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蔵田計成氏に答える。(完成稿)

「情況」8月号 「検証・連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史的責任」 に対して

2008年 9月 21日

塩見孝也

 先日アップした「蔵田計成氏に答える」は、論旨自体は、相当、鮮明に記載しましたが、文章構成が拙く、補足やさらに、その補足があったりで、内容も反復したりして、校正も不十分でした。

 説明不足のところもあり、読みづらく、僕も、もうひとつ納得しえないところもありました。

 それで、文章構成も、構成しなおし、一本化し、説明も付加したりし、読みやすく、分かりやすくしました。相当、読みやすく、分かりやすくなっていると思います。

 こうする作業を通じ、僕の立ち位置も、より一層、意識的に掴めるようになりました。

 それで、完成稿として、再録することにしました。しつこくて、まことに申し訳ありませんが、どうか、よろしく、お願いいたします。

 なお、この完成稿は、 「情況」誌、10月号に掲載されます。



1.はじめに

 蔵田計成氏が、「情況」8月号で、若松孝ニ「実録連合赤軍」批評に絡め、僕について意見(批判)を表明しています。

 「新左翼主義の主観的極限思考の果てに演じた客観的背理(「情況」8月号「新左翼運動とは何であったか」の「検証/連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史責任」)」なる主張を持って、大上段に、「ブントの歴史責任」なるものを論じた文章です。 

 この文章は、論旨の核心部分、つまり連合赤軍事件の解析を、不明にした、俗論に拝跪した、論理展開の仕方も整合性のない、決め付けばかり、と思えます。

 「情況」誌上では、これまで、僕の連合赤軍問題の見解は、この30年余、同じことを言い続けているのですが、今年7月号『若松孝二、「実録連合赤軍」特集で、結論部分を、さらっと展開した程度で、ほとんど展開していません。

敢えて、これを機会に、僕の見解を、反批判に絡めて、枚数に限りがありますが、できるだけ全面的に展開したく思います。

a,ブント(運動)史を、歴史的評価として、どう捉えるべきか。

b、連合赤軍事件について、その全体像、展開構造とその真相、原因について。

c、責任関係をどう捉えて行くべきか。

d、赤軍派、ブント(運動)の止揚の道筋について。

以上の、四つの分野で、氏の主張に噛み合わせつつ、展開してゆきます。

2.ブント(運動)史の歴史的評価は、どう捉えられるべきか。

●蔵田氏は「歴史的検証」と称して、プロ通派・武装蜂起論→関西ブント・「政治過程論」→ブント再建・三派全学連→10・8・11・12闘争→第7回大会・「一向過渡期世界論」→赤軍派結成・「前段階決戦」らを蔵田流「ブント14年史」、として語り、この過程での「戦術駆使」による「行け行けどんどん」「倍々ゲーム」感覚に、「決定的問題があった。」と言う。

 何故、それが、問題であったのか、については、何の基準、根拠も挙げていません。

 氏自身も、ブント出身であり、池田内閣打倒の「階級決戦論」を革通派として唱え、敢え無く破産し、また氏の著作「新左翼運動史」では、僕の連赤事件総括を支持、評価していたのに、「所変われば品変わる」「君子は豹変する」なのでしょうか、時代の変化やいろんな人々の思惑も絡んでいるのでしょうが、この評価は、僕には、あまりに軽薄で、不自然な気がします。

 実は、連合赤軍事件の誤った評価 、総括がこの背後には、あるからなのですが、それは、次の章で展開してゆくこととして、ひとまず、彼のブントの歴史的評価を検討して行きます。

 連合赤軍問題は、「同志粛清」、つまり「同志殺し」の問題であります。

 これは、一般に政治・思想上の問題ですが、もっと分かりやすく言えば、民衆、人間の人間性、「命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせる自主性」の問題に関わることであり、いってみれば、ヒューマニズムに反する行為(反ヒューマニズム、非、乃至、反ヒューマニズム、つまり、反人間中心主義、反民衆中心主義)についての問題であった、と思います。

 革命運動の大義の大義の核心は、ここにあります。つまり、「民衆、人間の人間性、つまり、《命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせる自主性尊重》」のヒューマニズムの問題にあります。

 連合赤軍事件は、この大義を、「同志殺し」をやることで、歴然とした形、内容において否定、裏切ったが故に、世間に衝撃を与え、民衆運動に多大な混乱と損害を及ぼしました。


●ところで、第一次ブント、第二次ブント、或いは、赤軍派は、それまで、積み上げられ、練り上げられてきた運動とその政治・思想路線、つまり上記の大義を裏切ったでしょうか。

 中には、その未熟性故に、暴力体質や軍事至上主義的偏向を有し、間違っていて、後に自己批判しなければならない問題を持った闘い、政治行動も含まれていますが、大局、基本的に見れば、断じて、そうとは言えません。

 第一次ブントの、反スターリン主義思想を根元に置いた60年安保闘争、関西ブントの大管法闘争や労働運動の組織化、全学連再建とブント再建の志向、第二次ブントの全学連再建、ゲバ棒、ヘルメットで武装し、機動隊を打ち破った偉大な10・8−11・12闘争やその後のゲバ棒、火炎瓶で武装した東大闘争ら一連の戦い、――――― これらの闘いを単純に「行け行けどんどん」「倍々ゲーム」の否定的戦いとして捉えて良いのでしょうか!

