寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る


過渡期世界の攻勢の段階とは?(その4)

新たな段階としてのグローバリズム資本主義とは?戦争と革命の行く方は?



2008年 12月 21日

塩見孝也


●新たな段階としてのグローバリズム資本主義・帝国主義とは?

◆アメリカ帝国主義ら現代グローバリズム資本主義は、局地戦争を恒常的に追及し、それは可能で、現に今も展開されていますが、又今後も、追及しますが、これを通じて、先進国列強同士の「国民国家」間戦争、つまり、「第三次世界大戦」といった方向に展開されてゆく可能性は部分的に残ってはいますが、レーニン「帝国主義論」の時代のように、必ずしも、必然的なものではない、と経済学上、言って良いと思います。

 資本主義の段階、時代が違いますから。

 これに、規定された、プロレタリアートの存在構造が、変化し、新たな質の強搾取、収奪、賃金奴隷の位置を強制されつつも、逆に、これを通じて、プロレタリアートは、内包的、外延的に、階級形成上、強化されて、世界社会主義革命、世界同時革の主体として、成長してゆきます。
 このことは、日本プロレタリアートを含んだ国際プロレタリアートの闘い如何では、これを阻止し、逆に、これを通じて、革命に転化できる、ということを意味します。
 
 又、この、問題と関連することですが、湾岸戦争やイラクやアフガンでの戦争は、このようなブルジョア国民戦争とは、全然、性質が異なっている、ということです。

 現在の帝国主義者が「テロリスト」と命名する、「反テロリズム戦争」は、ブッシュ・アメリカ対フセイン・イラクの国家対国家の「国民戦争」といえないことはないですが、実質は、超強者のアメリカ帝国主義の侵略戦争、それに対しての、イラクらアラブ発展途上国民衆、プロレタリアートの抵抗、ゲリラ戦争といえます。

 この意味では、僕には、イスラム主義の衣をかぶった途上国、プロレタリアートら民衆の「民族解放−社会主義」の反グローバリズム・反米帝の、国境、国家を越えた、これまたグローバルでインターナショナルな階級戦争が本質と思えます。

 これは、一部で言われているように、ある面では、帝国主義の「新植民地主義」侵略戦争と言っても良いとは思います。

 しかし、その内容こそが問題です。言われている内容は、あまりに空疎で、保守的で、教条主義的内容といえます。

 この戦争は、レーニン「帝国主義」論的古典性を含みつつも、基本的には、そうとは言えません。

 現代資本主義の要のグローバリズム運動を、イスラム世界に貫徹せんとする。極めて現代的な侵略戦争であると思います。

 言ってみれば、グローバりゼーションをイスラム世界に押し付け、、グローバナイズする、グローバナイズ侵略戦争、いえます。
 
 そして、敷衍すれば、それが、敗北しかけることによって、資本主義、グローバリズム帝国主義の牽引機関車、「戦争ビジネス」が縁故することで、世界恐慌を勃発させざるを得なくなったこと、そして、いまや、アメリカ帝国主義らグローバリズム資本主義は追い詰められ、その経済方向を、ネオ・リベラリズムからネオ・ケインズ主義に路線転換せざるを得なくなっているわけです。

 アメリカ帝国主義は、何とかして、「国民戦争」という方向に、これを、持って行こうとしましたが、ブッシュは基本的には、失敗しました。

 このことは、上記しましたように、レーニン「帝国主義」論とは違って、グローバリズム資本主義の基本性質に関連している、その脆弱性の問題でもあります。

 グローバリゼーションの資本主義では、戦争の大義がインチキで、グローバリズム資本主義の利潤追求第一の姿が、その世界性と一国性の矛盾においても、又、その基底である、その直接的生産過程の労働における、内包性、外延性においても、その反人民性が過酷で、それが、あまりにもむき出しにでて、ミエミエとなるからです。



◆以上を前置きとしつつ、「新しい段階としてのグローバリズム資本主義」をどう、僕がどう捉えているか、を、できるだけ、簡潔に説明することから始めることにします。

1.植民地体制が消失したこと。これが、何よりも、決定的です。 ベトナム戦争以降、(第三世界)は、自らの血をもって贖い、曲りなりに、独立し、「資本主義の発展途上国」となり、主権を持ち、それを、世界が承認するという、歴史的画期の時代、ロシア革命以降で言えば「過渡期世界の防御から、対峙へ」の、新しい段階が生み出されて行くこととなりました。


