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資本論 第1部 資本の生産過程 第1章 商品

第3節 「価値形態または交換価値」の抜粋と解説 (中) 

2009年 11月 2日

塩見孝也


3、等価形態について

 ●マルクスは、等価形態を論ずるに当たって、その前提条件を最初に確認し、それが、「直接的交換可能性」であることを先ず指摘します。 この直接交換可能性は、等価形態が、その有用性、使用価値を有していなければならないことを意味します。

 「価値形態1」においては、等価物は「直接的交換可能性」でなければならない事は至明です。具体的な有用性が前提になることは明らかです。

 ちょっと、その後が、ペ―リ批判を持ち出したりして、彼が使用価値と交換価値をごちゃ,ごちゃにしていることを指摘しつつ、この等価形態の上着が、「この価値等式の中では、むしろ、あるものの一定量として現われるだけ」で、「この商品種類の価値量は、価値量としての表現は与えられていない。」「上着の価値量は、上着の価値形態には、かかわりなく、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって規定されている(にせよ)」。と注意します。

 なぜなら、この形態1の発展段階では、「単純で、個別的で、かつ偶然的な」、極めて萌芽的な価値形態の分析ですから、等量の等価交換の法則は、必ずしも作用せず、先ず等価形態としては、具体的有用性が問題にされるからです。

 また、原理的側面からすれば、商品交換は、あくまで有用性、欲望の実現を求めてなされるのですから、等価形態、商品Bは、直接的に交換可能な、有用性、使用価値でなければならないからです。

 もう少し、踏み込んで言えば、商品交換といえども、原初的には、有用物と有用物を交換して、欲望を満足させるために生まれたわけで、このベースには「有無相通ずる」ことから発する原理が座っているわけです。言い換えれば、商品交換社会である、資本制経済社会は、「使用価値と価値」の「商品の2要因」、そこに対象化されている「具体的有用労働と時間をモーメントとする抽象的人間労働」というファクターを織り合わされ、この原理的側面が、止揚されて、全般化、高化した社会であり、それゆえ、「価値法則によって規制される」社会であるといえます。

 ただし、このことによって、この商品経済社会は生産手段の私的所有に基づく相互に切り離され、別々に行われる私的生産とそこへの労働の経済的隷従という生産関係ゆえに、生産は無政府化した自由競争、利潤追求第一となり、労働し生産する人々は、労働力を売らずしては生きてゆけない賃金奴隷の地位に甘んぜらざるを得ず、さらに、「商品と貨幣が物神化」し、人と人との関係が、商品と商品、貨幣第一の関係に転倒され、剰余価値が搾取され、富と貧困が二極化するという決定的な社会悪をもたらす社会といえるわけです。

 ともあれ、何よりも、「価値形態1」では、この特質が、先ず前面に出てくるわけです。

 つまり、こういうわけで、等価形態としてのあるもの、この場合は、上着ですが、上着はリンネルと直接交換可能性を有しています。「それは価値表現ではなく、あるものの使用価値の単純な量の形態を持っているだけだから」。

 ここで、ごちゃ,ごちゃしないように、僕らは、少々先回りして、先ずマルクスが、この項、形態1の「等価形態」論において、等価形態をどう規定しているか、彼が等価形態について何を指摘し、どう言いたいかを、いろんな彼の展開については、いったん脇において、押えておくことが大切と思います。この項の文章を、俯瞰して見れば、彼の言いたい要点は明らかです。

 彼は「等価形態」について三つの特性を挙げています。

1、「等価形態において目に付く第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の現象形態になること。」(P108)

2、「だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になる、このことが等価形態の第二の特色である。」(P112)

3、「私的労働がその反対物の形態、すなわち社会的な形態にある労働になるということ、このことが等価形態の第3の特色である。」(P112)

 こういうことです。

 ですから、この冒頭の、「直接交換可能性」と、その等価形態は、「価値量を与えてはいない。」の指摘は、この三つの特性の第一の特性について述べているわけです。

 以下、この三つの彼の主張点に沿って、彼の文章を抜粋しつつ説明してゆきます。



●1について。「等価形態において目に付く第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の現象形態になること。」