 それにしても、第一次ブント書記長・島成郎さんまで否定するとは、如何ほどに、尊大なことでありましょうか。

 赤軍派について言えば、大阪戦争、東京戦争、首相官邸占拠を目指した大菩薩軍事訓練闘争、連続M作戦、6・17闘争、らは未熟な武装闘争ではあれ、日本プロレタリア革命運動史上、初めて、自己の行動を権力問題、民衆権力闘争―武装闘争として、目的意識的に位置づけ、公然と集団的、組織的に闘った闘争でした。

 よど号ハイジャック闘争は果敢な戦いでありました。

 しかし、乗客を盾にした点で、軍事・戦術思想としては、反民衆的戦術でしたし、後に、厳しく自己批判されましたが、田宮同志ら9人の赤軍派戦士達の、その無私性に基づく、ヒューマンさ、勇敢さ、明晰な判断力、組織性故に、乗客を傷つけたりすることなく、目的を貫徹しました。

 パレスチナ国際義勇軍を構成した、赤軍派アラブ支部(当時は、まだそうだと思います)の奥平、安田、岡本三君のリッダ闘争では、確かに、巡礼者がイスラエル軍との戦闘の過程で、巻き込まれた点はあるものの、決して「無差別殺人事件」ではなく、誠に、無私、ピュアーで、凶々しい限りの「同志殺し」などとは、全く無縁な、ヒューマンでロマンチシズムの極限の様な戦いがやられています。

 奥平君らは、凄い人たちで、ほとほと頭が下がります。奥平さんは、日本革命家の中でも、最高に傑出した人の一人として、僕は尊敬しています。

 若干、敷衍すれば、革命左派の柴野君らの12・18闘争、あるいは2・17闘争も基本的には革命的行動だったと言えます。


●氏は、これらのブントー野合に走る前の森君を指導者とする闘いをも含む赤軍派の戦いと革命左派(永田派)の2名「処刑」以前と、それ以降の森派と革命左派の一部、永田派の野合→「連合赤軍派」=でっち上げの私党、「新党」の「同志殺し」を、混同してしまっています。

 僕は、2名「処刑」は知りませんでしたが、又、永田派や「連合赤軍派」が、山を根拠地と考え、実行していた、ことも知りませんでしたが、赤軍派、革命左派から「統一赤軍」−野合「新党」のプロセス、その間には、激しく、鋭い、「合流」「野合」に反対する、思想・理論闘争、政治的闘いが存在したことを氏は無視しています。

 この、区別ができて、いないのです。

 それ故、氏は、ブントが、たとえ、その階級基盤も、小ブルジョアの学生大衆に主要に置いていて、その未熟性と相俟って、もろもろの限界、欠点を抱えていたとは言え、いろんな困難を、乗り越え、前進し、民衆運動を発展させ、民衆も自分も革命化し、遂には、権力問題―武装闘争の地平にまで進んでいったこと(さりとて、これに反対した人々の主張、行動を、これまた、歴史的意義があるものとして、僕は否定しませんが)いわば世間的には「過激化」したこと、それ自体が問題である、と捉えています。

 これは、革命を目指すことを前提にすれば、仮に、蔵田氏が革命家足らんとするのであれば、とんでもない過ちと言わなければなりません。

 つまり、ブント−赤軍派−これを機軸とする新左翼運動の行き着く先、「極限」は「袋小路」であり、「同志殺し」が、始めから、約束されていた、と、なってしまいます。


●尚、当時までは、赤軍派は「攻勢」の戦術を、採っていましたが、レーニンの戦術思想である「階級の相互関係から、科学的に割り出す」といった戦術思想に立脚していたから、中国の路線転換の兆しや同志達の保釈出獄の動きなどもあり、この戦術をすでに転換してゆく退却戦の、議論も、赤軍派は、連赤事件前後で、組織内議論を始めており、単純に行け行けどんどん、ではなかったこと。

 さらに、一応、組織は、綱領―組織―戦術の三位一体であることを踏まえてですが、最後は正しい実践、つまり、戦術(戦略―戦術)で運動は決まってゆくこと。戦術方針を打ち出し、それを実践できない組織など、革共同と違って革命組織ではない認識も持っていたこと、も敷衍しておきます。

 又更に敷衍すれば、ハイジャック後、大衆路線として、4・28の3千人規模の大衆集会ら、大衆集会を設定し、大衆路線を追及しながらも、ハイジャック後の、「赤軍罪」といわれる、猛弾圧によって、これを、貫徹できず、やむなく、地下化、「非合法」化に、追い込まれて行った経過も一応、押さえておいて、下されば、と思います。


●革命は本質的にヒューマンなもので、かつ、それを実現せんとする「過激」性を要求します。

 言い換えれば、ヒュ―マンであろうとし、それを徹底して追求しようとすれば、革命を追求することになるということです。

 ところが、蔵田氏は、この、見解とは反対に、「過激化すること」が、すなわち「反ヒューマニズム(同時に、反民衆主義)を深める」、と勝手に思い込んでいるようです。


 僕の見地は、彼の意見とは全く違い、反対に、「ヒューマニズム(民衆中心主義を踏まえた、これと一体の人間中心主義)を押さえ、それを第一義に涵養してゆくものであれば、必要に応じて《過激化》することは、一向に構わないし、それは必然で、正しいことである。」「《過激化》することは、基本的に良いことだ」という見地です。

 一体、ブンドに、基本的事柄として、反ヒュ―マンな行動が、彼のいう「ブント14年史」に存在したでしょうか。

 蔵田氏は、革共同・中核派の行動を挙げてはいますが、ブントについては、挙げていません。

 彼流に考えてゆけば、このような主張は、本質的には、穏健主義、秩序主義の賛美、而して、日和見主義の肯定、革命否定に行き着くことになると思います。

 この意味で、この小論は、現在も存在する沼地派の蒙昧極まる右翼日和見主義を表明する、あまり質の良い文章とは言えません。


●次にこういった持ち出し方についてです。

 そもそも、こういった≪ブントの歴史責任≫なる出し方は、普通、革命を成し遂げ、指導権を確立したような権威あるスターリン主義党の決議とか「党史」などで、良く使われる手法です。

 中国党には、中国党の歴史があり、党史も、「極左冒険主義」とかの言葉も使われています。

 しかし、ブント系はスターリン主義ではないし、日本共産党のように、中国を真似たやり方を取るべきではありません。

 こんな手法、用語を前提にすること自体、日本民衆の闘いの歴史、ブントの歴史を一見わかった風に説明しつつも、本当はまったくわからなくさせてゆくのです。だから、ブント系左翼はこういった手法、作風から自由であるべきです。

