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1月末のマルキスト諸氏の合宿に参加しての雑感。

2008年 2月 12日

塩見孝也

1. 「マルクス思想・主義の信奉、それに基づいた資本主義批判」を唱え、「組織」、「組織」を叫んでいる人々がいます。

しかし、本当に思想的、政治的内容があるか、本物か。

これが、基本、前提なのだが、こういったことだけで、力が湧いてくるであろうか。

これが、フラクションの同心円的囲い込み的拡大の様相を呈してゆくとすれば愚かなことである。こんな、手法で、あるならば、ブントなどは再建されはしません。これだけは、確信を持っていえます。

いろんな自主的な革命的マルキストの人々が、大義のために、最大限、自主的に、意見を持ち寄り、開かれた形で、討議し、それが、公平に集約されてゆくようなあり方を粘り強く追求されてゆくべきであろう。

いろんな人士、グループ、分派が、現在から見て、過去の綱領的基準も点検、総括しなおしつつも、現在明瞭にされつつある綱領的基準(大義)からして、各自の未熟性として捉えるべきこと。

一億総懺悔のような総括方法でもなければ、一人に批判を集中する運動でもなく、およその綱領的基準に照らしつつ、自主性を持って、ある程度の批判と自己批判をやりつつ、綱領的基準を、実践をやりつつ確立してゆく、総括のやり方。
 
僕は、この基準、方法に照らして、自分の置かれている歴史的なポジションから、関西ブント、(統一ブント)、第二次ブント、赤軍派を主体的にも、社会的にも総括せずしては、生き、闘ってゆけぬ存在だから、必要な総括もし、必要な自己批判も行ってきました。

「獄中記」で、その後の20年も書きました。出獄してからの闘いの軌跡も整理されてきています。

しかし、僕以外の人で自己批判をされている人は、少ない様に思えます。これは、一体どうしたことでしょう。

連合赤軍事件は、日本民衆運動、ブント運動の未熟性に合わさって、現象した外国民衆運動、革命運動への憧憬、盲従化、「別党」問題で、これと赤軍派を混同してもらっては全く困ります。

7・6事件と赤軍派誕生は、あくまで「別党」コースではない。これは、総括運動の前提です。
 
ブントの総括をやろうとすれば、僕に、関心、注意が集中する。

このことは、僕の<宿命>、精確には<運命>だと思っております。

これまでも、そう思い、逃げず、受け止め<運命の主人>足らんとしてきました。

これは、僕だけが、未熟であった、ということではなく---そういった面も否定しないが、未熟ということでは、その限りで、大なり、小なりの過ちを犯して来た点では、みな同じなのです。

僕が、 基本的には、ブント史、日本民衆運動史にとって、自分自身の好むと好まざるに関わらず、ブントという政治集団の節目、節目や重要な時期、行動、事件の中に、居た、という歴史的、社会的事実よるものと、と思っています。

これまで、たくさんの先輩が居たのですが、その先輩たちは、亡くなったり、退いていたり、消えて居たりしているからです。

今、現役であっておられる第二次ブント時代の政治局員は、ほんの数人ではないでしょうか。

こういった観点、立場で、僕は、従来の主張でありますが、最近、大義に照らして、一連の(自己批判的な性質の)文章を書いております。

しかし、いろんな人々が、歴史を創ってきました。余り目立たない人、領導上、牽引上でのサブの人々、以前は、決定的な影響力を持って活躍し、現在も底流において影響力を持っている、唯物論的合理性を持った人々、反対派の人々、結果に規定せざるを得なかった人々、こういったさまざまなポジションの人々が、どう自主的に生きてきたか、そしてその意義や限界を、当時から現在にかけて、今度は、逆に、聞きたい、検証してゆきたいものです。

各フラクションや各「派」、個人の総括と責任を、僕自身に排除的、排外主義に、還元せず聞きたいものです。

なぜなら、ブント運動は、集団的政治行動であり、沢山の人々が、活躍し、それを構成し、僕などは、その一部といえるからです。

たとえば、7・6事件での、
先年の秋の10・21、そのあとの首相官邸闘争、8回大会

政治局と9中央委員会の解体化情況

7・6は、中央委員会どころか、ブント党員総会的招集であった、とわかったが、これは果たして合法的か。

どんな手続きが取られたのか、少なくとも僕にとっては、全く非合法的である。一体、政治局会議の討論、決定抜きに、或いは中央委員会抜きに、如何なる権限で、それが可能なのでしょうか。

僕等、赤軍派フラクションは12名の除名を受け入れたが、普通、除名には、意見、弁明を聞く場が与えられる。

しかしそんなものはなかった。完全な欠席裁判である。

こういった民主主義精神に反することが平気でおこなわれていたことはちゃんと総括されるべきであろう。

こういった事柄に関与した人々、第二次ブントで極めて重要な役割を果たした人々には、総括をどう考えているのかを聞きたいものです。

闘ったものが「被告席」に居て 「日和見主義者」が、検事席や裁判長席に座る、といった構図の現象的事態は、克服されるべきです。

全体のブント系諸派人士の点検をやってみる必要がある。特に、第二次ブント、6回、7回、8回、(9回)の。そして、第一次ブントとその分解、その後の再建過程の総括。統一ブント系から見れば、仏、佐々木氏の指導について。


