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「新政権」と「資本論」研究

下からの構成的な「民衆連帯経済」の必要性

2009年 10月 7日

塩見孝也


 以下は、政権交代、鳩山政権の政治的輪郭が徐々に浮かび上がってき始めている情勢で、政権交代に力点を置いてきた局面から、このような局面が生まれつつある情勢下で、民衆は何に一番留意し、考えてゆかなければならないかについて、覚え書き,メモとして認めたものです



●資本主義とは、商品経済が支配的か、全面化している社会で、商品と貨幣が物神化される貨幣経済の社会です。 この商品経済は、互いに切り離され、別々になされる私的所有の下での生産、社会的分業、労働力までが商品化している生産―所有関係を前提として成り立っています。

 そこでは、価値法則が規制してゆきます。その中で、搾取、搾取を前提とした資本蓄積、相対的過剰人口と利潤率の傾向的低落が基本特徴となり、恐慌は法則的に貫徹されてゆきます。戦争志向は、この経済においてはまさに宿命といえます。

 人間の欲望が、人類の最後の自然史(動物性への拝跪)として、貨幣物神、利潤追求第一の世界を通じて奔騰してゆきます。資本主義の価値法則は、こういった具合に、民衆、人間、人類、そして資本家達おも巻き込み、呪縛しててゆく経済・社会体制と言えます。

 これまでの時代では、誰も、この体制から逃れようのない構造でありました。

 しかし、人間は社会的な共同存在、自主性を機軸とする共同、協同、協働存在。労働の協働と生産の社会化を通じて協働→協同→共同のプロセスを経て、この宿命構造を人と人との関係がもの(商品)とものとの関係に転倒してゆく法則性を再転倒させてゆきます。

 資本制生産、生産力の発展そのものが、その中に自己否定的にそれを育んで行くからです。

 資本主義を永遠普遍の固定した社会、経済体制と考えたりし、変えてゆけない体制として諦念するのは、これまで、民衆が資本、権力にやられ続けてきたが故のことであり、今後もこの体制が続いてゆくとするのは、理論的には全く根拠がないし。実際的にも半分根拠がありません。

 僕らは、これまでの社会的歴史的事情を総括しつつ、解明し、この原因の真実を知ってゆくべきです。決して、宿命と思ってはなりません。

 鳩山氏は「友愛」を説く。しかし、富者の、富裕階級からの慈善家のまなざし、立場において。彼や民主党もまた、商品経済、貨幣経済、貨幣物神、価値法則を疑うべくもない人類の宿命と考えています。

 官僚体制の批判はするが、その根元にある資本主義体制の問題には口を噤みます。テレビもそこに登場する評論家達もすべて、資本主義批判を押しなべてタブーとする。

 それは、この人たちがこの体制から恩恵を受けているからに他なりません。

 マルクス資本主義批判を前提、武器としてのこのような資本主義を前提とする社会観、人間観との壮烈な政治・思想闘争、理論闘争は、これまで以上に精力的に展開されてゆかなければなりません。人間の可能性を見詰め抜く思想、理論、文化闘争がこれからの時代、環となって行くでしょう。



●この政権の最大の特徴は両義性、面妖さです。

 資本制生産関係と商品経済を前提にしてのものですから。これがこの人々の「福祉社会」論の本質といえます。

 「両義性」という概念は、唯物論的な<二重性>の概念とは、異なっています。人々の想像性、思い込みがその立場性のそれぞれ性の思惑が加わっており、ある面で、主観的な思い込み性の要素が強い。それ故に、面妖なのです。

 それを見越して、この言葉概念は発せられています。

 ですから、僕らの思い込みの方へ、鳩山氏たちの思い込みを手繰りこみ、ぎりぎりの限度まで引き寄せて行くべきでしょう。

 勤労人民大衆は、この資本主義商品経済の呪縛から脱却し、団結し、「友愛」「福祉社会論」の「両義性」を民衆の視座から、逆利用し、再転倒させ、資本主義を構造的に変革してゆくべきでしょう。