 又、その可能性を予感させる人、人々、グループは存在していますが、こういった形で、普遍的に問題を出し切れる、個人、グループ、政派、或いは、ネットワークはブント系に、今の所は在存しません。 こういった試みを行うことを、僕は、あながち否定するつもりはありませんが、徐々に、あせらず、全体のコンセンサスが、成り立つ形で、関係者が、協力し合い、協議してゆけば良い、と思います。

 ですから、 己の信ずるところに従って、これまでのブント運動を相対化しつつ、自己否定的、自己批判的に、真摯に総括し、実践し、その実質を創出してゆくことが何よりも大切、と思います。

 ある面で、この言説は、ブント系の日和見主義者の沼地派の一種の政治的生理衝動といえないこともないですが、蔵田氏は、沼地派すら代表してなく、彼だけを代表しているに過ぎません。



3.連合赤軍事件の真相、原因、全体像と赤軍派との関係について。

●蔵田氏は、連合赤軍事件を正面から、全然論じていません。

 今の左翼、ブント系で、まともにこの事件を論じ、解析する文章に僕は、ほとんどお目に掛かったことはありませんが、実は、氏は、永田さんの自己弁護、責任転嫁の連赤問題総括を取り入れ、世間一般にマスコミを通じて流布され、常識化されてきた、体制側の「《共産主義化》を含む過激主義、革命追求、権力闘争や武装闘争は、必ず、同志殺しに行き着く」、という俗論に立脚しているに過ぎません。

 そして、こういった風潮に拝跪し、これを、自分もブント(系)であるにも関わらず、「その下手人はブントであった」といっているわけです。

 ≪新左翼主義の主観的極限思考の果てに演じた客観的背理≫≪「主観的には共産主義を目指しながら、結果的には「一挙的共産主義化」「敗北死」「総括」「粛清」と言う革命とは無縁な愚行を演じた。」と。


●「共産主義化」は、形而上学的に粉飾された、同志支配、「粛清」の道具であった。

 永田さん、森君が、「主観的に、共産主義化を目指していた」は間違った認識といえます。

 僕は、本質的には、個人利己主義に陥っていたと思っています。



 このような、連合赤軍事件の内的展開構造、規則性など、氏はまるでわかっていないのです。
 だから、きめ付けばかりになるのです。具体的な事実関係の分析、検証は全くされていません。
★「銃による殲滅戦」すら、味方の獄中赤軍派や獄外の同志達、或いは獄中、獄外の革命左派に向けられていたことは、すでに確認されている事柄です。

 氏は、この事実をどう見るのか。

★何よりも、向山、早岐、両氏の2名「処刑」が、永田派で、まず実行され、これが、事件の決定的導火線となっていること、これをどう評価するのか。

★いやしくも、真に「思想運動」なら、何故、あの様な大量の「同志殺し」が、発生するのか。

★さらには、「新党」反対の意見書を持って行った加藤能敬君やその恋人、小嶋さんや彼等と同じ意見を持った、川島君と救援対策部として、良く会い、親密な尾崎君が、最初に「総括対象」にされたのか、全然説明しえません。

★或いは、遠山さんと彼女が連れて行った進藤、行方、山崎ら三君が何故、集中的な総括対象とされたか、についても、全然説明できないのです。 取り上げてすらもしていません。

 こんな一寸考えれば、気がつくことが氏には分からないのです。

 路線一致なき、「野合」ゆえに、森君、永田さんの指導権は不安定で、野合に反対する人々を、二人が、競争しながら、結果的には3対3、ないしは3対4で、「総括」の掛け合いっこをしていたこと。

 「新党」反対派を、排除、抹殺すると、次の段階では、「新党」に賛成している、大槻さん、金子さん、寺岡君、そして、山崎君、山田君を、不当に、ライバル視し、「総括」に掛けて行っているわけです。

 ★さらに、「極限思考の果ての背理」なる洒落た言辞を弄していますが、「どのような事情、構造、原因で、この“背理”が起こったのか」については、何も説明していません。

「共産主義化」は、その言葉概念からすれば、何の基準、規定性も持っていません。従って、いくらでも、恣意的な位置づけができます。
 この意味で、「共産主義化」論は、野合「新党」をでっち上げ、永田さん・森君が自己権力を固めるための、反対派の排除、抹殺、「粛清」のための道具として使用され、自己の権力を固め、同志、戦士たちを支配、抑圧するためのカムフラージュであったわけです。
 彼は、このカムフラージュの本質が、何であったかを見抜けず、この「共産主義化」の形而上学的粉飾に惑わされ、内容も検討せず、額面どおりに受け取り、森君、永田さん達のこの「共産主義化」、ないしは、そういった志向性の本質を、擁護、防衛しているのです。
 ここでは、蔵田流の、連赤事件についての、永田さんらが、自己弁護、責任転嫁のために、ひねり出した連合赤軍事件の認識とその総括、つまり「野合」を肯定し、個人権力固めの、「粛清」の方便としての、形而上学的に粉飾された「共産主義化」論を肯定した、「16の墓標」などが、暗黙の前提になっています。

 ★「新党」反対派を、排除、抹殺すると、次の段階では、「新党」に賛成している、大槻さん、金子さん、寺岡君、そして、山崎君、山田君を、ライバル視し、「総括」に掛けて行っているわけです。


●氏にあっては、連合赤軍事件では、ブント急進主義とは全く違う「連合赤軍派」=「新党」のもう一つの主役である、革命左派の一部の永田(派)さんグループの要因を、一顧だにしていません。

