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資本論  第1部 資本の生産過程  第1章 商品

第3節 「価値形態または交換価値」の抜粋と解説 (上) 

2009年 11月 2日

塩見孝也


第3節 価値形態または交換価値

 ●僕らはこれまで、「資本論」第一部 「資本の生産過程」

 第1編の「商品と貨幣」の第1章、「商品」の第1節 「商品の二つの要因、使用価値と価値」、第2節 「商品に表わされる労働の2重性」を学習、研究して来ました。

 今回は第3節、「価値形態または交換価値」です。これは、その名の通り「価値形態または交換価値」(の歴史的な展開)の考察、解明であります。ここが、「資本論」の部分で、「難所中の難所」の部分、節であることは、これまで幾度も指摘してきました。

 マルクスは、この「価値形態」を歴史的に追求し、4つの展開形態に分けて分析してゆきます。しかし、この四つの形態を分析するに当たって、最初の第一の形態、「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」のところで、「商品の2要因」、そして、その実体としての「商品に表される労働の二重性」を踏まえ、この節の「序章」部分と「価値表現の両極」として「相対的価値形態と等価形態」を論じて行きますが、ここが、一番、マルクスの「商品と貨幣」思想・理論、商品交換、価値形態の認識のガイストの部分を表現しているわけです。

 ここが、煎じ詰めた「難所中の難所」の部分といえます。

 資本制生産様式の下で、この「商品経済社会を規制して行く」「価値法則」についても、この部分と「交換過程論」が土台に据えられて、捉えられています。

 ▼とはいえ、ここでは、先ず、この3節「価値形態論」が、「資本論」全体の中で、いかなる位置にあるかを、全体的に押えておくべきと思います。

  この後、

 第4節で「商品の呪物的性格とその秘密」を語り、マルクスの「商品」の考察は終わります。マルクスは、「商品論」を以上のように、4分野に分けて、1節と2節を土台にしつつ、ここに絞り込みつつ、考察しながら、その後、この3節の「価値形態論」を考察し、この1節、2節、3節を踏まえ、最後に、この4節「商品と貨幣の物神崇拝」が、どう成立してゆくか、基礎付けます。そして、この「性格と秘密」を説き明かしてゆきます。それは、全面的で総括的な展開となっています。「商品の呪物的性格とその秘密」、この4章が、マルクス「商品論」の結論といっても過言では、ありません。

 何故、資本制社会では、人間は、貨幣関係に縛られ、「地獄の沙汰も金次第」の拝金主義の関係に陥り、貨幣を神化し、人と人の関係が、商品と商品、貨幣と貨幣の関係に転倒している、かが、すっきりと解明されているわけです。また、この資本主義生産関係とその商品経済関係、貨幣関係を超克、止揚した新しい社会のアウトラインを示します。

 第3章 「交換過程」:第3節が、価値形態の分析であったわけですが、この章では、3章でところどころに出していた、「交換過程」のマルクス的認識を、独自に、「交換過程論」として、包括的に分析してゆきます。僕らは、この章を読むと、「価値形態論」で、部分的に、提出されてもいる「商品の交換過程」論が、独自の分野として、存在しなければならない事が了解出来ます。

 第4章は「貨幣または商品流通」となります。ここは、原理的、かつ、実際的な上記(左記)テーマの解析ですが、恐慌の可能性も開示されています。
 これで、「商品と貨幣」の第1編は終わります。

 以後、いよいよ「資本の生産過程」に入って行くわけですが、その結節点として、

 第2編 「貨幣の資本への転化」が在ります。以降
 第3編 絶対的剰余価値の生産
 第4編 相対的剰余価値の生産
 第5編 絶対的および相対的剰余価値の生産
 第6編 労賃
 第7編 資本の蓄積過程、となってゆきます。  

これで、「資本論」第一部、「資本の生産過程」が終わり、

 第二部 資本の流通過程
 第三部 資本主義生産の総過程

 と上向しつつ、続けてマルクス(エンゲルス)は書いてゆくわけです。
 この展開でもって、資本制社会の経済的運動法則は全面的に解明されるわけです。マルクスの展開方法は、「研究は包括的に、分析→綜合、帰納→演繹、下向→上向」でなされるが、叙述は「演繹」「上向」の「綜合」方法をとっています。彼は、これが、科学的な叙述方法であると「資本論」第1巻の第2版の「後記」で述べています。マルクス・エンゲルスの各版の序文や後記は、いろんな「資本論」執筆に絡む問題についての著者、本人の率直な意見が、短いながら、簡潔に書かれ、極めて有意義です。是非、目を通しておいてください。