 帝国主義世界戦争の後の革命ではなく、この種の戦争を押しととどめつつ、戦争の起こる前段で、資本主義を構造的に世界的規模の社会主義の共同体に変革してゆくよう、僕らは奮闘してゆくべきです。

 この可能的物質的根拠は十分にあるし、民衆、人類にとっては、この変革は史上初めての試みの時代であるにしても、このことが可能である時代と見るべきであります。

 僕は、マルクスが「ドイチュ・イディオロギ―」で述べたが如く、人類史は、それまでの人類の自然史がドン詰まりに至り、意識的な、真の人類史のとば口に到り始めていると思っています。

 資本主義の民衆中心での社会主義に向けての革命的構造改革の道は存在するし、実際に開けてゆきます。

 だから、これで、つまり、「政権交代、民主党政権成立」で、僕らは満足しては断じてならない、と考えます。

 小成に甘んぜず、志は高く、遥か遠くに据えよう!

 大志、遼遠!

 反動への回帰を許さず、「福祉社会」を真の福祉社会、共産主義共同体へ。エコロジカルな縄文コミュニズムに突き抜けてゆこう。



●資本主義の革命的構造改革の核心は、全面的な、あるいは、支配的な商品経済社会から来る拝金主義、貨幣物神の人間関係、つまり、搾取おも包含する価値法則の関係の批判に基づいて、社会観、人間観の変革をやりつつ、民衆中心の協働の連帯経済を、この資本主義の只中において、価値法則に対抗しつつ創造してゆけるか否かが要であります。

 これは、思想、政治、文化革命と手に手を携えてしか創造、成長されてゆきません。

 だからこそ、資本主義の科学的批判、マルクスの資本主義批判、<資本論>が必要不可欠で、思考の基本ベースに据えられなければならない時代であると言えます。

 ある面での空想性をおびた急進民主主義、急進的人道主義にマルクス資本主義批判で科学的裏付けをして、本物の民衆中心、人間中心の民主主義、ヒューマニズムに向け、己を自己否定的に止揚して進もう。

 「市民運動」はこれまでの「私達は、税金も払う、模範市民の<良い子ちゃん>です。<過激派とは違います>」から、脱却し始めています。さらに、この地平を、「市民」概念を→「民衆」概念にまで、自己否定、揚棄すべきではないでしょうか。

 これからの資本主義価値法則の貫徹する時代では、果てしない世界性と一国性の痙攣、綱引き、福祉とその切捨てとの痙攣、綱引きが続きます。自己矛盾は避けがたいです。オバマ氏も胡錦とう氏も鳩山氏も。

 そのわけを僕らは澄徹して知り抜こう。

 民衆が団結してゆけば、彼らも軋み合いながらも「共同」してゆく。 そして、その線も破られれば、自己防衛で、分裂へ。

 民衆が世界的規模で、団結できなければ、彼らは、その余裕ゆえに独自利害を追及する。これは、前者の<自己防衛ゆえの独自利害の追及>とは違います。

 それは、僅かでしょうが、「アジア・中国と連携し、景気が一時浮揚する」かもしれません。

 とは言っても、それは、決定打的強力さを持たない。そうであるにしても、今までどおり、民衆の犠牲は継続してゆくからです。その後、もっと大きな恐慌、停滞が襲来するでしょう。

 景気が浮揚してゆかない可能性の方が、遥かに大です。その時は、民衆はもっと犠牲にされます。

 執権者達が半分真剣にしても、或いは、そうでなく欺瞞的にしても、資本家達は、勝手に生き残りをかけて、執権者たちの言う事を半分も聞かず、勝手に動くでしょう。

 執権勢力の掛け声は、神棚に祀られたまま、無視されて行く可能性も十分ありますし、そのことを覆うベール、イチジクの葉っぱの役割を担う面も持ちます。

 これまでの国家独占資本主義政策は、資本主義の本質ではなく、資本主義の延命のための政策に過ぎません。

 「内需」―――こういった政策はカンフル剤に過ぎない。やはり、搾取の継続、増税、消費税は避けがたい。彼らの「福祉社会」論は「高負担→高福祉」の論理から逃れられません。

