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アントニオ・ネグリ著「構成的権力―近代のオルタナティブ」
を、現在、書評をも兼ねて、読み返す意義について



2008年 8月 21日

塩見孝也


僕が、ネグリ・「構成的権力」を、今、取り上げる意義について。

不況、金融恐慌、恐慌、そして打ち続く戦争拡大の要素の増大――これは民主党オバマの米大統領選での最近の動向を見ればよいーー、総じて、資本主義の末期的症状がはっきりし、かつ、それが、労働者等民衆に「生きずらさ」、困苦を強い、そのことで、労働者ら民衆が資本主義を批判する能力を徐々に持ち始めてきた現在、これまで、棚上げされ、無視されてきたり、揶揄の対象とされてきた、マルクス思想、彼の“資本主義批判(経済学批判)”は民衆の間で、蘇えり、復権されつつあります。

資本主義批判を、思想としても、対象分析の方法、内容としても、その重要性を唱えることそれ自体を、理由もなく蔑み、抹殺しようとする動きは、力を弱めつつあるばかりか、反対にマルクス思想、≪資本論≫を、「もともと、自分は否定したことはない」と、言いつつ賛美することに鞍替えせんとする思潮も生まれてきています。

これは、何は、ともあれ、大局、歓迎すべきことであります。

そして、この思潮は、≪権力問題≫すら、論ずる姿勢を見せ始めました。『構成的権力」志向で、「権力問題」に接近する』と。

僕は、これまた、良いことだと、思います。

しかし、「おい、おい、一寸待てよ」とも言わざるを得ない。

願わくば、事大主義的対応ではなく、ちゃんとした、立場、観点、方法を持ちつつ言ってくれたら、尚良いと。

「余りに、内容が空疎で、言葉だけの一人歩きではないか」と。
 
構成的権力−近代のオルタナティブ」は、彼のイタリア人革命家、思想家、アントニオ・ネグリが1990年代の早い時期に言い始め、日本でも1999年、翻訳され、流入した概念である。

そして、そこには、ちゃんとマルクス≪資本論≫に展開された労働論(所有論)が、基本視座に据えられており、この観点からの欧米、ヨーロッパの近、現代史もその観点から分析、総括されています。

この核心部分を、換骨奪胎して、言葉だけを、一人歩きさせてはならなりません。

でないと、ネグリが危惧として述べている、≪構成的権力≫思考が、上記基本視座を欠落して行った場合、どう≪構成された権力≫と、融合したごった混ぜから、そこと癒着、変質してくか、を文字通り、演じてしまうことになるからです。

彼は、ルソーの思想、理論の検討において、ルソーの「一般意志」概念が、

○1789年人権宣言、第2条において「あらゆる政治結社の目的は、奪うべからざる人の自然権の保全である。これらの権利は自由、所有権、安全および圧制への抵抗である」と明瞭に述べられているのに対し、

○1793年には、「これらの権利は、平等、自由、安全、所有権である」に書き換えられ

○さらに1795年には、「権利」第一条とし、≪社会における人間の権利は、自由、平等、安全、相有権である」と、さらに、変質されて、宣言されて、いることを「ルソー思想の謎」という文言で、危惧しています。

つまり、ルソー→シェイエス→ヘーゲルの流れではなく、マキャベリ→スピノザ→ マルクスの思想的流れを堅持すること、を、「構成的権力」論の中身として強調しています。

スピノザについては「モナド」論ら、注目すべき、と思います。

18世紀、中期のオランダ(ネーデルランド)は、ヨーロッパ諸国の中でも、一番豊かで、開明的、開放的社会であったことが、この「モナド」思想を表現することになったと言われています。

こういった視点は、全くと言って、読み込まれていず、読んでいるのやら、どうも分からない状態で、この言語表現を一人歩きさせては困るからです。

こういった、状況であれば、このために、少し、僕も、ネグリについて解説する必要を感じるわけです。




ネグリは、如何なる動機で、この本を書いたか?

アントニオ・ネグリはイタリア人である。又、ヨーロッパ人でもある。そこからくる発想−言語表現は、アメリカ―英語(圏)的表現にはかなり馴れている、アジア人の日本人でも、かなり、とっつきにくいところがある。

しかし、彼のこの文章、本は「<帝国>」などと違って、比較的分かりやすいし、展開の筋道において、紛らわしさと言う点では、それが、ほとんどないのである。

「<帝国>」には、それが、ありすぎます。それが、この著作で、見られないのは、彼が、しっかり、マルクス思想、―――哲学、歴史哲学、経済学、政治学を意識的に、展開の土台に据えて行こうとしているからである。

