寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る


過渡期世界の攻勢の段階とは?(その1)

「過渡期世界論」を蘇らせてゆくために



2008年 12月 9日

塩見孝也


 はじめに。

 現代世界は大きな転換期に突入し、新しい歴史の段階に至ろうとしています。

 資本家ら執権勢力、支配勢力、そして民衆にとってもその流動性、混迷性は、その実質に於いても、認識に於いても、ますます深まっています。

 僕の見るところ、どうしても、この流動性、混迷性を解明し、捉えぬく、一元的で、綜合的な世界認識、世界史認識を示す言葉・概念が必要となって来ています。

 かつて、僕らの青春時代としてあった、60年代後半から70年代中期ぐらいの時代、今と同じように世界と日本は、大激動・大流動し、錯綜たる世界を現出させていました。

 あの時代から、“過渡期世界”と言う言葉・概念が誕生してゆきました。

 僕は、あの時代を生きた一人の民衆、人間としての歴史的継承関係からして、これからの時代を、一言で言って、“過渡期世界の攻勢の段階”と捉えて行ったら良いと思います。

 われわれ年配の人々はもちろんのこととして、特に若い人たちにこう言った時代認識を持って、これを指針として力強く、生き抜いてくださればと思います。
 

 この「過渡期世界」と言う概念・言葉につきましては、年配の人たちには、ともあれ、若い人達には、全く、目新しい言葉だと思います。

 この点で、多少ともブントの歴史とそこでの僕の役割についても触れざるを得ませんので、触れることから始めます。


●「過渡期世界」という概念は、1968年、第二次ブント、第7回大会において、「世界同時革命」というマルクスの革命思想の概念の復権とともに採用された世界(歴史)認識です。

 マルクスは、その著書(エンゲルスとの共著でしたが)「ドイツ・イディオロギ−」の冒頭部分で「世界革命は、ヨーロッパ資本主義のイギリス、フランス、ドイツ、イタリアらとアメリカにおいて、一挙的、同時になされる」と述べています。

 と同時に、「プロレタリア世界革命をもって、人類の自然史から、真の人類史が開始されてゆく(同じく、「ドイツ・イディオロギー」)」と言っています。

 この認識を、ロシア革命以降の世界(史)認識に適用したのが、「過渡期世界論」であったわけです。


●第二次ブントは、その後、分解して行ったわけですが、この認識を、ブントの流れの中にあって、それを継承・止揚せんと苦闘してきた、どの政派、グループ、個人も、正式には否定、清算したことはありませんでした。

 第二次ブント時代において、この論を提起、命名したのは僕であったわけですが、この「過渡期世界−世界同時革命」の第7回大会路線を、もっとも、忠実に実行し闘ったのが、赤軍派でした。

 しかし、その赤軍派も特別な条件下での、ブント潮流にとっては又特別、特殊な事件、連合赤軍事件に遭遇する中で、その未熟性を露呈し、解体せざるを得ませんでした。

 以降、「過渡期世界論−世界同時革命」路線は、否定、清算もされませんでしたが、それを真の意味で、止揚せんとすることにおける深刻さと困難性ゆえに、否定・清算はされなかったものの、他面では、ベトナム戦争以降の、カータ−からレーガン・サッチャ−・中曽根を経ての国際資本主義のネオリベラリズムのグローバリズム資本主義確立による体制建て直し、巻き返し攻勢、これに照応するプロレタリアートの側の後退戦の過程で、棚晒(たなざら)しになったまま、放置されてきました。

 「過渡期世界論−世界同時革命」路線は、約40年間、くすんだまま、放置されてきたのでした。

 しかし、この認識は、70年安保大会戦を経て、その後の後退戦と反転攻勢の期間における苦闘の経験、反省、総括運動の成果を注入しつつ、蘇らされ、復権されてゆくべき時期が到来した、と考えます。

 なぜなら、混迷し、流動する世界−日本の情況を一元的、統一的に見てゆくには、この世界(史)認識が、どうしても必要であるからです。


●この40年間の,僕にとっての「総括運動の成果」とは
イ.マルクス「資本論」の学習に基づく、資本主義批判の科学的獲得、そのことによるプロレタリアートの能力、変革における地位、役割の確信

ロ.人間としてのプロレタリアートら民衆の世界(宇宙、社会、意識)に対する中心性(命の最高尊厳性とそれを社会的に保障する自主性の最高尊貴性を内容とする)の承認

ハ.資本主義の第3段階目としてのグローバル資本主義の批判

ニ.民衆中心、人間中心での非暴力の憲法第9条の絶対的ともいえる評価・支持、および「平和と民主主義、より良き生活」の基本諸条項の徹底的評価、支持の重要性、かつ、同じく民衆中心、人間中心で、つまり「世界同時革命」の観点で、諸民族が人類へと接近、融合してゆく、「国民国家」に集約されないで、それを自己否定的に超えてゆく存在である、と言う認識として、新しい概念としてのパトリ性を措定したこと。