 ●以上を頭に置いた上で、第3節の構成を捉えておきましょう。

 第3章は以下のような構成で展開されています。

序章(別に、マルクスは、こういった小見出しを付けているわけではないです。僕が、そう付けました。)

A,単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
 1、価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
 2、相対的価値形態
   a,相対的価値形態の内実、b,相対的価値形態の量的規定性
 3、等価形態
 4、単純な価値形態の全体

B、全体的な、または展開された価値形態
 1、展開された相対的価値形態 
 2、特殊的等価形態 
 3、全体的な、または展開された価値形態の欠陥

C,一般的価値形態

D、貨幣形態

 となっています。以上の構成、展開を通じて、マルクスは、極めて萌芽的ともいえる価値形態(一般に、「価値形態1」と言われています)、まだ多くの不規則性を含んではいますが、Aよりは発展した「展開された価値形態」(「価値形態2」と言われています。)、第三番目に、商品所有者同士のの「共同の仕事」としてある第3番目の価値形態、つまり「一般的価値価値形態」(「価値形態3」と言われています)、そして、最後の第四番目として、「貨幣形態」(「「価値形態4」と言われています)を、説明、解析してゆくわけです。


 ●第3章の抜粋を中心としての読解とかつ若干の僕の解説。

 1、序章について 

 ▼「商品は使用対象であると同時に価値の(素材的)担い手である」「商品はただそれが二重の形態、すなわち現物形態と価値形態とを持っている限りでのみ商品である」

 ▼「商品の価値対象性はどうにも捉まえようのない代物」「幻のような対象性。(第1節)」「商品体の粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には1分子も自然素材は入っていない」「どんなに弄(いじ)り回しても捉まえようがない」「商品の価値対象性は純粋に社会的である。」
「人間労働という社会的な諸表現である限り価値対象性を有す。つまり、人間労働という社会的な単位という限りでのみ価値対象性を持っている。」

「価値対象性は商品と商品の関係の中にしか現われない。」

「諸商品は価値形態――貨幣形態を持っている。これは誰でも知っている。これを貨幣形態の生成を示す事によって、したがって、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をそのもっとも単純なもっとも目立たない姿から、光まばゆい貨幣形態にいたるまで(形態1〜4を)追跡する。そのことによって、貨幣の謎は消え去る」。

 ◆A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

「x量の商品B=y量の商品B、x量の商品Aはy量の商品Bに価する。」「20エレのリンネルは1着の上着に値する」

  ★ここで、マルクスは「相対的価値形態と等価形態」という概念を提起し、それを説明、規定し、その過程で価値形態を分析、説明してゆきます。

 「リンネルは自分の価値を一着の上着で表わしている。」

「第1の商品は能動的な、第2の商品は受動的な役割を演じている。」「言い換えれば前者は相対的価値形態」にあり、後者は「等価物として機能している、言い換えれば、その商品は等価形態にある。」

「(両者)は、互いに属しあい、互いに制約し合っている不可分な契機、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、常に、価値表現によって、互いに関係させられる、別々の商品に分かれている。」

 「20エレのリンネルは1着の上着に値する」→この等式の意味するところは、「リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品においてしか表現しえない。」「リンネルの相対的価値形態は、何か別の商品でしか表現し得ないことを前提にしている。他方、等価物の役割を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態であることは出来ない。それは自分の価値を表しているのではない。それは、ただ、別の商品の価値表現に材料を提供しているだけなのである。」「同じ商品が、同じ価値表現で同時に両方の形態で、現われる事はない。」「この両形態は、むしろ対極的に排除しあう。」

 両者の位置関係の変化においては、<自分の価値を表現される商品(等価形態のこと)であるのか、それとも、それで価値が表現する商品(相対的価値形態のこと)であるか>が決まるだけのことである。


