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資本の生産過程(資本論第1部)

第1編の第1章「商品と貨幣」の抜粋しながらのノートと考察。(3)

番外編・補充的解説

2009年 8月26日

塩見孝也


補充的説明、先回り的、種明かし的解説も必要であるが、にもかかわらず、さりながら―――!?。

 僕の「資本論」解説、「商品の二つの要因、使用価値と価値」を読んでこられた皆さんへ、

 僕はこれから、「「商品に表わされる労働の二重性」の解説をやります。そして、「価値形態または交換価値」「商品の物神崇拝とその秘密」の解説へと進んでゆきます。

 その前に、皆さんの理解促進の一助とするために、先回りして、二つの種明かし的な補充説明をやる事にします。

 一つは、「資本論」は何を目的として、どんな経済学の特性を帯びつつ書かれたか?

この関連で、

 二つは、「資本論」第1編の各章、諸章はどういう連関関係にあるのか?あるいは、他の編との関係で、この編は、どういう関係に立つのかを、あるいは、一章の、全体として4節をなす各節の関係はどんな関係にあるのか、この二つを先回りして、知っておけば、マルクスの第1編の各章、諸章の内容、展開構造がよく分かります。この補充説明です。

 マルクスが、何を証明せんとしているか、そのために、どういった表現、手順が最適か、どういう章、節立てが良いか、その章で、何をポイントとして言わんとしているか、そのために、どのような概念、キーワード、コンセプト、コ―ドを使うべきか、結局、こういったマルクスが、叙述するに当たって、考えた事情、事柄にはどんな特性があるかを、僕流の理解ではありますが、その僕流の理解で、マルクス思想、彼の思惑に沿ってあらかじめ、僕の方で、先回りして説明をしておこうと思うわけです。

 いわば、マルクスの抽象的な推理的、分析的展開内容を、あらかじめ先回りして、種明かし的に、多少とも僭越な事は承知の上でのことですが、僕のほうで、皆さんを慮(おもん)ぱかって、明らかにしておこうと思う次第です。

 これは、この解説は、(1)でもかなりやった事ですが、あれだけでは足らないと思ってのことでもあります。

 いまひとつ、このことを突っ込んで敷衍すれば、これは、テレビ・ドラマのミステリ―で、先ず真相を最初に映像として視聴者に映し出しておいて、それをドラマの主人公の探偵家が、その事は知らないで、推理し、数々の難題を解析し、解いて、最後に犯人にたどり着いてゆく手法であり、ある面で手軽な「邪道」の推理ドラマ、ミステリ―ドラマの手法のようでもありますが、しかし、視聴者は、あらかじめ犯罪内容と犯人を知っていますから、普通の正面構えのミステリードラマとは違って、主人公の悪戦苦闘に同伴することなく、それを突き放し、相対化して、主人公の推理過程をも、楽しみながら観て、かなり主人公の思考過程を精確に理解して行くことが出来ます。

 主人公との距離感が、しっかり取れますから、新たに、主人公の思考、推理過程も突き放して観れる楽しみも加わるわけです。

 なぜなら、「資本論」第1部、第1編、第1節、第2節は、資本主義経済・社会の、最下降した最底辺部にあたる部分、資本主義経済に不変な「単元関係」、「単子関係」、マルクスが言うところの、資本主義社会の「富の基本形態」、「細胞」に当たる「商品と貨幣」の展開部分で、いわば僕が(2)でのべた「公理とその説明」に当たる部分ですから、この部分の理解は、最難関に当たり、強力な抽象的推理力、分析力が必要とされ、きわめてとっつきにくいわけで、皆さんが、それで投げださないように頑張って先に進んでもらいたく、敢えて、先回りの種明し的説明を補充する、というわけです。

 いうならば、第1編第1章の第1節と第2節は、この資本主義という建築物の基礎工事、基礎地盤の敷設に当たる部分です。3節、4節はこれまた、極度にとっつきにくく、かつ分かりにくい内容なのですが、1,2節がわかっていると、組み立て、展開可能なのです。いわば、演繹可能なのです。

