に連鎖的に波及し、世界同時金融恐慌の今の展開となって行っています。

 そして、これが、潜在的にこれまであった、実体経済での「生産の過剰と制限された消費」の関係構造で、過剰生産恐慌に連なって行くわけです。

 過剰生産恐慌であることは、アメリカ自動車産業、ビッグ3の破綻的事態で明白になった、と思います。

 又、これは、遅かれ早かれ、農業恐慌に波及して行くだろう事も指摘しておきます。

  e,さて、それでは、サブプライム・ローン、金融恐慌、過剰生産恐慌、農業恐慌の真の契機、原因は何でしょうか。

 それこそが、資本のグローバリゼーション運動の「槍先」であり、かつ、その「培養源」と規定できる、アメリカ産軍複合体を機軸とするアメリカ−世界経済を牽引してきた“戦争ビジネス”であったといえます。

 この「槍先」「培養源」としてあったイラク、アフガンの「侵略戦争ビジネス」が、米軍らにおいて旗色が悪くなり、破綻して来たこと、このことこそが、隠された、真の世界恐慌の契機、原因であった、と言い切れます。

 4.このことは、特別に意識化して捉えておくべきこと、として、さらに、次のことがあります。

 ネオリベのグローバリズム資本主義の下では、それまでは一国規模で形成されていた《相対的過剰人口》が、グローバリズム独占資本によって、意識的に国際規模で、巧みな分断策を伴いつつも、創出されてゆくようになったことです。

 ここから、「格差社会(つまり、富めるものと、貧しいものとの階級的格差の一層の拡大」)が、世界的規模で、世界−―国的に生まれていった、といえます。

 5.以上の諸経済・社会現象は、決して、レーニン「帝国主義論」では説明しきれないことで、資本主義の第三段階目である、「グローバリズム資本主義」の段階を、導入せざるを得ないと言えます。

 又そうしてこそ、この新しい経済諸現象は、マルクス主義的に、極めてすっきりと説明して行けます。



 ●4章 このことを、レーニン「帝国主義論」との関連で比較、対照し、捉えなおして行けば、以下のように言えるでしょう。

 まずもって、この段階は、マルクス「資本論」で解明された産業資本主義、レーニン「帝国主義論」で解明された金融独占資本主義の延長、発展としてあることが確認されるべきです。

 だから、グローバリズム資本主義は、この二つの段階の特質を併せ持って、それを総合しつつ、継承している資本主義といえます。 

 その「併せ持って、総合し、継承するもの」として、かつ、そのことにおいて、前、二つの段階の、資本主義とは違い、それを越える質の資本主義段階に至らしめた、要の位置にある経済行動の性質が、資本のグローバリゼーション運動であること、このことです。

 この新しい性質が、これまでの資本のあらゆる活動分野の中軸に座っているのが、この新しい段階の資本主義の特徴である、と言い切れます。
 この、資本のグローバリゼーション運動に、「新植民地主義」も、「局地戦争」もあるいは、「第三次世界大戦の危険性、可能性のモーメント」も、全部、包含されている、といえます。

 そういうものとして、僕は、上記1〜4の特質を挙げておきました。

 レーニンの言う、「資本の集積、集中としての独占資本の形成と発達」、「金融独占資本の発達」、「金融寡頭制」、「商品輸出に変わっての資本輸出」、らの資本の基本運動構造は、変わらないわけですが、新たに、変化、発展して行った、と考えます。

 レーニン「帝国主義論」の指摘する諸特質は、いずれの指標も変わらないのですが、植民地を喪う中で、その代わりに得た、国際的な有機的連携性を持った、資本のグローバリゼーション運動によって、その中実(なかみ)が変わっていったわけです。   

 「資本の集積、集中」も、先の「直接的生産過程の変化、労働過程の変化」から、新たに、変化して行きました。

 「金融独占資本の形成、金融寡頭制」もそうです。

 「商品の輸出に替わっての資本の輸出」も。

 レーニンのいう「勢力圏形成」も、そうではあるにしても、排他的閉鎖的で、ブロック化にいたるようなもではなく、世界市場にリンクし、そこへ開かれているリージョナブルな性格になって行った、と思います。

 つまり、資本間の競争が、統一世界市場を前提とする、「軍事を時には伴う」、「軍事力に、“物を言わせた”」、「それを背景とする」にせよ、又、これと一体にせよ、それを、直接に規定するもの、本流となるものが、激烈なグローバリゼーションのシェアー争いになっていった、ということです。
 なお、これは常に、プロレタリアートら民衆を犠牲にして進みます。
 
 6.軍事に「物を言わせ」、「軍事を背景とした」、「時には、それを使用する」ことを、付帯しつつも、「主権」が尊重されざるを得ないがゆえに、その国家、国境を超えた市場原理に沿ってグローバリゼーションが貫徹して行ったわけです。

 それ故、国際独占体同士の競争は、開かれたブルジョア「国民経済」の勢力圏争いは、国際的な経済・政治上の諸機構内部での、熾烈な政治的ヘゲモニー争いに比重が相当移って行った、このことも指摘できます。

 各国帝国主義間の「不均等発展とそこから生ずる不均衡性」も、この枠に、大きく制限され、この枠での、ヘゲモニー争いに、その比重が強まったわけです。

 このグローバリゼーション運動の要となるものが、くどいように、繰り返しますが、6、3の冒頭で指摘しますが、上記の「このことを、通じて、《多国籍化》(本当は、国籍を持っているのですが)した企業は、絶対的、相対的剰余価値搾取の直接的現場、直接的生産過程での工場内での分業と協業が変化しつつ、国際化したこと。 国際化しつつ、変化したこと。変化しつつ、国際化したこと。そのことによって、資本は、搾取・収奪の質を パワー・アップして行ったのでしたのでした。 剰余価値生産、搾取の構造、あり方が、このように変化し、これに応じて、プロレタリアートの労働のあり様も変化したこと。」これが、起点だということです。
 