 2、相対的価値形態。

  a,相対的価値形態の内実


 ▼<割合だけを見ようとするが、同じ単位、通訳可能な大きさ、(=労働時間)なのである。>「20エレのリンネル=1着の上着」だが、「一定量のリンネルが多くの上着に値しようと、少ない上着に値しようと、どれも常に、価値量としては、リンネルも上着も同じ単位の諸表現であり、同じ性質の諸物であるということを含んでいる。リンネル=上着という等式が基礎である。」

 ▼「しかし、質的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが自分の<等価物>、または自分と<交換されうるもの>としての上着との関係性によって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じなのである。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくるのである。すなわち、独立な価値表現が与えられる。」「価値としてのみ、等価物、交換されうるものとして上着に関係することが出来るからである」――「価値表現」「価値関係」とか、マルクスは良く使うが、これは「交換関係」と考えてよい。
 ▼酪酸と蟻酸プロピルの百分比組成関係で説明する。

 ▼「われわれの分析は、商品を価値抽象に還元しはするが、しかし、その商品の現物形態とは違った価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係(交換関係)の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品に対するそれ自身の関係によって現われてくるのである。」

 「ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働、抽象的人間労働の独自な性格を表わす」「異種の諸商品に潜んでいる異種の諸労働を人間労働一般に還元する」

 「リンネルの価値をなしている労働の独自の性格を表現するだけでは十分でない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは対象的形態において、価値となるのである。リンネル価値を、人間労働の凝固として表現するには、同時にリンネルそのものとは違った、「対象性」にとして表現しなければならない。」――――「対象的形態」「対象性」「対象化」、初心者の方には、このような言語表現は極めて、最初は奇異に感じられると思います。しかし、マルクス的な唯物論的な弁証法的認識、唯物弁証法に徹すれば、おのずと、このような言語表現になってゆくのでしょう。このようなマルクス的な認識、思考、表現に、若い人たちは慣れなければなりません。この認識、表現構造・規則性、方式に慣れれば、如何に彼の文章表現が精確で、科学的か、が理解されてゆきます。

 これまで、彼は商品と商品の関係、交換関係の中で、相対的価値形態を説明してきました。

 しかし、これ以降の「相対的価値形態論」のマルクスの説明は、これに加えて、マルクス独自の極めて犀利にしてな論理的な、マルクス独自の軽妙な比喩を含む文学的表現で続けられてゆきます。この後半部分のほうが、彼の「相対的価値形態論」を犀利に説得的に説明しているように思います。

 「上着商品の身体」「価値体」「同族の美しい価値魂」「商品語」らら。

 「上着は価値であるからである。それだから、上着はここでは、価値がそれにおいて現れるもの、または手でつかまれる現物形態で価値を表しているものとして認められているのである。上着は、上着商品の身体は、その価値関係の中では、その外(ほか)でよりも、より多くのことを示しているだけである。ちょうど、多くの人間は、金モールのついた上着の中では、その外でよりもより多くを意味しているように。」「上着は<価値の担い手>である。価値関係の中では具体化された価値、上着の現し身(うつしみ)にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである」「リンネルに対して上着が価値を表すということは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態を取る事なしには、出来ないのである。」「個人Aが個人Bに対して王位に対する態度を取る事は、同時にAにとって王位が、Aにとって王位がBの姿をとり、したがって顔つきや髪の毛やその他尚多くのものを国王が替わるたびごとに取り替える事なしには、出来ないのである。」「リンネルの価値存在が、上着との同等性に現われることは、キリスト教徒の羊的性質が神の子羊とのその同等性に現われるようなものである」

 「いまや、リンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶや否や、リンネル自身が語るのである。リンネルは自分の思想をリンネルだけが通づる言葉で、商品語で言い表すだけである。労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するというために、リンネルは、上着がリンネルに等しいとされる限り、つまり価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成り立っていると言うのである。自分の高尚な価値対象性が、ゴアゴアとした肉体とは違っているというためにリンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては上着にそっくりそのままである、言うのである。」「商品Bは商品Aの価値鏡となる。」  

 マルクス的比喩!「人間ペテロは、彼と同等な人間として人間パウロに関係する事によって、初めて自分自身に関係するのである。」

 b、「相対的価値形態の量的規定性」、抜粋と説明、ともに略。



塩見孝也