らやその他のことです。


●さて「過渡期世界論−世界同時革命」の、当時における、基本内容についてです。

★ロシア革命の実現を持って、それ以降の時代は、資本主義から共産主義への世界史的、世界的規模での移行期に至っている、という世界(歴史)認識です。

★この認識は、資本と労働の関係において、それまで、資本専制によって、プロレタリアートが賃金奴隷として客体化され、受動的存在であったのに比し、ロシア革命以降の階級関係においては、生産の社会化・国際化の主体として、能動的存在に成長してきている、という認識をガイストとしています。

 言い替えれば、資本が利潤追求を第一とする、その本性からして、個人利己主義としての欲望を資本主義と資本主義国家のシステム(ブルジョア国民国家)を通じて、適者生存の弱肉競争戦を実行し、彼等流の世界性に奔騰させることを追求しつつも、その出自である「国民経済」の一国性を突破しえず、資本主義の唯一の自己救済の道、戦争が塞がれれば、資本主義は恐慌を抜け出せず長期停滞し、世界性と一国性の果てしない矛盾を解決しえず、果てしなく苦悶してゆく、のに比し、プロレタリアートは生産の社会化・国際化の主体として、この矛盾を止揚しえる、という確信をガイストとしていたことです。

 この資本の世界性と一国性の問題については、若干、余談かもしれませんが、最近、「過渡期世界論」、ブント・赤軍派の路線のもっとも忠実な継承者の一人である、かつての「日本赤軍」の指導者の重信房子さんが、「図書新聞」の連続インタビューでも触れてもいます。

これは、

★更に、このことを、階級関係の歴史的推移、つまり、プロレタリアートとブルジョアジアジ−とのロシア革命の実現から始まった階級攻防、共産主義と資本主義の階級攻防の展開過程を分析して行く場合、つまり、プロレタリアートとブルジョアジジーの階級攻防関係を、僕らは「(両階級の階級戦争としての、多分に比ゆ的な意味を持つ)世界革命戦争」と捉えてきました。

 そして、その「階級攻防」の「戦争」的関係の展開過程を政治的、軍事的に捉えた場合、「防御」→「対峙」→「攻勢」の三つの段階が想定される、と考えてきました。

 ★ロシア革命以降を空間的にブロック的に分けた場合、当時、60年〜70年代の 「過渡期世界」を

 a,「先進資本主義国」

 b,「植民地、封建国(いわゆる、「第三世界」と後に言われました)」

 c,「堕落した労働者国家(スターリン主義国家)」

と捉え、3ブロックの階級闘争は、密接不可分な有機的連関性、同質性、同時性を有していること、それ故に、僕らプロレタリアートのコミュニストは、この3ブロックの階級闘争をプロレタリアートのヘゲモニーで持って、「世界同時革命」の観点で、結合してゆくべき、と主張しました。

つまり、
 a,での「(戦争前段)での前段階決戦」 

 b,での民族解放・民主主義から社会主義へ 

 c、世界革命の根拠地化・継続革命

 ―――いわゆる「3ブロック階級闘争の結合・世界同時革命」論でした。

 今では、この「植民地、封建国」の「第三世界」は、今日では、「資本主義の発展途上国」に変わって来、旧ソ連は資本主義国となり、中国も資本主義と変わらないほど、資本主義に変色を一層深めていますが、この「世界同時革命−3ブロック階級闘争の結合」のテーゼ、いわゆる「3ブロック・テーゼ」は、世界が、世界統一市場のかつてない程の整備、これと一体のネオ・リベのグローバリズム資本主義で回っている以上、より一層、国際プロレタリアート対国際ブルジョアジ−の対立の基本矛盾が深まって、世界革命が世界社会主義革命であることがますます鮮明になってきていますが、今でも有効と思います。

★この観点に従った場合、現情勢を大きく概括すれば、「防御段階」→「対峙段階」の関係段階を経て、「攻勢の段階」を迎えた、と捉えられるわけです。


 以上を踏まえ、この40数年間の間で学んだ、先に述べた教訓を踏まえて、基本的には、開始されつつある「攻勢の段階」の基本性格とそこから出てくる基本方針、任務を明瞭にしてゆくことに主眼を置きつつ−−−そこではこの40数年間の教訓が活かされて行くこととなります−−−過渡期世界の「防御」「対峙」の諸段階がいかに推移して来たか、を捉え返し、そして、それを経た「攻勢の段階」がいかに準備されたか、そして、それは、いかなる性格を有すか、について、を要点を絞りつつ、展開して行くこととします。

 (「その2」に続く)

塩見孝也