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資本の生産過程(資本論第1部)

第1編の第1章「商品と貨幣」の抜粋しながらのノートと考察。(1)

2009年 8月26日

塩見孝也


 これから、僕は「資本論」第一部、第一篇の第1章「商品と貨幣」の章を、解説してゆこうと思います。

  僕は、大学時代、個人的に読破しようとしたり、先輩が主催する「資本論研究会」に参加し、この本を研究、理解しようとしました。

  しかし、いろんなテキストを読んだり、各章、各項、各編を飛び飛びに読んだりし、この本の概要はおよそつかみましたが、この本の全体を掴んだかというと、果たせなかった、といわざるを得ません。

 僕が、彼の経済学をほぼ掴んだと言うならば、それから9年後の獄中20年での過程のことでした。

  獄中という特殊な条件が適していた事、それ以上に、連合赤軍事件の解明、総括、これを主体的に言い換えれば、この事件と僕は、直接にはまったく関係せず、事件の性格も僕の思想とは別の、僕の批判対象の思想から惹起されていたわけですが、とはいえ、この事件に、新左翼、ブント、赤軍派が、マルクス主義コミュニズムを目指しつつも、プチブル革命主義を脱しきれず、この事件の思想的地盤の半分を与えていたーーーもう一つの半分は、毛沢東思想を信奉する急進主義、中国革命教条主義の急進主義でありましたがーーーことは歴史的事実であり、その克服が、僕ら新左翼系の潮流にとって、大きく全般的に言えば、左翼潮流の全体の思想的、理論的な痛苦な課題、テーマとして存在したからに他なりません。

  この意味で、僕にとっては、必死の想いでの解決すべき課題、テーマであり続けたからに他なりません。

 僕は、僕のテーマ「小ブル革命主義から、プロレタリア革命主義」への自己止揚の要として、マルクスの「資本論」学習、摂取を据えて行き、必死で、研究して行ったわけです。

  このマルクスの「資本論」、資本主義批判を、ほぼ我が物にしたが故に、獄中20年の非転向の闘いが可能であったと思っております。

 マルクス「資本論」は、その副題が「経済学批判」とされているように、(ブルジョア経済学)批判、つまり<資本主義批判>であるわけです。

 また出獄後、あの後退戦の時代にあって、自主的に、自分流に方針を出し、−−−それは、普通の「左翼」からは、破天荒で、揶揄的に「独創的」、別の言葉で、皮肉に言えば「主観的」と批判的に扱われもしましたが−−、体制、権力と自由に創造的に闘えた、とも思っております。

 出獄し、4回ほど、若い人たちと研究会をやり、マルクス思想の経済学、「経済学批判」は深まり、さらに足が地に着くような豊富さを得、これを土台とした現代資本主義分析、批判もやり得るようになりました。

 しかし、マルクス経済学、資本主義批判についての僕の素養、蓄積は、断片的にしか表出されていず、民衆の戦う思想的、理論的武器としてはまとまったものとして提出し切れていない想いがずっと揺曳していました。

 さまざまな、良き「資本論」解説も出始めていますが、僕からすれば、もう一つ、という憾みを感じます。

 これまでの60年代左翼の「経済学」にも、それなりの決着も付けてゆかなければなりません。

 それで、現在の時代情況も鑑み、「資本論」の解説をしてみようと思い立ちました。

 手始めに、上記表題のような形で展開してゆく事にしました。



◆「およそ科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかって譲歩したことのない世論と称するものの先入観に対しては、あの偉大なフィレンチェ人の標語が、常に変わることのなく私のそれである。汝の道を行け、そしてその人の言うにまかせよ!(ダンテ 神曲 浄火編、第5曲より)」―――これがカ−ル・マルクスの学問への態度です。