 蔵田氏は、ブント世界だけしか、検証の視野がなく、連合赤軍事件には、もうひとつの別の世界が存在していたことが分からないし、分かろうともしないのです。

 これは、連赤事件解明に於ける、絶対的に無視し得ない重大な事実関係、要因を無視する、非科学的で主観主義そのものの手法と言えます。

 連赤事件は、森派と永田派の関係の中で、発生している以上、両者の関係の全体像を描いて、その上で、森派や赤軍派のポジションがどうであったかを、確定すべきでしょう。

 何よりも、先ず、氏には、こういった基本観点が欠けてしまっていることを指摘しなければなりません。  

 一体、こういうやり方で、正当な連合赤軍事件の検証、総括が出来るでしょうか。全体像が欠ければ、その真相も、基本原因も見つけ出すことが出来ず、ある面では、副次的要因を、主要な要因と見誤ります。

 離婚沙汰の際、女性の側に、浮気乃至恋愛の事実があり、女の方が別れたく思っているのに、男の方は、離婚提起は、そうさせたのは自分の側の所為と一方的に思い込み、自分を責め抜くような例は良くありますが、蔵田氏の対応は、これに似通っています。

 裁判所(別に、現裁判制度を肯定しているわけではありませんが)は、調停するにせよ、離婚認定を決め、子供の問題や財産処理らを決めるにせよ、その際、双方の言い分を聞き、総合的な見地で判断を出そうとします。 氏には、そういった見地がないのです。

 若松監督の「実録連合赤軍」が成功した要因は、問題を歴史的、世界的に捉えているばかりでなく、森派と永田派、赤軍派と革命左派、そしてその歴史的関係を、両方に跨って調査、総合化していったからあの頃の時代性を、ものの見事に映像化しえたわけです。

 (※しかし、野合判断の過ち、スターリン主義の問題まで、かなり触れてはいますが、踏み込みきれていない点では、僕には不満ですが。)
 高橋伴明監督の「光の雨」は、初めて、連合赤軍事件を映像化した、優れた映画ですが、残念ながら、革命左派からのみ追ってゆくきらいがあり、そこに限界があったと思います。

 誰でも、自己が所属したり、関係した党派から、自己のかかわりあい方に照らし、総括に向かいます。それで良いし、主体的に総括すること、とはそういうことだと思います。

 赤軍派も、革命左派も初めはそうでした。しかし、これを出発点にしつつも、双方の関係性、かかわり合い方にまで、事件の究明は、必ず及んでゆきます。そして、全体像を描きつつ、今度はその全体像に照らし、最初の出発点を残しつつも、それを再吟味したり、補強したりしてゆきます。こうして総括は、第2段階、第3段階へと展開してゆきます。

 僕の場合、永田さんらが、裁判結審段階で、居直り、赤軍派サイドのみの所為にし、「森君に付き従っただけ」、「殺された人々にも問題があった」、「赤軍派(塩見)の所為」と、僕の「小ブルジョア革命主義からプロレタリア革命主義へ」の自己批判活動に付け込んで、永田さんや革命左派の要因を不問して行った段階で、僕も永田さん、革命左派を調査、研究せざるを得なくなったわけです。 

 そうすることで全体像が僕の方も見え始め、この事件の主要モーメントが、「無原則野合」の政治判断の過ち、そして「小ブル革命性」どころではない、スターリニズムの問題であることに、確信を持つようになって行ったわけです。

 そして、上記の最初の総括方向を、より明確に捉え返し、そのモーメントの全体に占める位置、比重も正確に捉え返しつつ、堅持していったわけです。

 こう見てくれば、蔵田氏の総括方法、内容は、まったく初期の段階、しかも「小ブル革命主義のプロレタリア革命主義へ」の基本方向すらもない、軽薄な政治的思惑に基づく一面的な代物であることが、明白になります。まったく、愚昧といわざるを得ません。


●永田さんたちが、ブント・赤軍派とは、全く違う世界に住み、スターリン主義を信奉、復権しつつ、それを、先ず、2名「処刑」で実行し、永田さんが主導しつつ、中国革命を模倣し、山岳根拠地路線を強化し、この実績で、森派を、実質、毛沢東思想派に転向させてしまったこと、路線・イディオロギーの違う両グループが、軍事至上を名文に、野合「新党」をでっち上げ、「新党」反対派を「共産主義化」という名文で、粛清していったこと、「連赤」「新党」の残党部分が、権力に追い詰められる過程で、≪同志殺し≫の贖罪心から、日本、初の銃撃戦を闘ったこと、 これが、連赤事件の全体像であり、真相、原因と言えます。

 事件の基本性格は、大掴みに言えば、それまで赤軍派、ブント系であった森派が加わってはおれ、カンボジア・ポルポト派の行動に象徴される毛沢東思想−中国共産党の影響下で世界各地、中国本国で惹起された一連の国際的性格を持った、毛沢東思想盲従派の「殺し」「暴行」事件の一部と言えます。

 日本の革命的左翼の主流、「過激派」は、反スターリン主義を掲げるブント系左翼が主流であったことは紛れもない事実ですが、ひとたび、目を世界に移せば、当時「第三世界」といわれていた地域での、「反帝・反植民地主義・反封建主義」の革命運動を主導していたのは、スターリン主義を否定してない毛沢東思想派であり、革命左派は、その日本での構成部分として、70年安保大会戦の中で、1970年以降、一時期ではあれ、ワンセットの「完成された」中国式、政治・軍事・思想路線を持って、強烈な衝撃を及ぼしつつ、日本民衆運動に登場してきていました。

 このような、外国権威に盲従する悪習は、日本民衆運動の中に、コミンテルン・「32テーゼ」以来、戦前、戦後を通じて、伝統的にあった、日本民衆運動の負の部分であり、弱さでした。

 戦後の50年、第一次安保闘争の中でもありました。所感派といわれていました。

 権力問題―武装闘争の問題が提出された時、日本民衆は、自分の頭、自分の言葉で、日本民衆運動の経験に則して、自らの運動、闘いを総括しつつ判断することができないでいた、問題ですが、それが、革命左派の中で生じた、といえます。