2.この独立をもっての、かつての第三世界民衆、民族が、資本主義世界に、参入することで、世界の資本主義の犠牲的基底部分であった、世界の地理的には半分、人口的には三分の一位を、それまで占めていた植民地体制が消失し、これに代わって、資本主義の世界統一市場が、かってなく発達、整備されて行きます。

 このことによって、各国国際独占体は、国家、国境を越えて、利潤追求の資本制生産活動のグローバリゼーションを、自由に行うようになりました。

 戦後ブレトンウッズ体制として発足した、経済、政治上の国際諸機関が、発展途上国や中国の路線転換との相互関係の中で、ベトナム敗戦以降、IMF(国際通貨基金)、GATT(WTOの前身)、WTO(世界貿易機関)、世界銀行の飛躍的整備、列強(G7やG8、後には中国も加わるし、ロシアも加わり、最近は、発展途上国から急成長したインドやブラジルなども準会員として参加する)諸列強の円卓会議、サミットの発足と定例化など、目覚しく機能強化され、発展していったことも、かかる事態の条件になっています。


3.このことを、通じて、「多国籍化」した国際独占体企業は、絶対的、相対的剰余価値搾取の資本制生産の直接的生産過程である工場内での分業と協業を国際化させて行きます。

 剰余価値生産、搾取の構造、あり方が、このように変化し、これに応じて、資本主義の蓄積構造とプロレタリアートのあり様も、レーニン「帝国主義時代」とは、根本的に変化して行ったのです。
 それは、以下の内容です。

 現代資本主義は、ICシステムを活用した管理システムの、ある面での自動化、無人化、他方での労働力の「“死んだ労働”への“生きた労働”の徹底的包摂、付属物化、部品化」、いわゆる、マルクスが言う「“外延的包摂”から、“内包的包摂”(資本論)」を、フォードシステム、テーラ−システムの継承とそのブルジョア的超克を、直接的生産過程で進行させて行きました。

 徹底的「部品化」としての、労働力の利用欲求から来る、労働の単純化、従って、安価に、その場、その場で使い捨てられてゆく労働者の《プレカリアート》化、その外延的なものとしての《マルティチュード》化が、世界的−一国的に進行します。

 このように、資本のグローバリゼーションの下で、剰余価値搾取の直接的生産過程は一大変革がなされて行ったわけです。 
 かかる事態に於いて、グローバリズム資本主義の、レーニン「帝国主義」の強調する植民地の獲得に拠る強収奪、強搾取とはまったく違う、別の質の強収奪、強搾取の構造が生まれて行きました。

 このことによって、アメリカ独占を中心とする各国列強の国際独占体や金融資本の独占体が途方もない、利潤を上げ、巨大化し、国家、国境を超えて、さらにグローバルに成長、発達して行った、といえます。

a,資本はグローバル資本に、資本主義は擬似的、近似的に「世界資本主義」に接近することにおいて、国際的価値法則が、レーニン帝国主義の頃と違って、ボーダレスな単一世界市場に応じ、純化して貫徹してゆくようになった、とも言えます。

b,それゆえ、国際的資本は、国際的なこの価値法則に従って、自由に、流動して行くようになりました。

 擬制的な資本である、株や各種の債権、債務の証書を伴った金融資本も、より自由に流動するようになりました。

c,デリバティブやヘッジファンドなどのさらに擬制的な先物投資の債権−債務のシステムも発達し、これに応じて信用膨張と収縮もこれまでとは比較にならないほどグローバルな規模で、急激で、大量、大規模となり、これに寄生し、投機資本が、これまでとは比較にならないほどの量、規模で、世界を駆け巡って行くようになります。

 レーニン「帝国主義」論で言われている、「寄生性」「利札切り」の資本主義の新たな段階での展開ともいえます。

d,このことが、サブプライム・ローンの国際的規模での発足とその破綻の国際的規模での展開、これが、引き金となってのリーマンブラザーズら他分野の金融資本−市場に連鎖的に波及し、世界同時金融恐慌の今の展開となって行っています。

 そして、これが、潜在的にこれまであった、実体経済での「生産の過剰と制限された消費」の関係構造で、過剰生産恐慌に連なって行くわけです。

 過剰生産恐慌であることは、アメリカ自動車産業、ビッグ3の破綻的事態で明白になった、と思います。

 又、これは、遅かれ早かれ、農業恐慌に波及して行くだろう事も指摘しておきます。

e,さて、それでは、サブプライム・ローン、金融恐慌、過剰生産恐慌、農業恐慌の真の契機、原因は何でしょうか。

 それこそが、資本のグローバリゼーション運動の「槍先」であり、かつ、その「培養源」と規定できる、アメリカ産軍複合体を機軸とするアメリカー世界経済を牽引してきた“戦争ビジネス”であったといえます。