 ただし、民衆が政治において主導性を発揮し、上記<民衆中心の連帯経済>を独自に育み、下から、あるいは、この執権勢力の背中を押し続けてゆけば、その性格は、かなり変わってゆきます。

 だから、鍵は<尊憲>。<活憲>。特に<9条−25条尊憲>。

 日本民衆、民族の誇るべきこの財産を守り抜き、それを国際的に押し広げてゆくことです。

 これは、資本主義批判をしっかり持って、それをベースに据えてゆけばストレートに世界に「別のもう一つの世界がある」認識に繋がってゆきます。

 ここでも、価値法則に対して、民衆中心の連帯経済を下から創造してゆけるか、否かが鍵となって行きます。

 このパラダイムを持ってすれば、ナショナリズムを天皇主義全体主義(日本型ファシズム)への回帰を許さず、インターナショナリズムとして彫琢して行けます。

 ともあれ、民衆が、絶対的に黙過せず、許してはならない事は、今年になって、これまで三つあった、と思います。

 今年始めのパレスチナのシオニズムの虐殺行為を決して、再発させないこと。

 アフガン侵略を止めさせること。

 朝鮮半島の問題を、朝鮮スタ―リン主義の要因を決して無視しないが、日本近代史の反省、これを土台とした戦後のアメリカ帝国主義と同盟した日本支配階級の居直り的加担、朝鮮民族分断を軸に、朝鮮半島問題を主体的に捉えぬくこと。

「ピョンヤン宣言」をさしあたっての共通認識として、政治的和解の道を進めてゆくべきです。

 この、三つはプロレタリアら民衆、人間の尊厳にかけて、許してはならない事と考えます。

 このようにして、ともすれば、非理性的、非合理主義に陥り、<希望は戦争>に流されがちな青年達に対して、しっかりとした道理に基づいた変革の道筋を指し示してゆかなければなりません。



 ●この観点で、反改憲を基礎にして、反安保、安保撤廃、反貧困の闘いをより巨大に推進してゆきましょう。

 合法すれすれのところでの大衆的政治闘争、街頭制圧、これと経済闘争、地域闘争殷賑・強化、そして両者の結合。

 直接的民主主義の大衆的政治闘争、ここの分野が、僕らのすべての政治の源泉、母胎、そして原動力であります。この結合を通じた工場評議会、生産手段の自主管理。民衆権力の創出。世界同時革命の展望の下での国際―国内民衆闘争の結合。ここが、依然として民衆側の戦略的布陣、陣形であります。

 こういった民衆闘争の力量の反映として、選挙・議会闘争も推進して行くべきです。しかし、ここに集約させてはならず、逆に、この闘争を更なる大衆的民衆闘争、民衆権力創出の運動に、この成果を返し、ここに収斂させてゆくべきでしょう。

 革命、しかし、暴力、軍事至上の戦争後のロシア革命型のイメージを描くべきでは全くないです。こんなイメージは現代には全く通用しないアナクロ二ズム、左翼の側の保守主義といえます。

 支配階級が振りまいた暴力至上の「血塗られた」革命、「暴力革命」「内戦、革命戦争」のイメージを増殖しては、彼らに付け込まれます。
 現代、現代資本主義に即した革命。それは、世界帝国主義間戦争の可能性が極めて低く、そこへ行ききれない前段での、戦争を押しとどめつつの、恐慌ら資本主義の「長期停滞構造」を背景とし、一人ひとりの民衆が、自らをその構成的要素として行く民衆権力を政治・社会革命として創造してゆくことです。