 ちなみに、中国共産党は、ユーゴ・チトー共産主義者同盟とのスターリン主義の評価をめぐって、中ソ論争が始まる前の50年代中期から、論戦し、スターリン主義を擁護していました。

 繰り返しますが、連合赤軍問題の核心は、「急進主義、※攻勢の戦略をとっていたか否か」にあるのではなく、主体建設において、「党」なるものを神格化し、民衆利益の上に置き、そのことで、指導者を絶対化して、そのために、「同志を殺す」ことを、最高の「革命性」と思い込むこと、こういった民衆、人間の「命と自主性」を否定する、インチキ革命観、人間観、思想に関わる問題であり、つまり、スターリン主義を容認するか否かの問題であります。

 (※別に、最初は、意識して、こういった認識をしていたわけではなく、世界の階級関係の構造がそうさせた、わけですが、「過渡期世界論」やその後のブント系左翼ら、新左翼は、徐々に意識化してゆきました。)

 こういった事柄が、既に、日本民衆運動においては、克服されたように思われていました、とりわけブント世界では。

 しかし、権力問題、武装闘争の際、毛沢東の権威も加わって、革命左派の中から甦ってきた、と言えます。

 ブント、赤軍派潮流は、先進資本主義国の民衆、青年の感性、知性を代表し、スターリン主義を否定することでもって誕生した潮流であり、根底にヒューマンな感性、良き意味での、知性に裏付けられたロマンチシズムが存在し、「過激派」の最たる存在であったが、潮流的には、ヨーロッパ先進資本主義国の「過激派」、「赤い旅団」「ドイツ赤軍」と同質な思想的質を持つ潮流であった、と、今では、思っております。

 氏の論法は、こういった世界に占める毛沢東思想派のポジションや特質とブントら新左翼系との厳然たる思想的違いを見ず、先験主義的に、赤軍派やブンド潮流が「過激派であったから、“同志殺し”は起こった」と短絡的に独断し、思い込んでいるに過ぎません。

 
 氏が、「赤軍派やブントの極限志向」を問題にするなら、先ずスターリン主義の問題を押さえると同時に、他方では、奥平君達や田宮同志ら「よど号」グループのような、このような「極限」を闘った人々の行動を指摘し、論ずるべきではないか。

 何度も、繰り返しますが、蔵田氏は、「極限思考の背理」といいますが、「極限思考が何故、“背理”したのか、その原因、“背理”の構造”」については、全然述べていません。

 「背理」などといった洒落た言葉を、氏は使いますが、ただ、それだけで、全然、説明できていないのです。

 僕は、そこに、『路線の相違の無視の野合』、『スターリン主義』(もうひとつ言えば、中国革命教条主義)が介在したから、“背理”したと断言できます。
 
 なお、蔵田氏への若干の苦言ですが、氏が、まともに連合赤軍事件を検証しようとするのであれば、僕の総括を一応は紹介し、検討するぐらいの努力は積み上げるべきであろうが、それも全然やっていません。これは、公平さを欠き、失礼といえないでしょうか。



4.連合赤軍事件総評と責任関係をどう捉えるべきか。

●3で見てきましたように、連赤事件は、スターリン主義礼賛の毛沢東思想・中国革命教条主義の革命左派の一部、永田派が赤軍派の一部、森派を巻き込み、両派が融合を願望し、「新党」を創らんとし、創り、そのために、盲動主義的に行動し、「共産主義化」という形而上学的支配手法、実際は、個人権力強化の「粛清」の道具を振り回し、「新党」反対派の人々を「粛清」していった事件です。 それを、蔵田氏は強引に、無視し、ブントや赤軍派の「急進主義一般」の所為としようとしているわけですが、それは、これまで見てきたように、事実関係からしても、ブントや赤軍派の歴史からしても、あるいは、毛沢東思想派、革命左派の歴史、当時の現状からしても無理な恣意的なこじつけ、といわねばなりません。

 赤軍派やブントの闘いを、連赤事件と絡ませ、その帰結と錯誤するから、こういった2で紹介したような不自然で一面的な日和見主義の沼地派の言説が飛び出してくるのです。

 氏は、革命左派の連赤事件の事実関係の解析、永田さんらが自己弁護、責任転嫁のために捻出した赤軍派やブントに責任転嫁した居直りの言説をそのまま鵜呑みにして、その後も発掘されてきた、革命左派、主として永田派のスターリン主義肯定、復権に基づいての2名処刑や野合「新党」でっち上げのために、この「新党」反対派を、「共産主義化」を名文、カムフラージュにして、排除、抹殺しようとした基本的諸資料、事実関係を全く見ようとしてないのです。

 この事実関係を覆す何の検証もしないまま、思い込み的に独断しているだけです。

 「反スタを掲げスタをやる」類の革共同の内ゲバ問題は、黒田哲学に起因する革共同独自の問題で、これはこれで、独自に総括されるべきですが、このことや連赤事件を、重ねて見る、蔵田氏はパニックを起こしつつ、赤軍派やブント系の革命闘争と混同し、味噌も糞も一緒くたにして、ブントや赤軍派の闘いを否定、清算しようとしているのです。

 あの奥平、安田、岡本君の無私の英雄的なリッダ闘争に極限を見た、ブント・ラジカリズムの70年安保大会戦における権力問題の提出、国際主義を追求した一連の革命的武装闘争は、たとえ、当時の未熟性と一体の軍事至上主義的偏向故、その後、全体的に見れば、革命的に闘いつつも、敗北、挫折したにせよ、そして、二度とこういった形で追求されてはならないにせよ、日本で初めて、プロレタリア世界革命を目的として、公然と目的意識的、組織的に追及した輝けるものが生み出されていたのです。