 さて、マルクスの説明を聞きましょう。

 「1商品A(リンネル)は、その価値を異種の商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押し付ける。リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕してくるのだが、それは上着が、その物体形態とは違った価値形態とは違った価値形態をとることなしに、リンネル商品に等しいとされる事によってです。だから、リンネルは、実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだ、ということによって、表現するのである。したがって、1商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である」P107。

 「ある一つの商品種類、たとえば、上着が、別の一商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役立ち、従って、リンネルと直接リンネルと直接交換されうる形態にあるという独特の属性を受け取っているにしても、それによって、上着とリンネルとが交換されうる割合は、決して与えられはしない。――中略――、しかし、商品種類、上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類、上着が価値表現において、この商品種類の価値量は、価値量としての表現を与えられてはいない。この商品種類は、価値等式の中では、むしろただあるものの一定量として現われるだけである。」(p107)

「たとえば<40エレのリンネルは『値する』――何に?二着の上着に。商品種類、上着がここでは、等価物の役割を演じ、使用価値、上着がリンネルに対して価値体として、認められているので、一定の上着は、また一定の価値量リンネルを表現するに足るのである。従って、二着の上着は40エレのリンネルの価値量を表現する事は出来るが、しかし、それ自身の価値量、上着の価値量を表現する事は決して出来ないのである。価値等式における等価物は、常に、つねに、ただ、あるものの使用価値の単純な形態を持っているだけ」、「つまり使用価値がその反対物の、価値の現象形態になる」ということだけである。

 「価値等式における等価物は、常に、ただあるものの、ある使用価値の単純な量の形態を持っているだけで、1商品の等価形態は決して量的な価値形態を含んではいないのである。」P108.

 「自分自身の皮を、自分の価値の表現にすることは出来ないのであるから、他の商品の皮を自分自身の価値形態としなければならない。」p108。

 ここで、マルクスは重量を持っている棒砂糖のその計測の例を挙げ、同じく重量を持っている鉄体を持ちだします。「さまざまな鉄体の鉄量は、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対して単なる重さの姿、重さの現象形態を代表する。しかし、この役割は、砂糖を含めた重量を持つ物体が鉄に対して取る関係の中だけのことである。鉄体が、重量尺度としては、棒砂糖に対してただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上着体はリンネルに対してただ価値だけを代表しているのである。」



 ●2について。「だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になる、このことが等価形態の第二の特色である。」

 「しかし、類似はここまである。鉄は棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、その重さを代表している。ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方のものの超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的なあるものを代表しているのである。」「リンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在をリンネルの身体や諸属性とは全く違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するものだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵している事を暗示している。(身体、価値魂、商品語、価値鏡、らの相対的価値形態の内容)、等価形態については、その逆である。等価形態は、或る商品体、たとえばが、上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、従って生まれながらに価値形態を持っているということ、まさにこのことによって成り立っている。しかし、あるものの諸属性は、その他の物に対する関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係の中ではただ実証されるだけである。上着もまた、等価形態を、直接交換可能性を生まれながらにして持っているように見える。」P110。

 「等価物として役立つ商品の身体は、常に抽象的人間労働の具体化として認められ、しかも常に一定の有用な具体的労働の生産物である。」「たとえば、敷布は、その敷布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するために、敷布に対して裁縫が、リンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。」「具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になる。」ここが、この2のマルクスの結論です。
3について。「私的労働がその反対物の形態、すなわち社会的な形態にある労働になるということ、このことが等価形態の第3の特色である。」

「しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれる労働との、同等性の形態を持つのであり、従ってまた、それは、すべての他の商品生産物と同じに私的労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。だからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。だからこそ、私的労働がその反対物の形態、すなわち直接に社会的な形態にある労働になる」、この文章で、基本的に、言い尽くされていると思います。