又、この本が、彼の「赤い旅団」以来の、日本赤軍派やイタリア「赤い旅団」や「ドイツ赤軍」ら、70年代の革命的左翼、「革命戦争派」が、押しなべて、その革命的ラジカリズム性とともあった未熟性ゆえに(連合赤軍問題は、単なるラジカリズム、未熟性とは異なるスターリン主義の問題があった点で、異質な点を多く持ち、当時の中国派の、ポルポトに代表される問題と同質であると僕は捉え、この流れから除外します)軍事至上主義的偏向に陥っていた、その活動を、自己批判的に、しかし、「止揚」的に、骨太、鮮明に、総括し、体系化し、その主張を畢生の勢いで、民衆に訴えんとしているからでもあろう。

言い直せば、彼流のこれまでの革命思想を、マルクス思想を土台に据え直し、自己の思想、主張を組み立て直し、意識化したからに他ならない。

その「キーワード」として「構成的権力」と言う概念表現を彼が獲得した、ということである。

そのことは≪第一章「構成的権力」―危機の概念≫の冒頭において展開されている。

この「構成的権力論」を、彼本来の企図は、民主主義を土台に据えて論ずることであるにも関わらず、それを、立憲主義、法学の批判から、始めているのは、別に不思議ではない。

彼は、イエリネックとケルゼン、ラサールからロールズまで、そしてウエーバーとシュミットの批判的紹介から始めている。

ぼくは、≪構成的権力≫概念が、既にヨーロッパ法学、国家論、分野で、多少なりか、相当、使われて来た用語であるか、否かは知らないが、実はそんなことはたいして重要ではなく、「構成的権力」が、権力論である以上、既成の立憲主義―法学―国家論を批判的に検討せざるを得なかった、ということさえ、押えておけば良いと思う。

彼は、こうすることによって、「構成された権力」に対する「構成的権力」論を≪その基盤の根源性において、又、民主主義と主権、政治と国家、力と権力、らの全ての(領域)に拡張して、理解」したかったからである。

彼はマルクス的「政治主体の構築」として、一挙に、「“生きた労働”(“死んだ労働”に対置する)」を、基本ベースとして「構成的権力」を、自分が導出していっていることを提示したかったからである。 このことでもって、前述の、「全ての≪領域≫」に拡張して、展開したかった」からであろう。

彼は、この本のいたるところで、“協働”、“協業”を土台にして、この論を展開しています。

しかし、このことを、逆に言えば、「構成的権力」を、こういった、労働論、或いは所有論から論ずる基本視点を持たない場合、常に、既存「構成された権力」との癒着、融合に、凡百の権力論が至ってしまうことへの予防のシグナルと捉えて置く必要もあるのです。
 僕等、≪9条改憲祖阻止の会≫にでも、こういった基本視点をおろそかにして、――否、それを、意識的に、無視したり、換骨奪胎化して、――憲法論を論じようとした場合、カール・シュミットから親鸞まで、何でもかんでも跋渉、食傷し、展開して行こうとする人も出てこないとは限らないからである。

カール・シュミットはドイツ・法学の大家であった。ワイマール憲法下、民主主義、自由主義をナチスに協力しつつ批判し、ニュールンベルグ裁判では、起訴、尋問されたが、不起訴となった、人である。



彼の本の構成とその要点について

彼は、構成的権力志向の出現、発現をルネッサンス期のイタリア(フィレンツェ)の共和思想家、マキャベリの政治思想、「君主論」や「政略論」そのほかの著作の解析してゆく。 共和思想の原点における「構成的権力」を探っていっているのである。

次に、アメリカ独立革命の解析、フランス革命、イギリス革命の民主主義、自由主義共和制(ブルジョア共和制)を解析する。
 ここでは、ジョン・アダムス、ジェームス・マディソンのフェデララリズム(連邦思想)の政治思想やペインやジェファーソンの独立革命の思想、そのほかの思想家の紹介もされている。彼等が、イギリス宗主国に対して、植民地民衆の存在を「タタール人であるべき、」と言っているのは面白いし、マルクスの以下の引用も面白い。

「ブルジョア社会が、封建制の土台の上で、発展したのではなく、初めからブルジョア社会として出発したた国、旧世界の生産力を新世界の広大な大地と結合させ、かって見られなかったほどの勢いで発展し、かつてない自由な動きによって自然の力を支配、征服する営みの先例を全て凌駕した国」。

しかし、ネグリが、フランス啓蒙思想らが、アメリカ独立革命に影響を及ぼしたのではなく、アメリカ独立革命が、フランス革命らに影響を及ぼした、と言う見解は、全く正しい、が、この「新世界」で始めから生き、先住していた人々の存在、文化が実は、この独立革命の思想にも影響を与えていたことについて、触れてないのは、気にかかります。

又、サンキュロット、ジャコバン党が、労働論から、彼等の革命思想を位置づけ切れて切れていなかったことが、彼等の暴力信仰、絶対化と結びついて行った、という指摘はうなずけます。