 僕はこういった革命家達の闘いを今でも誇りに思っています。

 従って、ブント運動やそこから生まれた赤軍派について、「ブント運動や民衆運動後退の歴史責任」とか、「新左翼運動の破綻」とか、軽々に言い、清算して行ってもらっては、困る、と言わなければなりません。
 あくまでも、権力問題の提出、武装闘争の追求の歴史的意義を押さえつつ、その歴史的限界を、ブントー赤軍派の流れの教条主義的固守でもなければ、否定、清算主義でもない、「止揚」「揚棄」「超克」「脱構築」の立場、観点、方法で総括してゆくべきです。
 そのために、民衆とともに実践を行いつつ、思想的、政治的に、深く深く、潜って、パラダイムの転換をはかってゆく、この思想的、理論的作業の重さに向かい合う緊張に耐え抜いてゆかなければなりません。

 蔵田氏はこういった感性、認識を、完全に消失してしまっています。

 氏は、総括の出発点の立場、観点、方法を正しく設定していないことと関連し、かつ、いまだ、この「止揚」の政治的、思想的、理論的道筋、回路を、氏がほとんど掴み切れていない、と僕には見えます。

 先ず、赤軍派らブント、「革命戦争」派らが、あの70年安保大会戦において、一方で、その限界をしっかりと押さえつつも、日本プロレタリア革命闘争史上、初めて、公然と権力問題を提出し、目的意識的、組織的に武装闘争を闘ったこと、この画期的な歴史的意義をしっかり押さえておくべきです。

 蔵田氏は、このような意義を全く忘れるか、無視、抹殺しようとしています。

 このことは、連合赤軍事件、「新党」デッチ上げとブント、赤軍派の戦いを混同しなければ、すっきりと見えて来ます。

 混同すれば、蔵田氏のように暗愚化し、赤軍派・ブント・新左翼の流れ、運動は不毛な「瓦礫の山」で、「袋小路」、「死体処理場への道」が約束されていた、と言った風な錯乱的意識、精神情況に陥ります。


●このような闘いは、「ただただの《行け行けドン》や『倍々ゲーム』を当て込んで、伊達や酔狂で出来ることではありません。

 日本民衆、民族の、かっての侵略戦争への正当な「国民的」規模の真摯な反省を、青年革命家たちが全存在を賭して、死刑、重刑攻撃を覚悟し、現実に実践した、内容、水準が込められています。

 日本戦後、第一期、第二期の青年であったブント(第一次、第二次の)や赤軍派の「社会主義革命」「世界革命」「プロレタリア独裁・暴力革命※」−「反スターリン主義革命」、「過渡期世界論」「世界同時革命」「三ブロック階級闘争の結合」「前段階決戦論」などの革命的理論、路線の研鑽、創造の成果の上に到達した地平であったこと。

 こういった、日本民衆、ブントら新左翼の知的、理論的蓄積とその実践があったからこそ、出来た、といえます。
 武装闘争は、たとへ、それが、学生大衆中心ではあれ、ベトナム−インドシナ革命を中心とする国際的、国内的な民衆運動の高揚と密接に連携しつつなされていった点で(同時に、ここに、歴史的限界があったのですが)、歴史的必然性がありました。


●確かに、この事件の総括は極めて困難で、一朝一夕には行きませんでした。

 なぜなら、事実関係の調査が、ある面で、権力問題、武装闘争の問題レベルですから、これを調査して行く“目”の水準の問題があり、又当事者やブント系−赤軍派系の各人、各グループ、各派の政治的事情、思惑もからんで、隠蔽され、なかなか吐き出されて行かなかったことも関係しています。

 だから、この事実関係の調査も時間をかけてしか進んでゆきませんでした。

 さらに、ネオリベのグローバル資本主義としての現代資本主義の新しい段階の到達、それにも基づく、世界的規模の巧妙で、計画的な、労働者等民衆を「迷妄」状態におとし込む資本の側の戦略的配置、攻撃があり、それに適応してゆくには、旧来のマルクス主義を「超克」、ないしは「止揚」の問題ともいえる、現代(先進国)革命の深く、根本的な問題が絡んでいますから、この総括過程は、長き後退戦を強いられざるを得ず、困難を極めました。

 今の時代、マルクス主義、レーニン主義を護教化するだけでは闘えず、真の意味でそれを止揚する(「超克する」、ある面で「脱構築する」)必要があります。

 これは、労働者等人民大衆とともに闘い、その実践の営為から構築、創造してゆく以外にありません。


●しかし、繰り返しますが、総括の基本視点は、事件の事実関係の調査に基づくところから提出される事柄からして、第一に、「野合」という政治判断の間違い、そして、その背後にあった、スターリン主義肯定の流れから生まれた、と考えねばなりません。

 この「野合」という政治判断の間違いを犯さなければ、あのような事件は、基本的には起きなかったと思います。

 この事実関係の確認は、前述しましたように極めて重要です。

 赤軍派主流は軍事第一でもって、政治路線や思想路線を否定するようなことはしていません。

 赤軍派は、スターリン主義の「一国社会主義」路線ではなく、「世界同時革命」路線であり、「民族民主主義、反米愛国」路線の「二段階」路線ではなく、「社会主義革命」路線であり、軍事的には「社会主義革命戦争」のプロレタリアートに依拠する「都市ゲリラ」戦争路線であり、山岳を根拠地とする農民に主として依拠する「遊撃戦争」路線では全くありません。

 このような路線の相違を無視し、軍事至上主義で、「新党」を無理やり追求したこと、この「野合」の政治判断の過ちは、その根底にスターリン主義の問題があるにせよ、決定的で、大きな比重を持っています。

 赤軍派が、ブント路線を継承し、世界同時革命−国際主義を信奉していた以上、文化革命ら毛沢東の「継続革命」の影響を受けたり、「第三世界」の革命派との共闘を追求したりしたことは事実です。

 しかし、そこに、溶融、同一化するか、否かの、、ぎりぎりの臨海点に至れば、ブント路線の基本的立場を踏みしめてきたことは、しっかりと、この際、確認されて、おくべきです。