 「社会的労働」とは、社会的に有用で役立っている、という、極く普通の意味合いの謂いと解されて良いと思います。



●アリストテレスの「価値形態」論についてのマルクスの論評について。

 マルクスはアリストテレスを尊敬しています。「価値形態を他の多くの思考形態、や社会形態や自然形態とともに初めて分析した偉大な探求者」と見ています。確か、マルクスの卒業論文は、アリストテレスであったと思います。

 アリストテレスは、二つの点を指摘したと。

 第一に商品の貨幣形態は「ただ単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわち商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそうの発展した姿でしかない。」

 「5台の寝台=1軒の家」、「5台=これこれの学の貨幣」というのと違わない。

 第二に、この価値表現が潜んでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等値されることを条件とする。これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係する事はありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない。」と考える。ここが、すばらしいとマルクスは言います。

 しかし、ここまでで、彼はそれ以上の分析を止め、「このような種類の違う諸物が、通約可能だということは、本当は不可能なのだ。」「同等性、通約可能性」は「実際上の必要のための応急措置」としてしまった。

 このアリストテレスの言説を、マルクスはギリシャ奴隷制社会では、その労働は奴隷労働を基礎にしているが故に労働力の不等性を自然基礎にしていたから、本質的思考に触れながら、そこで挫折、思考停止に陥ったと評します。これで良いと思います。



4、単純な価値形態の全体。

 ここでは、形態1のこれまでの展開、相対的価値形態や等価形態の彼の考察をまとめ的に、より突っ込んで展開しています。

「一つの商品の価値形態は、異種の1商品に対するその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の1商品の交換関係のうちに、含まれている。 商品Aの価値は、質的には商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。」「商品Aの価値は、量的には、商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。言い換えれば、1商品の価値は、それが、『交換価値』(括弧をつけていることに注意しよう。)として表示される事によって独立に表現されている」(p115)

「この章の始めに(1節のところ、「商品の二要因、使用価値と価値」のところ。)普通の言い方で、「商品は使用価値であるとともに交換価値である、言ったが、これは、厳密に言えば間違いだった。商品は、使用価値、または使用対象であるとともに「価値」なのである。(ここでも、括弧を付けています。)商品は、その価値が現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態を持つ時、そのあるがままの二重物として現れるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態を決して持たないのであり、常に第二の異種の1商品に対する価値関係、または交換関係のなかでのみこの形態を持つのである。とはいえ、このことを知っておきさえすれば、先の言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。」P116。

 「われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は、商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式からでてくるのではない。」P116。

「商品Bに対する商品Aの価値表現の一層の詳しい考察は、この価値関係の中では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態、または価値の姿としてのみ認められているということを示した。つまり、商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係の中では自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にただ使用価値として、認められるのである。これに対して、それで価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである」p117。

 「この使用価値と価値の内的対立が、一つの外的対立によって」の含意に僕らは、強力な注意を払うべきでしょう。

 商品Aは、その使用<価値>は、有用性、有用価値は持たず、その有用性は、「価値の素材的担い手」に過ぎず、価値、交換価値を意味し、商品Bは、具体的有用性、使用価値であり、この際は、その価値、交換価値は問題にされないのである。 ここが、マルクスが言わんとするガイストなのであります。

 この点を押えた上で、彼はこのことを商品経済、商品交換関係の発展段階との関係で捉え返します。つまり「労働生産物は、どんな社会状態の中でも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働を「対象的」属性として、すなわちその物の価値として表わすような、発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、従ってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになる。」
P117 。

 以上を踏まえ、形態1の不十分さをマルクスは指摘してゆきます。

「或る一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別だけであり、従ってまた、商品Aをそれ自身とは違った何らかの一つの商品種類に対する、交換関係の中に置くだけで、他のすべての商品との商品Aの質的な同等性と量的な割合を表すものではない。」「一商品の相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。リンネルの価値表現の中では、ただこの一つの商品種類リンネルに対して等価形態、または交換可能性の形態を持つだけである。」p118

.彼は、こういいつつ、次の形態2の考察の予備的考察の言説を述べて、形態1の分析、説明を終えます。



塩見孝也