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映画評
「闇の子供たち」を観て思うこと


梁石日氏の原作を損なうことなく、映画に仕上げた
坂本順治監督たちの功績は、黙過してはならない。


2008年 7月 22日

塩見孝也
この映画評には映画の内容について言及している部分がありますので、まだ映画をご覧になっていない方はご注意ください m(_ _)m


若干の経緯。

先週月曜日の14日、坂本順治監督・「闇の子供たち」の試写会に行ってまいりました。渋谷駅近くの、某試写室で、映画「We」の藤山顕一郎と一緒に行きました。

8月2日から封切られますが、最後の試写会で、あったようです。

実は、この試写につきましては、多少ともいわくがあります。

3月頃から、月4回ぐらいで行われ、4月〜6月と、このペースが続き7月14日が最後、となっていたわけですが、僕はその最初の回、3月21日に、相当張り切って、出かけてのですが、試写室の「スペース汐留」の場所が分からず、すごすごと帰って来、もう諦めていたのです。  

どうした所為か、その後も、執念深く招待状が届け続けられました。 その執念深さからして、この制作委員会、試写実行委員会(?)が、いかほどに、この映画に入れ込まれ、意気込まれているか、を感じ、それでは、と6月になってもう一度、行くことにしました。

ところが、その時は、一杯で、もう入れませんでした。又諦めて、替わりに、未だ上映中であった映画「靖国 YASUKUNI」を観て帰りました。

その際、7月に、もう1〜2回やるから、来てください、ということで、その送られてきた招待状を持って出かけたしだいです。今度は、観ることが、出来ました。

僕は、坂本監督とは、面識はありません。「亡国のイージス」と、それ以外に「新・仁義なき戦い」の2本を観た、だけです。

藤山は、「魂萌え」以外、全部見た、と言っておりました。映画歴では、「深作(欣二)組」の周辺にいた、彼の後輩筋の人で、礼儀正しく、出会うたびに、律儀に、彼に挨拶する人であったあった、と言っておりました。彼の方は、職業柄、ずっと、坂本氏を注目し続けてきた、とのことでした。



何故豪華キャストになったか。

確かに、日本側は、江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、豊原巧輔、鈴木音羽、佐藤浩一、タイ側はプラパドン・スワンバーン、プラマ−・ラッチャタ、と言った豪華キャストです。     

このことにつきましては監督の説明があります。

「誤解を恐れずに言えば、“豪華”とは思いたくないんです。このような企画の映画に彼等ほどのキャストが揃うことが、当たり前であってほしいんです。」

「実際、彼等は自分の名前を貸すために出演したわけではないし、そんな気持ちで演じられる役柄ではないし、作品意図を理解して出演を決めてくれたわけです。」

「それに、役者として、何らかの変化を得られる可能性があるなら、リスクを犯しても出てやろう、という俳優って居ると思うんです。この映画に出てくれた人は、そんな人達ですよ。タイの俳優たちも同じ気持ちだったと思います。このような映画に出ることは危険なことだが、タイ人が言いたかったことをこの映画が示してくれるなら、参加したいと。――――」

と、こう監督は語っています。こういった気宇から捉えられるべきと、僕は納得しました。


原作者、梁石日にスポイルされないこと。

原作は、梁石日(ヤンソギル)氏の「闇の子供たち」(幻冬舎文庫)です。梁石日という作家は、ものすごいマグマを抱え込んで生きている人と思っています。

何重底にも重なって構成されている彼の人間観、その「人間の真相」の何重もの構造を、その底を、一挙に突き破って、底の底まで、踏み破って、どろどろのままで捉え抜いてゆく、独特の物凄い表現エネルギーと突貫力を持っている人といえます。

だから、彼が、「人間の真相」の底に、彼が「無底」を感じているのでしたら、その「無底」は「虚無」のエネルギーで充満しており、生半な人では、たちまちにして、スポイルされ、混乱させられてしまいます。

僕も、「血と骨」の映画評については、彼の原作を始め、かなりの数の彼の著作を読みましたが、これを映画化した催洋一氏をおもんぱかりつつ、強烈に苦労したことを思い出します。