 そういうこととして、獄中でも、革命左派とも、共闘を追求し、論争をし合ったことも事実ですが、それは、良き共闘レベルの追求の範囲であり、スターリニズム批判を止めたり、思想上、政治上、理論上の基本原則を否定するもではありませんでした。逆に、共闘追求に伴う論争を通じて、主として獄中ではありましたが、外の同志もそうでしたが、双方で、合流の方向は、厳しく否定されて行きました。

 このことを、永田さんらの居直りに乗せられて、蔵田氏のように、赤軍派−ブント系のラジカリズム一般のせいにすると、「野合」を肯定し、従って、「共産主義化」を肯定し、「そのやり方がまずかった」、「一挙的であった」とするなら、ブントや赤軍派は否定され、認識上、精神上の袋小路に入り込んでしまい、ブント運動をどう止揚してゆくかの、手がかりも失い、ブントから他の潮流へ「転向」、文字通りの、資本の側への転向すら起こりかねません。


●このことは、蔵田氏が70年大会戦以降、どう自らの人生を生きてきたか、示し、現在の「9条改憲阻止の会」における、氏の現状としても如実化している、と思います。

 「9条改憲阻止の会」 において、小川さんや他の世話人の意見を無視し、代表、責任者のごとく、振る舞い、僕に対して、赤軍派やブントの政治状況に介入し、排除の思想を実行したことら、氏が望むなら、いつでも、資料も含め、論戦して良いです。

 こういった言説は、80年代から90年代の、世界と日本の民衆運動の後退期を反映したものであり、又、この3〜4年の「反転攻勢」の時代の到来に対して、性急に推考不足で対応せんとしたことから、生まれたともいえます。

 もっと長い目で見るべき、とも思います。

 世界資本主義の行きつまりが進展し、民衆運動が後退期から脱出し始めている現在、70年闘争をまともに総括し、これを、真に止揚する(超克する)主体の萌芽が、あちこちで形成される中で、こういったブントー赤軍派の運動は、徐々に連赤事件とは厳格に区別されつつ、総括され、革命的左翼が、止揚された見地を確立する時点が到来すれば、ブント−赤軍派について、その正反も含めて、総合的に、正しく総括・評価されてゆくだろうと思っています。

 長年、予断と偏見にさらされながら、連合赤軍問題、赤軍派、ブントの総括、責任を引き受けざるを得ず、また、それを敢えて引き受けてきたと自負する僕としては、それを、心底、願っています。

 だから、僕は、ブント(赤軍派を含めた)とその運動の歴史的評価は、その性質上、「歴史はわれわれに、無罪を宣告するであろう」と、バチスタの指揮する裁判で、宣言した、フィデル・カストロではありませんが、今後の「歴史が決める」と言っておきます。


●「とりわけ赤軍派議長として、総路線を敷設し、a,赤軍派結成→b,統一赤軍→c,連合赤軍へ,といたる武装闘争を、その延長線上において、d,論理的、思想的に、直接的に検した責任を負うべきは、当然であると言いたい」,僕は、蔵田氏が考える以上に、責任を取ってきたつもりですが、蔵田氏がこう言いたいのは百も承知であるが、何故そうなるかを彼は3で見てきたように何の検証もしていないのです。 aは事実です。しかし、b、cは、僕は接見禁止中であり、関わっていなかったが、「政治、思想第一」の僕は、共闘(連合)は是とするものの、「合流」、「新党」結成に、徹底的に反対していたわけで、永田さん、森君の「統一赤軍」、「連合赤軍」は、「新党」であり、僕が反対するのは、当然です。

 これは、獄中で、赤軍派と革命左派の諸氏が議論し、或いは、接見禁止解除後、僕と川島氏が議論し、はっきり確認したりしている、両派主流の人々の共同認識となった事柄です。

 おいおい、蔵田氏よ、何で、d,「論理的、思想的、直接的に」となるのですか。

 「論理的、思想的、直接的」とは、どんな意味の文言なのか。こんな蔵田氏発明の文言は、日本語の、どこを探しても存在しない文言である。 全く、奇妙きてれつな文言といえます。

 僕が何か、直接、森君たちに指示したり、野合せよと指令でも出した、というのですか。僕は、基本的な、原則上の政治的文章は書きましたが、具体的な指示など、一切出していません。

 僕は、そういった細かい、具体的指示など、一切、それは、獄中であり控えたわけですが、本質的には、僕の作風に合わないからです。
 川島豪君や赤軍派の幾人かの人々と一緒にしないでください。


●《無責任な「森、永田」個人責任論》、という主張について。

 僕は、永田さん(森君)の野合への盲動、スタ―リン主義復権による主導性を主張していますが、決して彼女の個人責任、資質などを指摘したり、強調、主張してはいません。

 政治上、思想上での、「野合」の政治判断の間違い、スターリン主義信奉、毛沢東思想、中国革命教条主義が、基本原因である、という、事件の基本性格とこれに絡む政治上、思想上の問題を強調しているのです。

  蔵田氏へ、なお、僕が、このような解析、総括をしているからといって、「赤軍派にまったく責任なし」と「居直っている」と錯誤したり、曲解したり、デマを流さないで欲しい、このこともこの際、しっかり強調しておきます。

 僕や赤軍派の人々(主に、後に、「プロ革派」を結成した人々を中心に)は、スターリン主義では、断じてないが、軍事至上主義的偏向、人民大衆、とりわけ、労働者階級との遊離、大衆路線の軽視を主要テーマにして、必死で、連赤事件以降、自己批判し、「プチブル革命主義をプロレタリア革命主義へ」とスローガン化して、権力問題の問題設定、国際主義の追求、武装闘争の実行の歴史的意義はしっかり押さえつつも、主として思想問題、階級依拠路線の弱さ、として、責任を引き受け、公然と自己批判し、活動し続けて来ました。

 僕は、その後も、出獄後も、僕の立場性とも関係してはいますが、自己の思想的、政治的営為の生命性を再生産してしか、生きられなかったが故に、いろんな時点で、いろんな所で、(たとえば、ひの原先生のところ)自己批判し、責任を取り続けてきたと自負します。