 この「槍先」「培養源」としてあったイラク、アフガンの「侵略戦争ビジネス」が、米軍らにおいて旗色が悪くなり、破綻して来たこと、このことこそが、隠された、真の世界恐慌の契機、原因であった、と言い切れます。



4.このことは、特別に意識化して捉えておくべきこと、として、さらに、次のことがあります。

 ネオリベのグローバリズム資本主義の下では、それまでは一国規模で形成されていた《相対的過剰人口》が、グローバリズム独占資本によって、意識的に国際規模で、巧みな分断策を伴いつつも、創出されてゆくようになったことです。

 ここから、「格差社会(つまり、富めるものと、貧しいものとの階級的格差の一層の拡大」が、世界的規模で、世界−―国的に生まれていった、といえます。


5.以上の諸経済・社会現象は、決して、レーニン「帝国主義論」では説明しきれないことで、資本主義の第三段階目である、「グローバリズム資本主義」の段階を、導入せざるを得ないと言えます。

 又そうしてこそ、この新しい経済諸現象は、マルクス主義的に、極めてすっきりと説明して行けます。
 
 このことを、レーニン「帝国主義論」との関連で比較対照し、捉えなおして行けば、以下のように言えるでしょう。

 まずもって、この段階は、マルクス「資本論」で解明された産業資本主義、レーニン「帝国主義論」で解明された金融独占資本主義の延長、発展としてあることが確認されるべきです。

 だから、グローバリズム資本主義は、この二つの段階の特質を併せ持って、それを総合しつつ、継承している資本主義といえます。

 その「併せ持って、総合し、継承するもの」として、かつ、そのことにおいて、前、二つの段階の、資本主義とは違い、それを越える質の資本主義段階に至らしめた、要の位置にある経済行動の性質が、資本のグローバリゼーション運動であること、このことです。

 この新しい性質が、これまでの資本のあらゆる活動分野の中軸に座っているのが、この新しい段階の資本主義の特徴である、と言い切れます。

 この、資本のグローバリゼーション運動に、「新植民地主義」も、「局地戦争」もあるいは、「第三次世界大戦の危険性、可能性のモーメント」も、全部、包含されている、といえます。

 そういうものとして、僕は、上記1〜4の特質を挙げておきました。

 レーニンの言う、「資本の集積、集中としての独占資本の形成と発達」、「金融独占資本の発達」、「金融寡頭制」、「商品輸出に変わっての資本輸出」、らの資本の基本運動構造は、変わらないわけですが、新たに、変化、発展して行った、と考えます。

 レーニン帝国主義論の指摘する諸特質は、いずれの指標も変わらないのですが、植民地を喪う中で、その代わりに得た、国際的な有機的連携性を持った、資本のグローバリゼーション運動によって、その中実(なかみ)が変わっていったわけです。

 「資本の集積、集中」も、先の「直接的生産過程の変化、労働過程のの変化」から、新たに、変化して行きました。

 「金融独占資本の形成、金融寡頭制」もそうです。

 「商品の輸出に替わっての資本の輸出」も。

 レーニンのいう「勢力圏形成」も、そうではあるにしても、排他的閉鎖的で、ブロック化にいたるようなもではなく、世界市場にリンクし、そこへ開かれているリージョナブルな性格になって行った、と思います。

 つまり、資本間の競争が、統一世界市場を前提とする、「軍事を時には伴う」、「軍事力に、“物を言わせた”」、「それを背景とする」にせよ、又、これと一体にせよ、それには、直接には、規定されない、本流としての、激烈なグローバリゼーションのシェアー争いになっていった、と言えます。

 なお、これは常に、プロレタリアートら民衆を犠牲にして進みます。

 軍事に「物を言わせ」、「軍事を背景とした」、「時には、それを使用する」ことを、付帯しつつも、「主権」が尊重されざるを得ないがゆえにその国家、国境を超えた市場原理に沿ってグローバリゼーションが貫徹して行ったわけです。

 それ故、国際独占体同士の競争は、開かれたブルジョア「国民経済」の勢力圏争いは、国際的な経済・政治上の諸機構内部での、熾烈な政治的ヘゲモニー争いに比重が相当移って行った、ことも指摘できます。
 各国帝国主義間の「不均等発展とそこから生ずる不均衡性」も、この枠に、大きく制限され、この枠での、ヘゲモニー争いに、その比重が強まったわけです。