 この基礎工事、基礎地盤があれば、生産過程の序章とも言える、資本が貨幣から生まれてくる秘密、第二編の「貨幣の資本への転化」もしっかりと把握され、

 「資本の価値費増殖過程としての生産過程」である、

 第3編「絶対的序余暇地の生産」
 第4編「相対的剰余価値の生産」
 第5編「絶対的、相対的剰余価値の生産」
 第6編「労賃」
 第7編「資本の蓄積過程」

もドンドン分かってゆく事になります。

 もちろん、この種明かし的説明があったとしても、初心者の読者には、いろんなことが、ごちゃごちゃ入り込んで来て、余計に混乱する事も考えられます。

 しかし、僕の経験的判断では、こういった補足的説明、一寸した「道草」、「閑話休題」に属する思索部分を、差し挟む方が、ないよりあった方が遥かに良いように思得ます。

 こんなことは、必要ないと考えられる人は、別にこの部分はすっ飛ばして行って、先に進んで行って一向に構いません。



マルクスが、「資本論」を書いたいろいろな目的について。

 さて、何を目的として、何を表現の特質、特徴として、この意味でマルクスは何を狙い、書いて行ったか、このことに戻ります。

 先ずこのことを理解し、このことを先ず第一にしっかりと頭において読んで行かれたら、と思います。

 彼にあっては、いろんな目的があって書いたと思います。それを、列挙すれば、以下です。

  ▼賃金奴隷制社会、搾取制度、つまり資本主義社会の矛盾を暴露する目的を持って書いた。

  ▼あるいは、資本制社会が、歴史的に限界のある社会であること、それは、自己否定的、批判的に社会主義・共産主義社会に受け継がれるべき社会であり、この社会の研究から、次の社会の基本的性格とおおよその輪郭を描き出す事も目的であったでしょう。

  ▼あるいは、労働者階級が賃金奴隷であり、かつ他面では、生産の社会化の主体として、資本主義変革の主体であり、この意味で労働者階級の解放を目的として書かれている、と言うことも出来ます。

  ▼労働者階級が賃金奴隷であり、かつ他面では、そうであることを通じて生産の社会化の主体として、資本主義変革の諸階級の中で、唯一の変革主体の階級であり、次の社会を主導する能力、力量を持った階級であることが、この経済学から分かりますから、これも目的であった、とも言えます。

 こういった風に考えれば、この「資本論」「マルクス経済学」は、労働者階級の自己解放を目的とした、資本家階級ではなく労働者階級の経済学ともいえます。

  ▼もっと広げれば、ずっと、これまで存在していた観念論者と唯物論者との間で闘わされて来た歴史観について、この彼の経済学の確立を持って、この論争に決着を付けること、つまり、彼の経済学をもって唯物史観を確立することもあった、と思います。

  ▼あるいは経済学と社会主義の学説との関係、連関も彼の経済学の確立を経て、決着を付けることも目的であったでしょう。

 今、思いつくだけの、このような彼の目的以外に他にもあったかもしれません。

 このようなもろもろの、多々の目的があったことは確かです。ここでは、こんな具合に、彼の目的が多々あったことを、僕は議論の余地なく認めていることを確認しておけばよいと思います。彼以外の人々も、その人々の彼の経済学、思想・世界観に接近して行く視角、視座、態度からいろんな目的を引き出してもいます。それもそうだと思います。



彼の最大の第一の基本目的は、「資本主義社会の経済的運動法則を科学的に明らかにすること」にあった。それと前述の派生的、副次的諸目的との関係について。

 しかし、「自然史的過程としてある資本主義社会の経済的運動法則を明らかにする事」、それを「科学的に明らかにすること」――このことが、彼の最大にして、基本的な目的であり、彼の経済学の特性であったこと、このことが、最大、の基本目的であった事が確認されるべきです。

 「社会科学」として「科学としての経済学」を確立すること。科学的に資本主義を批判する事を目的として書いた、ということ。――――科学的に、理論的、論理的に資本主義社会の矛盾を解き明かし、その法則解明の裡に、この社会が、生成し、発展し、やがては、没落し、次の社会に交替せざるを得ないこと、つまり、資本主義が歴史的に限界を持った社会であることを、科学性を持って明らかにするために書いた、ということだと思います。

 前述のごとく、賃金奴隷制社会、搾取制度、つまり資本主義社会の矛盾を暴露する目的もあります。

 あるいは、資本制社会が、歴史的に限界のある社会であること、社会主義・共産主義社会に受け継がれるべき社会であり、この社会の研究から、次の社会の基本性格とおおよその輪郭を描き出す事も目的であったということも出来ます。この意味で労働者階級の解放を目的として書かれている、ともいえます。

 あるいは、労働者階級が賃金奴隷であり、かつ他面では、生産の社会化の主体として、資本主義変革の主体であり、次の社会を主導する階級であることもこの経済学から導きだせます。

 唯物史観と経済学の関係、社会主義の学説との関係も経済学の確立を経て、ここで、は、明らかになります。

 しかし、あらゆる、階級の人々が、階級を超えて、科学として分かるものとして書かれていること、この特質が一番大切なことです。

 マルクスは、経済学者であるが、他面では、労働者階級の一員であり、その前衛としての自覚の持ち主であり、指導者としてもありました。

 それ故に、前述した諸目的は、彼にあっては、派生的、副次的目的として捉えられ、彼の著作にあっては、背後に隠されているわけですし、また、背後に隠されるべきであると考えられていますが、彼自身がこれらの諸目的を否定しているわけでは全くありません。