 僕は、この30数年、自己批判し続け、それを、闘いの原動力にしてきました。

 今も、この姿勢は変わりません。

 このことは、衆目の認めるところであり、蔵田氏は、この姿勢、方向を「新左翼運動史」において、認め、支持してきたではありませんか。
 最後に、決定的に、確認されなければ、ならないことがあります。

 それは、あの時代の、権力問題に挑戦し、武装闘争を闘った人々が、未だ若く、未熟であった、ということです。

 この“未熟”というコンセプトを、総括運動の根底におかなければ、この運動は、未来性、前進性を持たない、ということです。

 この事件は、政治的、思想的、哲学的、理論的に立ち入って、捉えられる必要があることは、これまで、見てきた通りですが、永田さん、森君まで含めて、ブントや赤軍派、革命左派の関係者が、事件の時は、20代であり、年長でも、川島君や僕でも、やっとせいぜい30に達したばかりの青年であり、政治においても、革命経験においても、思想、哲学面、理論面でも、人生経験においても、人間、民衆の基本はしっかり押さえ、理想と志は高かったにせよ、そして、はち切れるような行動力に溢れていたにせよ、皆、未熟な青年達であったこと。

 ですから、この権力闘争への挑戦は、限界を有し、過ちは、避けられなかったと思います。

 であれば、現在の成熟を踏まえ、今度は失敗しなく、勝利することが大切で、総括はそのためにあること、互いを断罪しあうことを目的化せず、過去のしがらみを小異として総括しつつ、大業に向けて団結することが大切だと思います。

 この、“未熟性”のコンセプトを前提に置きつつ、寛容、大度量の観点こそが、真摯さ、とともに、この総括論争でも、基調的に踏まえられるべきと思います。


5.赤軍派、ブント、新左翼は、どのように自己揚棄してゆくべきか。その、道筋、回路はどう探られてきたか、どう探ってゆくべきか。

 連合赤軍事件の自己批判的総括、僕等自身の未熟性の克服のテーマの追求は、僕(ら)に、「自分にとっての革命の根拠」を問うこととなりました。

 このことは、マルクス資本主義批判(経済学批判)、「資本論」の研究に至らしめ、資本主義の思想的批判、対象分析の方法、内容の獲得、そうすることによる、労働者階級の自己解放の能力、可能性、地位、役割への絶対的とも言える、全くの信頼と解放への方途の科学的獲得に至らしめました。

 又他方、実践的には、労働者の生活感情、要求、労働・生活構造の知悉化要求、差し当たっての底辺労働者の解放運動への着手に至らしめました。

 この思想的、政治的、理論的土台が、僕にとっては、獄中非転向闘争の土台となり、かつ、出獄後の18年の活動の土台ともなりました。

 これは、マルクス思想に基づいてはおれ、まだまだ、未熟で、あやふやであった僕の思想的、理論的土台を、打ち固めてくれました。

 又、その後の、哲学、人間観の確立、現代資本主義批判―現代先進資本主義国革命への接近、軍事思想、組織論の組み立て直しや民主主義論の確立、これと民族論における統一戦線論獲得のベースとなりました。 

 このことは、僕にとって、連合赤軍問題総括の第二段階ともいえる水準、地平を僕にもたらしてくれました。出獄2年目、連赤事件以来20年後の1992年でありますが、その後、よりはっきりと、この道筋を確立してゆくこととなりました。

 つまり、「人間の命の最高尊貴性 とそれを社会的に輝かせる人間の自主性」が、人間の本性であること。人間の労働、生産活動は、この本性を支えることとしてあること。」

 人間を取り巻く、労働と生産の「社会諸関係」は、この本性、「命と自主性」を規定するものですが、より本源的には、このような社会的諸関係は「人間の命と自主性」をより良く発現してゆくために、人間が作り出していった関係構造であること。こういった事柄こそ、人間性の本質を捉える、もっとも深い基本観点であること、を自覚させてくれたのでした。

 このように、僕は、僕の人間観、ヒューマニズムを新たに措定してゆくこととなりました。
 言い換えれば、マルクスの「フォイエルバッハ、第六テーゼ」の「人間とは、社会諸関係の総体である」のテーゼの「総体」の本質内容を「人間の命とそれを社会的に輝かせる自主性」として、措定し、「人間とは、命を最高尊貴し、それを社会的の輝かせる自主性をもった社会的存在」と再構成して、措定して行くこととなりました。

 このことによって、現代革命による民主主義、直接民主主義、ネグリ流に言えば「権力を、労働者等民衆、人間が、そのそれぞれ性を発揮しつつ、自主的に、直接に構成してゆく問題、自主管理の問題」、民族共同体を、世界同時革命の観点で、再構成してゆく「ぱとり」論の確立、或いは、暴力論−軍事における非流血の大理念と自衛のための暴力の承認の関係、組織論における「何をなすべきか」の限界を超克する論理、ポストモダン論争における「小さな物語」と「大きな物語」の関係、マルクス思想とアナーキズムの関係ら、統一的、総合的に解析されて、捉えられてきています。

 70年安保大会戦における総合的陣形が如何にあるべきであった、かも見えてきています。

 こういった、問題的提起、思想的・政治的理論的営為は、僕の著作や「ぱとり」ウェッブ誌上でいたるところで展開しています。

 蔵田氏は「資本論」も読んでいず、労働現場からも何も学ばず、いわんや、真面目なマルキスト、革命家が辿りつつある、階級性の内実、思想上の人間性の措定などに下向してゆく道筋、そういったパラダイム転換などの重要性などについて何もわかっていず、予断と偏見のみを振りまいているのでは、ないでしょか。

 氏は、旧来の「左」「右」の政治への往還、右往左往、そのマキャベリスティックにして、ボナパルチックな統一といった旧来の政治思考、手法から、一歩も出ていないのです。



塩見孝也