◆マルクスは、資本制生産様式、つまり、資本主義の経済的運動法則を解明しようとして、「資本論」という大著を著しました。

 この本は、<マルクスは「論理学」について、まとまった著作こそ残さなかったが、彼は、「資本論」という「論理学」を残した。(確か、レーニンの<帝国主義論ノート」>だったとと思います。)と言われているように、極めて表現上の論理的な堅固な統一性をもった構築物といえます。

 それは、資本主義経済としての有機的な社会構成体そのものが、一個の統一的、総合的な、この意味で、論理性を持つ、建築物の性格を有しているからに他なりません。

 しかも、それをさらに問えば、この建築物がしっかりとした土台を持ち、しかもその土台や建築物があらゆるところで、普遍的に共通して内在させる、単元関係、単子関係、つまり、「商品」、その「商品の交換関係」から成り立っているが故の事です。これを持って、資本主義経済が構築され、運動しているからに他なりません。

 この事を、一言で、概括すれば、資本主義社会は、労働力までが商品化している、全面的に発達した商品経済社会であるということです。
 
 成熟した人間の身体を知ろうとすれば、それが細胞から成り立っている以上、細胞を研究する必要があります。

 資本主義経済において、このような「細胞」と言える、単元、単子関係の基本形態として成り立たせているものが「商品」である事をマルクスはしっかりと認識し、その分析、精確な内容規定、カテゴリー、概念を設定し、資本主義経済の経済的運動法則を開示させていったからに他なりません。

 こういった認識がマルクスにあったからこそ、対象としての資本主義経済を一種の社会的建造物として模写してゆく「論理学」的な、つまり、科学的な方法、内容、叙述になる事を可能にして行った、と言えます。



◆しかし、こういった認識は、スミス、リカードらの「国民経済学派(今では「古典派経済学」と言われていますが)」に、すでに端緒的に存在していたのです。

 にもかかわらず、マルクスのみがそれをやり遂げています。

 何故、彼はそうし得たのでしょう。

 マルクスのみに可能であった理由があります。

 それは、「物理学者は、対象を<顕微鏡や化学的試薬(観察と実験のこと)>を使って分析、研究しますが、<経済学研究においては、顕微鏡などは使うことが出来ず、ただ抽象力のみが、その代わりをする>と「資本論第1巻の第1版、序文」で彼が述べていますように、マルクス、その人が、偉大な抽象力、そこからする分析力と綜合(演繹)力の持ち主であったからに他なりません。

 もちろん、このような力も歴史的、社会的なもので、彼の経済学の対象として、資本主義を典型化していたといえるに足るイギリス資本主義があったからこそ、彼に与えられたのですが。

 しかも、彼の先人経済学者であった「国民経済学」の偉大な経済学者、労働価値学説を打ち立ててアダム・スミス、そして、それを商品研究において、価値論として発展させ、剰余価値学説を完成的に打ち立てる一歩手前まで行ったデービット・リカードの時代以上に、資本主義が典型化され、階級闘争が発展して行った時代であったからに他なりませんが。



◆マルクスは、彼の持ち前の抽象力を最大限発揮し、リカードにおいては未だあやふやなところがあった商品論、価値論、貨幣論を完成させました。

 たとえば、リカードは、機械や原料の単なる「不変資本」の「価値移転」を、「価値増殖」と混同し、労働の過程では、原料や機械は、何らの価値増殖もせず、つまり「労働力」のその「使用価値」の消費過程、つまり、「資本の生産過程」においてのみ「価値増殖」、「剰余価値」が生産されることになるなどのことを理解しえていなかった、など。

 マルクスは、彼のみが明らかにしたと自負する、「労働の二重性」を使い、また、「価値形態、交換価値」を歴史的、論理的に包括的に捉えたりし、その事で「商品の二要因」を「使用価値と価値」として厳密に措定し、完成しえたわけです。