 アントニオ・ネグリの発想、言葉を借りました。

 このような発想、観点を経済の分野に押し広げれば、民衆一人一人が、自らの生にとってもっともベーシックな要素を充実させ、その一人ひとりのモーメントが経済を構成して行く点において、民衆中心の連帯経済は、まさに<構成的経済>と言えます。

 革命は民衆の成熟度からして、暴力に決して短絡されず、あくまで、政治と思想の内容にあり、まさにここにおいて、知的、道徳的に民衆は打ち勝ってゆくべきです。

 そして、この政治・思想上の原則、基本目標、集約点は、生産手段の民衆的共有化であります。

 この道には、これまで、暴力的没収、買い上げ、らがありましたが、現代で、一番最適なのは、労働者ら民衆一人ひとりの政治的思想的な能動性に基づく、金融資本、大独占資本らの資本家達が作り上げて来た金融寡頭制によって仕切られて来た資本主義的生産、分配(流通)、消費の全構造、システムを、先ずもって、徹底的にその反民衆性を暴露、批判し、規制、統制し、そこを起点にしつつ、生産手段の民衆による自主管理、生産の民衆中心の協同組合化から生産手段の民衆的共有化の道へと繋ぎ、極力軟着陸させてゆくことです。このことを合法のぎりぎりの線で推進してゆくことです。

 世界同時革命の戦略の下、政治闘争と経済闘争の結合、国際階級闘争と国内階級闘争の結合を通じた街頭の制圧、工場、会社、職場、地域の制圧、民衆権力創出と一体に構成的に民衆連帯経済を構成的に切り拓いてゆくことです。

 この過程での権力の暴力装置、軍隊、警察の政治的、思想的解体。それでも残った部分の反革命の場合、軍事、革命的暴力の問題が登場する可能性を排除しない。その時は、その時で仕方のないことですが、僕らの基本方向は非暴力であり、とりわけこれからの一時代そうといえます。

 どうしてもの止むなしの場合、正当防衛として、<それは許される>、という観点にたってのことです。しかし、そういった時期が来れば、民衆の意識も変わってゆくし、民衆は、当然のこととして受け入れてゆくことも洞察されます。

 だから、僕が武装蜂起、武装の思想を棄てていると誤解しないでください。

 今、こう言った議論をするより、今の一時代、政治、思想的、理論的にに何が重要で、それをどう押し出してゆくべきか、にウエートを置いている事を了解願いたいです。

 合法ぎりぎりの線とは?

 20年代のヒットラ―・ナチズムとドイツ共産党との集団的政治闘争、攻防戦が参考になります。

  世界でもっとも、当時では民主的といわれたワイマール憲法の下で、ヒットラーの親衛隊、突撃隊のナチス棒とそれに類する共産党、RG(エル・ゲ―、赤色ゲワルト)の攻防戦が1920年代中期以降にあったのです。重火器は使われず、ナチス棒までに自己規制されていたのです。



●“世界同時革命。”しかし、このイメージも暴力性が前面化され、振りまかれているのは全くの困リものです。

  思想的、理論的低空飛行の政治は、クラシカルに言えば、せいぜい、<組合主義的政治>です。

 「民衆の目線にあわせる」のはもっとも大切な事で、僕も人後に落ちないつもりですが、もう一つの目線が生まれつつある事にも注意を払っていただきたいものです。

 核心は、構成的権力―構成的経済の観点で先進資本主義の数カ国で、有機的に連携しつつ、同時に革命が勝利せずしては、一国では、限界があること。一国で勝利しても、他の先進資本主義の支配階級が包囲してくれば、一国での社会主義は成立してゆきません。

 先進資本主義国の一カ国で成功しても不可能ということです。

 まして、資本主義の「弱い環」の封建・農業国や植民地、半植民地国では、全然不可能で、変質は必然でした。これは、歴史の教えるところであります。



塩見孝也