この解析を経て、プロレタリア革命としてのパリ・コミューン、ロシア革命らの解析から探り、跡付けている。

 これらの革命と挫折についても、労働論−構成的権力論から解析し、マルクス思想についても、「共産主義は我々にとって、作り出されるべき、ある一つの状態でもなければ現実にのっとるべき何らかの理想と言ったものでもない。我々が、共産主義と呼ぶところのものは、現在の状態を廃止しようとする現実的運動のことである。この運動の諸条件は今、現に存在している前提から生ずるのである」と言う僕も好きで、良く引用するマルクスの言葉を、引用しているのには、大いに感激しました。

スケールの大きい、≪構成的権力≫論プローパーからの、近・現代史(近・現代革命史)の解析である。

この本の訳者、杉村昌昭は「ネグリにとって、西洋近代の政治的歴史を“さばく”ための包丁として新たに発案された理論的道具であると同時に、未来を革命的に展望するための実践的でもある」と紹介するが、 ネグリが跡付け展開している膨大な各章の展開は、省きます。

彼は、膨大な大著を書くが、もっと簡潔にすべきでなかろうか。翻訳された本ともなれば、4800円もします。

僕は、この本を、知り合いの本屋の親父から寄贈されて、手に入れたのですが。

このことは、さておいて、要点は、彼が、ルソ―からヘーゲルの線へではなく、これと反対に、マキャベリ→スピノザ→マルクスの線で、非常にすっきりと解析していること、このことをしっかり押えておくべきであろう。




キーワードとしての「構成的権力」その概念とは?

何故、このような概念、言語表現が、今の僕等の、民衆権力創造において、僕等の感覚に、すっきりと響いてくるのか? と言うことです。

「9条改憲阻止の会」が、憲法論をベースとしているから、≪憲法制定論≫≪憲法制定会議≫ら、法学的領域の議論とリンクせざるを得ない領域も包含しているから、ということもあると思います。

しかし、核心は、権力論、国家論の最新の、現代風の再構成した捉え方を、この言語表現が概括しているからであろう。


「構成された権力」に対抗する、民衆、個々人の慾求、欲望、要求、唯物論的な人間の生理学に立脚する肯定、ここからの、民衆個々人の、自主性に立脚する、政治への主体としての参加モーメントが、この危機に時代、ロシア革命の挫折、中国革命の挫折を経て、この教訓を、現代構成された権力」が、取り込み、せめぎあいの攻防点となっているからである。


これを政治、権力論の基礎におこうとしているから、であろう。

概括すれば、民衆各個のそれぞれ性においての政治参加かが、それぞれ性を発揮しつつ、民衆権力創造をもたらしてゆく、その構造を概括している、言葉である、と言うことである。

ネグリは、これを≪生政治≫と後に概括し、押し出している。

この意味で、個々が主体として参加し、権力をモルとして、その構成者であらんとすることを前提としている、開かれた権力論、当然、直接的民主主義としての民主主義を最大限に評価し、この意味で、過程、常に変化する過程を前提とするパーマネンスな、永続革命性を内包する権力論を示唆しているからであろう。

個と集団の永遠の矛盾(この中には、階級的な敵対的な矛盾と無階級な非敵対的矛盾があるのだが)と一致の弁証法の政治的、権力的構造、関係性の言語的表現でもある。

プロレタリアートも、さまざまな階層があり、しかも個的構成をなす。その、現代資本主義社会において、最も重要な個別性、個性を組み込まんとするオールタナティブな概念、或いは、階級的には、小ブルジョア、ブルジョアジーであったとしても、政治的、思想的にはプロレタリアート足らんとするインテリゲンチャーの人々が、重要な役割を演ずる現代社会の特質を許容する、言語的包括性を持つ概念である。革命と一体であることにおいて成立する概念である。




ネグリと僕の思想的、政治的、理論的関係について。

「赤い旅団」の実践の総括、再出発をなす原点と言えよう。

がっちりした方法、立場、観点を持っている。その後の「<帝国>」に見られるあやふやさは見受けられない。

しかし、僕(我々)にとって、ヨーロッパの革命的マルクス主義コミュニストとして、対話・交流の可能な相手として、承認するものの、別に、驚くには当たらない。

このようなネグリが思想的、理論的に営為し、構築してきた基本視点を、既に、連合赤軍問題総括を起点にしつつ、1974年の「プロレタリア革命派」結成以来、赤軍派・ブント・新左翼の総括を、

a,資本主義批判―民衆中心思想のマルクス思想の基本視座、
b,「人間の命の最高尊貴性 とそれを社会的に輝かせる自主性の最高重要性」としての人間中心思想を獲得している僕(我々)は獲得しているから。

「生きた労働」、「協働」「協業」を発想の基礎にすえること、その又、基礎にある「生」政治、慾求、欲望。僕の「命の最高尊貴性 とそれを社会的に輝かせる自主性」と重なっています。

又、「マルチチュード」で≪ナショナリズム(ナショナルアイデンティティー)について、僕の≪ぱとりティズム≫論と同じことを言っています。



塩見孝也