 このことを起点にして、僕は,資本に強制されて生まれる「生産手段からの、他方では、労働力を売らざるを得ないことに於いて、二重に疎外されて“自由な”、これまた、マルクスが指摘する《二重の意味で自由(マルクス「資本論」)なプロレタリアート》が、その自己否定を通じて、《生産の社会化の主体》として内包的に成長し、他面では、その外延化として《国際プロレタリアート》への成長を進行ささせて行く、と断言できます。

 尚、これが、僕が、ずっと、言い続けてきた、民衆の“自主性”、“能動性”の経済(学)上の論拠となるものです。

 つまり、プロレタリアートが、「生産の社会化と国際化の主体」として、成長してゆく、必然性が生まれてきている、と言うことです。

 僕は、そのことを、階級形成上の言葉として、意識されたものとして《国際プロレタリアート》の《世界プロレタリアート》への階級的成長と、捉えています。
 
 こういった事態は、ネグリ言うところの“マルティチュード”に通底してゆく現象です。

 又、その不規則で不安定就業のプロレタリアート、中、下層が“プレカリアート”と言えます。

 しかし、彼の「帝国」論は、残念ながら、「資本論」の構成とその内容に、忠実でないから、、又レーニン「帝国主義論」をしっかりと、下敷きにしていないから、このことを現象的にあげつらいはすれ、理論的、論理的、体系的、この意味で、科学的に捉え切ってはいません。

 たくさんの、あやふやなところや間違った認識があります。

 7.このような、グローバリズムの現代資本主義は後戻りできない状態で、先へ、つまり、単一の世界資本主義の方向に進みます。

 しかし、超国家の単一世界資本主義→世界ブルジョア政府に接近して行けば行くほど、自らの出自母胎、一国「国民経済」に規定され、リアクションを生じ、完結はで切れないわけです。

 ここにおいて、グローバリズム資本主義は、「前に進もうとするが、進み切れず、さりとて、一国資本主義の《国民経済》にも、完全には回帰もできず、資本の世界性と一国性の矛盾、激化の中で、“苦悶”し、“痙攣し続ける”」過程にある資本主義と言えるわけです。
 
 資本主義は、いかにグローバル化しようとも、自らの出自の母胎たる、一国「国民経済」の枠に規定されている、ということが原因です。

 アメリカ資本主義こそが、世界資本主義経済の唯一の機軸国として、この「一国性と世界性」を、これまで、一応統一してきたのですが、それが、このネオリベのグロ−バリゼーションの要である「戦争ビジネス」で、限界に逢着し、破綻しつつある、ということが、現在の世界と各国の資本主義の現状と言えます。

 アメリカは主権を、世界ブルジョア政府に委譲することはできません。そもそも、世界政府はないのですから。 国連をそうしようともしていません。国連の理念、原則、民主主義性とそのブルジョア性、帝国主義性が、アメリカ帝国主義ら帝国主義列強に合わないからです。

 それで、サミットらブルジョア列強の円卓会議で、世界のブルジョア的統一性の諸問題を、列強は、国連に、急場しのぎ的に代行せしめようとしているわけです。

 最初は、それは、ベトナム戦争敗北の直後のOPECの石油価格高騰攻勢に、急場凌ぎ的に、対応するものとして発足しましたが、年々、定例化してゆき、その参加者も、ロシア、そして、中国、インド、ブラジルらに拡大して行きました。

 初期は、アメリカのヘゲモニーが貫徹して行きましたが、最近は、その主導性は喪失し、これに替わって、旧列強と新興発展途上国の中国、インド、ブラジルらとの矛盾が、激化して行っています。

 国連では、「第三世界」諸国が、「資本主義発展途上国」になり、「国連民主主義」を、発揮し、アメリカ帝国主義の言いなりには、なりにくくなっています。

 8.従って、人類世界の単一化は、前述した、生産の社会化、国際化の主体、国際プロレタリアートが世界プロレタリアートに成長し、「世界社会主義革命―世界同時革命−世界プロレタリア独裁」を貫徹することによってのみ可能である、ことが見通せます。
 
 ロシアとアメリカのグルジアへの勢力圏を巡って、一時、帝国主義国民国家間の戦争の兆しがありましたが、それ以上には広がりませんでした。
 こういう、可能性は残っていますが、このグローバリズム資本主義世界を産み出した助産婦の米中連合が、決裂、解体しなく、存続してゆく限り、利潤追求第一欲求のグローバリゼーションからして、国際金融、産業資本(生産資本)の超巨大化、超国際化の段階性からして、帝国主義列強同士の「国民国家」間の戦争の可能性は、現代では、一層低くなっている、と言って良いと思います。

 イラク戦争やアフガン戦争のように弱小国家、民族への“グローバライズ”侵略戦争や反革命階級戦争は継続されますが、現に、局地戦として恒常化され展開されていますが、これも、プロレタリアートに≪国民≫の衣を被せて、全体主義的に動員することは、僕ら、国際プロレタリアートが、主体的、自主的に戦ってゆけば、段々不可能になりつつある、ということです。

 言い換えれば、ブント第7回大会で確認され、赤軍派が、必死で、実行しようとした「前段階決戦戦略」という、先進資本主義国現代革命路線が客観的にも、主観的にも、ますます、成熟しつつある、といえるわけです。



塩見孝也