 にもかかわらず、この諸目的を証明してゆくためにも、前述の基本目的が先ず明らかにされなければならなかった、こういうことです。

 経済学は、イディオロギーでもありますが、とはいえ、あくまで科学であり、それが、なされてこそ、イディオロギーは、生命力と説得力を得たものになって行くということです。

 だから、あくまで、彼にあってはイディオロギー先行を差し控えるわけです。

 僕らは、以上からして、「資本論」が、何よりも、「資本制社会の経済的運動法則を、科学的に明らかにしてゆく」目的で書かれている事を、何よりも優先的にしっかり、認識してゆく必要があります。
 「資本論」は、色眼鏡をかけて読んでも良いが、色眼鏡をかけて読まなくても十分読め、理解できるようになっており、それこそが、マルクスがこの著書を書いた第一の目的、手法(叙述の仕方)の最大の狙い、特徴であるのです。

 階級を超えて、万人が分かるように書かれていること、このことです。

 こう見てくると僕の補充的解説は種明かしのようであって、種明かしであってはならない事を意味し、やはり、とっつきにくく、分かりにくい事には変わりはないわけです。

 そのために、マルクスは、プルードンなどの一夜漬けの継ぎはぎ細工の「経済学の貧困さ」(彼の著書<貧困の経済学>をマルクスは<哲学の貧困>として批判した)とは違って、古典派経済学のほとんどすべてを跋渉し、総括しつつ、資本主義を観察し、また階級闘争の先頭に立ち、「実験」を重ねていった、と言えます。

 ここで、資本主義社会が、その運動法則の必然性からして、やがては、必ず、次の社会、共産主義の共同体(コンミューン)社会(マルクスは、この共産主義社会を低い段階と高い段階に分け、その低い段階を社会主義社会と規定しています。)にとって替わられることを、その科学としての法則解明、立証、開示の裡に示して行くわけです。

 その事によって、これまでのサン・シモンやフーリエ、あるいはロバート・オーエンらが描き、必死で誠実に追求した社会主義の政治思想、理論、学説が、にもかかわらず、空想性(非科学性)を有していた限界をエンゲルスが強調するように「空想から科学へ」へと乗り越え、つまり「科学的社会主義」に、その良き思想、構想、政治主張、学説とその実践を止揚していったこと、ここがマルクス「資本論」、経済学の最大の特色、科学性を持っていること、このことであったと思います。

 この“科学性”こそが、マルクス経済学の最大の特性と言えます。

 そうであったが故に、誰も、批判しえず、「資本論」は、永久的ともいえるほどの生命力を持ち、資本主義が危機におちるたびごとにその生命力を蘇らせてゆくわけです。



それでは、何故、マルクス「資本論」、経済学において“科学性”が保証されたのでしょうか?、それでは、何ゆえ、彼は科学的に解明しえたのでしょうか?

 資本主義社会以前の社会も、人間の労働を通じた経済的、物質的活動が基礎となって生成、確立、展開、没落してゆき、そこにその社会固有の法則が存在したことは確かです。

 マルクス・エンゲルスは、それ以前の社会の運動法則についても「資本制生産に先行する諸形態」とか、その他、唯物史観の見地で、おおよその事を語っていますし、そのほかの概して唯物論的歴史学者、考古学者、「民族」「民俗」研究者、文化人類学者らら、もろもろの分野の学者は、マルクスらに近い事柄、あるいは、マルクスやエンゲルス、マルキストが学ばなければならないようなより先行した内容を語っています。
 このような社会でのその運動法則解明は、それぞれの社会に応じて、解明されてゆきます。そこでは、「資本論」で解明された法則を当てはめることは出来ませんし、そうする事は全く過ちです。

 ということは、「資本論」は、資本主義社会に限って、その経済的運動法則を科学的に解明しえた書である、ということを意味します。

 資本主義社会が労働力までが商品化している全面的な商品経済社会であること、すべての生産、経済活動が交換目的、交換目当てでなされる事、言い換えれば、すべての生産活動を機軸とする経済活動が、価値、交換価値、貨幣の取得目的でなされる事、すべての経済活動が商品交換という特性を帯びてなされていること。生産物が、すべて、商品化されて、交換されて行き、而して、回りまわって、社会的欲望に供されること。個人的な私的生産が、交換目的でなされ、而して、回り回って、最終的に、社会的生産になって行く社会であるからこそ、マルクスは首尾一貫した、科学者としての態度で、資本主義社会を解析しえ、科学性を保持しえた、ということです。

 資本主義以前の社会においても、商品経済社会は古代より存在していました。しかし、商品経済活動が、その社会において主要な生産、分配活動を担ったことはなく、商品経済社会は、その社会で、部分以上ではなく、その社会を動かす基本的動力ではありませんでした。