 リカードは、「商品」が「使用価値と価値」の二要因からなり、価値について、交換関係においては、価値が、価値形態をとらざるを得ないこと、この意味で、交換過程で、商品に内化されている使用価値と価値の対立、矛盾がどのように外化してゆくか、の関係を交換過程の論理構造として、価値形態の歴史的検討も含めつつ、厳密に分析、研究しきれずにいたからです。

 かくして、この1章は、「叙述は分析の後」として、演繹の表現方法で展開されてゆきますから、商品の二要因である「使用価値と価値」から始められる事になります。

 資本主義という<自然史的過程>として存在する建築物を、科学的に、論理的構築物として、「論理学として模写」する方法と武器はここにおいて定まったわけです。



◆以上のことをこの本の編別構成の意義として捉え返してゆく必要があると思います。

 幾度もこの本を読み、研究された方は、何故、「資本論」が、「項」「節」「章」「編」「部」の演繹的構成をとって叙述されているか、そして、それらの範疇が、有機的に、堅固に連関し合い、組み合わさって出来ていること、それ故に、この連関、組み合わせ、構成が理解できれば、逆に、この各範疇、各分野で、マルクスが何を言いたいか、が手に取るように分かり、その範疇、分野の内容も精確に読み取って行けることを経験的に認識して行きます。

 言い換えれば、この本の編別構成を、しっかり踏まえてゆけば、マルクス思想としてのマルクス経済学が手に取るように見えてくるわけです。

 こういった叙述の仕方で、資本主義の経済的運動法則を解明すべく、マルクスは資本主義をその基本的土台からなる立体的な総合的な有機的建築物として捉え、その土台は「生産」であると考え、先ず「生産過程」から論じ、その上に「流通過程」を論じ、最後に「資本の総過程」という形で、土台分野から始め、さらに、「再生産」に必要不可欠な「流通」分野を論じ、最後に「資本の総過程」を論ずる形で、“分野”連関をはっきりさせつつ、“分野”別に論じてゆくやり方をとったわけです。

  彼からすれば、論駁を許さないほどに学問的論争に耐え、かつ、「経済学」を新たなレベル、世界にし上げてゆくには、こういった叙述方法、 つまり

 第一部「資本の生産過程」
 第二部「資本の流通過程」
 第三部「資本の総過程」

 として分けて、先ず「生産過程」から論じ、かつそれを綜合してゆく方法で解明し、書いて行かざるを得なかったわけです。

 これに、マルクスは、第4部として「剰余価値学説史」を付け加えて書こうとし、膨大なメモ、ノートを残していたのですが、亡くなってしまい、盟友、エンゲルスが、これをまとめ、公刊する事となりました。



◆そして、この生産過程の土台の構造を明らかにしてゆくには、どうしても第1章、第1節のごとく「資本制生産様式で支配的に行われている社会的富」は、「一つの巨大な商品の集まりとして現れ」、「一つ一つの商品は、その富の基本的形態として現れる」と彼は考え、そうである以上、生産過程を解明するには、「商品」の解明から始めざるを得なかった、ということです。

 かくして、それが、この章、「商品」はその第1部の「資本の生産過程」の第1編の第1章となったわけです。
 こういうわけで、その第1部は

 第1編「商品と貨幣」、
 第2編「貨幣の資本への転化」、
 第3編「絶対的剰余価値の生産」
 第4編「相対的剰余価値の生産」
 第5編「絶対的および総体的剰余価値の生産」

として展開してゆかざるを得なかったわけです。

 そして、第1編、「商品と貨幣」は

 第1章  商品
 第2章  交換過程
 第3章  貨幣または商品流通

 として成り立ってゆくわけです。
 これから、僕がメモを取りつつ、考察してゆく章はその第1章です。
 そして、この章は、見てのごとく、この編の冒頭の章です。

  1節 商品の二つの要因  使用価値と価値
  2節 労働の二重性
  3節 価値形態または交換価値
  4節 商品の呪物的性格とその秘密

から成り立っています。

(2に続く)

塩見孝也