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資本の生産過程(資本論第1部)

第1編の第1章「商品と貨幣」の抜粋しながらのノートと考察。(4)

番外編・補充的解説

2009年 9月26日

塩見孝也


商品に表わされる労働の二重性について(4)

 僕らは、商品に含まれる二要因が、価値と使用価値であることを(2)の1節「商品」の節の解説で確認してきました。

 マルクスは2節で、その二要因が、どうして形成されるかを、資本主義社会における労働を分析し、「具体的有用労働」と「抽象的な人間労働」の二つの二面的性質の労働より成立している事を示します。

 マルクスはこのような商品に含まれている労働の二面的な性質について「これは私が始めて指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点である。」と述べています。



●(具体的な)有用労働。

  ▼有用労働とは?
「このように有用性がその生産物の使用価値に、またはその生産物が使用価値である労働をわれわれは簡単に有用労働と呼ぶ。労働は、有用効果に関連して考察される。」

  ▼使用価値や商品の存在条件。――社会的分業
 「いろいろな違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様な多種多様な、属や種や科や亜種をことにする有用労働の総体――社会的分業が現れる。」「独立に行われている互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが互いに商品として相対する」「社会的分業が商品生産の存在条件ではあっても商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。」

   ▼社会的分業の多肢化。
 「使用価値には、一定の合目的な生産活動または有用的労働が含まれ」「いろいろな使用価値は、それらのうちに質的に有用労働が含まれていなければ、商品として相対することは出来ない。社会の生産物が一般的に商品となっている社会では、独立生産者の私事として互いに独立して営とまれるいろいろな有用労働のこのような質的相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に発展する。」

   ▼有用労働は人間の生活を媒介とするための、永遠の自然必然性。
「すべて天然に存在しない素材的富の存在は、特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間のすべての社会から独立した存在条件であり、人間と自然の間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。]

「上着やリンネルは、すべての商品体は二つの要素、自然素材と労働との結合物である。」

  マルクスは、ウイリアム・ぺティを引きつつ、人間と自然の物質代謝における関係を「労働は素材的富の父であり、土地はその母である。」とまとめます。

  人間は、生きるに当たって、生産物を作り出すために労働しなければならぬ事、このことは、どのような社会であろうと、必要とされる事実である、という当たり前の真理を述べているわけですが、この当たり前の真実に立脚し、抽象的人間労働としての、もう一つの労働の側面と組み合わせつつ、<商品の2要因>を分析したり、価値形態−「貨幣が資本に転化してゆく秘密」を明らかにしたり、「商品の交換過程」を明らかにしたり、剰余価値の生産の際に、先ず必ず労働過程として、この有用労働の過程を、前提的に分析したりもしてゆきます。

  価値増殖の過程を論ずるには、先ず有用的な労働過程の分析なしには成り立たないからです。

 「商品は、使用価値として実現される前に、価値として実現されなければならないのである」が、しかし「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない。」(第一分冊、P137〜138) 



抽象的な人間労働

   ▼具体的労働の有用性を捨象すれば、<人間労働の支出><人間労働の凝固>

 「生産活動の規定性、したがってまた、労働の有用的性格を無視すれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出であるということだけである。裁縫と敷布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、人間労働を支出するための二つの違った形態に過ぎない。」「商品の価値は、ただ人間労働を、人間労働一般の支出を表わしているに過ぎない。」
  「価値としての上着やリンネルでは、それらの使用価値の相違が捨象されているように、これらの価値が表わされる労働でも、それらの有用形態の相違、裁縫や敷布との相違は捨象されているのである。――――上着やリンネルは単なる労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれる労働も、布や糸に対するその生産的作用によってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ認められるのである。

   ▼当該社会での単純な平均労働の凝固、複雑労働と単純労働の関係

  「人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、(その社会は)は多少とも、発達していなければならない。」

「平均的に誰でも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちに持っている単純な労働力の支出である。もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い、文化段階が違えば、その性格は違うのであるが、しかし、現にある一つの社会では与えられているのである。」「複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働が、より大きな量の単純労働に等しいということである。」



具体的有用労働と抽象的人間労働の関連とは?

  「商品に含まれている使用価値との関連では、ただ質的にのみ認められるとすれば、価値との関連では、もはやそれ以外の質を持たない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。

  前の方の場合には、労働のどのようにして、どんな風に(das Wie und Was)が問題なのであり、後のほうは労働のどれだけ(Wievel)が、すなわちその継続時間が、問題なのである。」

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であって、この同等な人間労働または、抽象的人間労働という規定においては、それは商品価値を形成するのであり、すべての労働は、他面では、特殊な目的に規定された携帯での人間労働力の支出であって、具体的有用労働という特性においては使用価値を生産するのである。」



workとlabor 

エンゲルスは具体的有用労働と抽象的人間労働についての「資本論」第4版、英語訳では「英語には、労働のこの二つの違った面を表わすのに二つの違った言葉を持っているという長所がある。使用価値を作るもので、質的に違って規定されている労働はworkと呼ばれ、laborに対置され、価値を作るものであって、ただ量的に計られる労働を、laborと呼ばれる。」と明快な注をつけています。



いったん解説を始めてゆきますと--後記

 どうしても良い加減には済まされず、厳密な検討をして展開しなければならず、連赤問題の直後、宇野経済学批判をやり、赤軍派(プロレタリア革命派)の綱領を書き上げた1974年の3月頃、獄中で、集中的に学習、勉強し、それまでの蓄積をまとめたのですが、それ以降、マルクス経済学の分野は折に触れ研究し、沢山の本も読み、蓄積し、情勢分析にも使ったわけですが、いざ解説しようと「資本論」に向かってみると、そう簡単には行かないことが分かりました。

 責任を持って書いてゆこうとすると、基本的な骨組み的理解は血肉化されてはいるものの、「資本論」をめぐる世界と日本でのマルクス生きていた時代や死後の複雑多岐な論争も含め整理し、また自分のうちであやふやであったことも整理し、学習会の時、整理しないまま来た論点も、きちんと判断し直し、そのためには、何よりも「資本論」を何度も何度も全体的に、再び読み込んで、精確に読解してゆかなければならない事も分かりました。

 この最近、ずっと<資本論>が頭の中をグルグル回り続け、寝ても醒めてもうなされ続けているるような毎日が続いています。

 マー、それでも、マルクス経済学を研究して来たものとして、定期的に書いてゆこうと思っています。



塩見孝也