 あるいは、いくつかの、各当該社会が接触するその境界において、両社会の余剰の生産物を、交換してゆくことで、生成してゆく存在でありました。

 ところで、資本主義生産においても、何よりも重要な事は、他の社会と変わりなく生産者が労働し、生産物を作り出すことですが、しかし、この生産者が労働し、生産物を作り出すという基本的経済活動もまた、資本家と労働者の賃金と労働力の交換、売買活動、総じて商品交換関係を通じてなされます。

 ここが他の社会と資本主義社会とが違うわけで、ここが、マルクスが「資本主義社会は商品経済が、全面的に発達した経済社会である」という意味です。

 この「あらゆる生産、経済活動が交換目当て、価値、交換価値目当て、貨幣の取得目的に烙印され、その性格を帯びて展開していること」、この特性にマルクスは着目し、「商品と貨幣」を、1節の「商品の二つの要因、使用価値と価値」と二節の「商品に現される労働の二重性、具体的有用労働と抽象的な人間労働」を基本の基本のベースとして設定し、そのエレメントの概念措定を科学的にやりとげ、その関係性を明らかにして、この一章領域の展開として、「価値形態または交換価値」を「貨幣」の登場に到るまで、究明したわけです。

 なぜなら、

 それまでの社会では、商品経済は、その当該社会の主流の経済法則の脇にあって、

a,互いに切り離されて、別々に行われる、私的所有に基づく私的生産、

b,私的生産と社会的分業という経済的前提関係にあって、

 生成していました。

 ところが、全面的に発達した商品経済社会である資本制経済社会では、これにくわえ、

c,労働力までが、商品化されているという新たな経済的前提条件が加わったからです。

 これは、後ほど説明してゆきますが、「生産手段からも自由」で、「自由に自己が保持してる労働力を処理しえる」人々、すなわち、<二重の意味で自由(マルクス)>な大量な労働者階級が生まれたことを意味します。
 
 資本主義以前のどの社会も、経済、物質的社会諸関係に規定されていますが、資本主義社会のように生産過程おも包摂する商品経済関係としての経済活動→上部構造(下部構造→上部構造)のようにストレートな関係を持っていず、その社会の解明は、その社会ごとに研究されるべきでありますが、資本制社会では、価値法則に従って、「下部構造(生産、流通と再生産、資本の総過程)」→「上部構造、つまり、政治、軍事、法律、倫理、宗教、民俗ららの広い意味での文化のこと」という連関で運動していますから、第1編、第1章の第1節と第2節を確立して居れば、芋ずる式に、ずらずらと資本主義建造物のこの下部構造の諸領域や上部構造の諸領域は、難しさや新しい概念などが提出されはしますが、解明しえてゆきます。このことは、マルクスの<経済学批判>にも書かれています。

 繰り返しますが、全面的に発達した資本制商品経済における、その地盤は、資本制商品経済の一般的な生産物の交換関係、商品交換関係の法則から成立しているから、そのように展開してゆける、わけです。

 であれば、ここを明らかにしておけば、資本と労働における、賃金と商品としての労働力の交換関係、他方での、その交換関係における等価交換に矛盾することなく、剰余価値の生産がなされる秘密、「どのようにして、貨幣が資本に転化するか」も解明されます。

 また、ここまでの地盤が整備されてゆけば、もはや、資本制経済の運動法則の解明は、後は、「資本の価値増殖」、つまり、資本主義生産における<生産過程>での資本の運動法則として、剰余価値を資本が取得する構造、関係、法則、つまり資本が基軸となった資本主義経済の運動法則として、「絶対的剰余価値の生産」「相対的剰余価値の生産」「絶対的および相対的剰余価値生産」、「資本の蓄積構造」が、構築されていっている事、それゆえ、つまり、資本が基軸となった資本主義の運動法則は、資本を機軸として、資本の運動法則、すなわち『資本論』として首尾一貫性を持って、科学的に解明、論証、検証されて行くこととなります。

 このことが、科学性、科学的叙述である、という謂いなのです。

 それを、マルクスは、「資本論」の地盤として<資本論>の第1編を、<商品と貨幣>に置き、それを、第1章、「商品の2要因」、「商品に表わされる労働の二重性」、「価値形態」、「貨幣の物神崇拝」として明らかにしてゆくわけです。さらに第2章、「交換過程」、第3章、「貨幣または商品流通」 として展開してゆくのです。

 このように、資本の運動法則解明の一般的前提、地盤としての商品経済の法則が明らかにされれば、第2編の「貨幣の資本への転化」が明瞭にされ、ここから、第3編、「絶対的剰余価値の生産」 第4編、「相対的剰余価値の生産」、第5編、「絶対的、相対的剰余価値の生産」、第7編「資本の蓄積構造」は一瀉千里に明らかにされうるのです


塩見孝也