2. 東西の民衆の情況、特に運動情況の特徴、分析はかなり行った。大いに成果があったのではないか。

グローバル帝国主義の原理的位置づけの基本観点。社会主義のイメージ。従来の概念の限界、中ソ.文革やユーゴ。キューバは出てこなかった。


3. プロレタリア独裁、暴力革命。

「党独裁」ではない。全く良い。いいのだが?  レーニンの作家、ゴールキーへの返事をどう考えるか。

全人民(武装)蜂起の全体的イメージ。まず、前提は数百万の民衆の政治的、登場(首都圏で)は前提。この基礎にある職場と地域の萌芽的権力、統一戦線。共闘関係、民衆民主主義(インティファーダ、フランス、アメリカの経験) 

二重権力、民衆権力=コンミューン権力、これと、代議制の議会制(ブル議会制との関連)との凌ぎ合いの関係性。

民衆の合意の上で形成される直接民主主義の民衆権力とその権威。先ず、民衆のコンセンサス。そして権力形成。労、農、<市民>、兵士。※兵士の問題と武装のモーメントを依然、無視してはならない。

プラス国際連帯、職場と地域、コンミューン。自主管理と地域コンミューン。

全民衆の武装の内実、実態。ミリシャス(民兵)的、非暴力的性格、要素。

暴力的没収が原則。だが?!時には買い上げも。

ブルジョア法の良きものの継承、適用。

国際政治過程  アメリカ、中国らアジアの動向


4. 「党内党」ではないが、「分派」の承認、賛成なのだが、この意味、意義は?どういった経緯で、こういった結論に至ったか?

レーニンから引用するだけでは、駄目、体験から。


5. レーニン主義を準則とする問題。こうなのだろうが、ここは、慎重に。

レーニン主義に批判的、否定的な態度ではなく、この思想の歴史的意義を押さえた上での「現代的、日本的な創造的発展」。この「創造的発展」という規定が大切なのではないか。


6. 自主哲学、自主性について。もう少し、内容的に説得的に、言い切れないていない。

反省。

「三大規律八項注意」のようなもの。しかし、こうとだけ、とらえてもらっては困ります。人類の発展段階的捉え方とも関連する。

a: 命は人、民衆の各人にとって一つ。かけがえがない。最高尊厳性、群れ、集団、社会との関係性、個と階級の関係での自主性を明確にする。ここでその発現を社会的に保障し、輝かせてゆく概念としての自主性なのである。

b: ヒューマニズム(人間らしさ)や民主主義精神との関係で。この概念の人類史的発展過程、資本主義との関係では。過渡期社会、共産主義社会では、より成長、成熟してゆく概念としての“自主性”の概念。

c: この「自主性、創造性、意識性」の原理的規定。

物質と意識の唯物論的関係を踏まえた、自分と世界の関係から来る、つまり、場所性における<個と世界の関係性>、<世界の主人><世界を決定する><運命の主人になれる>

僕は人間の可能性の問題として捉えている。

d: 家族から、部族、氏族、諸部族連合、民族、国民国家に概括される<民族>ら諸社会集団にとっての<自主>概念、それを構成する個人にとって必要不可欠として承認されるべき概念、居場所、役所の問題としてのそれ。

e: 愛、信頼(信義)、徳 ―――――倫理関係における自主性。

f: 現在におけるこういったことをシンボライズして概括するものはどう表現されるか?

たとえば「三大規律八項注意」

g: “幸福”について。ここでの<自主性>の意義。差別関係、差別克服に占める<自主性>

h: 三大分業の克服・止揚との関連での「自主性>とは。


7. “民族”について。ほとんど、考え抜かれていない。

民族の核心は言語、広い意味での、大地、土地と人間の食の関係、このための労働、生産を基本モーメントする広い意味での---政治、経済、習俗、宗教、伝統、軍事らを包括する---文化性の範疇。血縁も無視し得ないが、先述の基本要素から見れば第二次的。


8. 前段階決戦とコミンテルン。岩田氏に示唆される。

赤軍派にとっては、前段階蜂起の位置付けの曖昧さ。分裂が影響し、イメージが出ず、貧困になった面。


9. 主体的唯物論と革共同の分裂の評価、基本観点は出てきている。

もっと肉付けして、詰めてみるべき。


10. 宇野経済学について。

根本の問題は、価値の捉え方、価値論理解のプチブル性、価値、価値関係を、社会的関係性、資本主義所有、生産関係から捉える視点の弱さ、欠如、「形態が実態をつかむなど」の把握の問題。ここが根本だと思う。


塩見孝也