 このグローバリゼーション運動の要となるものが、くどいように、繰り返しますが、6、3の冒頭で指摘しますが、上記の「このことを、通じて、《多国籍化》(本当は、国籍を持っているのですが)した企業は、絶対的、相対的剰余価値搾取の直接的現場、直接的生産過程での工場内での分業と協業が変化しつつ、国際化したこと。 国際化しつつ、変化したこと。変化しつつ、国際化したこと。 剰余価値生産、搾取の構造、あり方が、このように変化し、これに応じて、プロレタリアートの労働のあり様も変化したこと。」これが、起点だということです。


6.このことを起点にして、僕は,資本に強制されて生まれる「生産手段からの、他方では、労働力を売らざるを得ないことに於いて、二重に疎外されて“自由な”、これまた、マルクスが指摘する《二重の意味で自由(マルクス「資本論」)なプロレタリアート》が、その自己否定を通じて、《生産の社会化の主体》として内包的に成長し、他面では、その外延化として《国際プロレタリアート》への成長を進行ささせて行く、と断言できます。

 つまり、プロレタリアートが、「生産の社会化と国際化の主体」として、成長してゆく、必然性が生まれてきている、と言うことです。

 僕は、そのことを、階級形成上の言葉として、意識されたものとして《国際プロレタリアート》の《世界プロレタリアート》への階級的成長と、捉えています。
 
 こう言った辞退は、ネグリいうところの“マルチチュード”に通底してゆく現象です。

 又、その不規則で不安定就業のプロレタリアート、中、下層が“プレカリアート”と言えます。

 しかし、彼の「帝国」論は、残念ながら、「資本論」の構成とその内容に、忠実でないから、このことを現象的にあげつらいはすれ、理論的、論理的、体系的、この意味で、科学的に捉え切ってはいません。

 たくさんの、あやふやなところや間違った認識があります。


7.このような、グローバリズムの現代資本主義は後戻りできない状態で、先、つまり、単一の世界資本主義の方向に進みます。
 しかし、超国家の単一世界資本主義→世界ブルジョア政府に接近して行けば行くほど、自らの出自母胎、一国「国民経済」に規定され、リアクションを生じ、完結はでききれないわけです。

 ここにおいて、グローバリズム資本主義は、「前に進もうとするが、進み切れず、さりとて、一国資本主義の《国民経済》にも、完全には回帰もできず、資本の世界性と一国性の矛盾、激化の中で、“苦悶”し、“痙攣し続ける”」過程にある資本主義と言えます。
 
 資本主義は、いかにグローバル化しようとも、自らの出自の母胎たる、一国「国民経済」の枠に規定されている、ということが原因です。

 アメリカ資本主義こそが、世界資本主義経済の唯一の機軸国として、この「一国性と世界性」を、これまで、一応統一してきたのですが、それが、このネオリベのグロ−バリゼーションの要である「戦争ビジネス」で、限界に逢着し、破綻しつつある、ということが、現在の世界と各国の資本主義の現状と言えます。

 アメリカは主権を、世界ブルジョア政府に委譲することはできません。そもそも、世界政府はないのですから。 国連をそうしようともしていません。国連の理念、原則、民主主義性とそのブルジョア性、帝国主義性が、アメリカ帝国主義ら帝国主義列強に合わないからです。

 それで、サミットらで、列強は、国連に、代行せしめようとしているわけです。


8.従って、人類世界の単一化は、前述した、生産の社会化、国際化の主体、国際プロレタリアートが世界プロレタリアートに成長し、「世界社会主義革命―世界同時革命−世界プロレタリア独裁」を貫徹することによってのみ可能である、ことが見通せます。
 
 ロシアとアメリカのウクライナへの勢力圏を巡って、一時、帝国主義国民国家間の戦争の兆しがありましたが、それ以上には広がりませんでした。

 こういう、可能性は残っていますが、このグローバリズム資本主義主義世界を産み出した助産婦の米中連合が、決裂、解体しなく、存続してゆく限り、利潤追求第一欲求のグローバリゼーションからして、国際金融、産業資本(生産資本)の超巨大化、超国際化の段階性からして、帝国主義列強同士の「国民国家」間の戦争の可能性は、現代では、一層低くなっている、と言って良いと思います。

 イラク戦争やアフガン戦争のように弱小国家、民族への侵略戦争や反革命階級戦争の可能性はありますが、現に局地戦として展開されていますが、ここに、プロレタリアートに≪国民≫の衣を被せて、全体主義的に動員することは、僕ら、国際プロレタリアートが、主体的、自主的に戦ってゆけば、段々不可能になりつつある、ということです。

 (「その5」に続く)

塩見孝也