このことにつきましては、坂本は次のように語っています。

「先ずフィクションか、否かを確かめようとした。裏づける写真などから、あるいは≪闇のサイト≫などから、この小説の絶望的描写は厳密な取材に基づいていること。日本人が他国で子供を買い、その行為や撮った写真やビデオを自慢しあう百件近くの画像も観ました。以前、ドイツのクルーが同じテーマで映画を撮ろうとしてマフィアに銃撃される資料も読んで背筋が凍りました。

「原作を分析し、分解してゆく作業をやり、克明に、原作を書き写し、人物表を作り、いくつものパターンのプロットを考えました。こうして、事実を知り、それをどのようにフィルムに焼き付けるべきかを考えた時、単なる告発者になることは嫌だと思いました。自分を正義と捉えた告発者としてではなく、映画で描く出来事が日本人の自分自身に跳ね返ってくるような作品にしたい、観た人が他人事として決着してしまうような善悪で割り切れる犯罪ものにはしたくない、と考えました」と述べています。

彼の正直なところの述懐でしょう。




テーマとストーリー。

さて、この映画のテーマ、ストーリーです。それは、極めて簡潔です。タイ社会の貧困、他方での先進資本主義国の搾取、収奪の関係を背景にした人身売買、j児童買春、臓器移植のための売買、結局は子供の命の売買(生きたまま、心臓を強盗すること)、或いは、マフィアと警察と一体となった暴力の存在、べドファイル(小児性愛者)といわれる幼児期の性的虐待の成人してからの自分への復活の輪廻構造、人間性のおぞましい限りの、ありとあらゆる姿が描き出されています。

未来を担うべき子供たちの生命とその瞳の輝きは余りにも弱弱しい。

このような事態の中では、正義は余りに弱く、タイ民衆のリーダーの一人は暗殺され、事態を暴かんとした日本人記者(江口洋介)は、既にその悪に湿潤されており、彼の助手の日本人青年(妻夫木聡)は、これまた,余りにもボンボンなのである。

唯一、道義を貫かんと非妥協的に戦う若い日本女性、音羽恵子役の宮崎あおいは、未だ若く、空回りばかりしながら、少しずつ成長してゆく。結局、彼女に、映画は希望を託してゆくようである。

彼女は、一人の少女の救出に成功する。

欧米白人たち(アメリカ人、ドイツ人、オーストラリア人らら)や日本人の目を背けたくなるような買春行為、そして子供たちの汚辱を口から吐き出す姿、売春宿に監禁された子供たちの姿、虐待の結果、HIVなどにかかり、次第に衰弱し、最後には黒色のビニール袋に詰め込まれゴミとして捨てられて行く姿!

姉、ヤイルーンはゴミ袋から、運よく脱出し、故郷に瀕死でたどり着くが、家族は既に助ける術を知らず、死ぬに任せ、荼毘に付すのみである。妹、センラーは、日本人の子供の心臓移植のために殺されてゆきます。姉妹の姿は無残極まりません。

自分の息子を助けるために、タイのこどもの命を金で買う日本人商社マン夫婦(佐藤浩一、鈴木砂羽)のエゴイズム!映画は、こういった姿を、目を背けることなく映出してゆきます。

余談ですが、僕には、マフィアの親分の片腕役の精悍さ漲るチット(タイでは、悪人役で有名、プラパド・スワンバーン)が妙に印象にのこりました。

どこか、「アラビアのロレンス」のオマー・シャリフに似ていました。この男が、妹、センラーが心臓を盗られ、殺されてゆく際、「その服はとても似合っていて、可愛いよ」と見送るシーンなど、普段の冷酷さの影に押し殺されていた感情がチラッと噴出するのである。それにしてもただの別れではなく、虐殺への野辺送りなのである。

これが、タイ人の、愛国心であるなら、なんと、皮肉で、よじれ、チグハグ、無慈悲なことでしょう。

もう一つは、ナバボーン達が抗議の決起集会をやる際、それをぶち壊すためにマフィアから派遣された殺し屋の姿です。この男は、若く元気で、拳銃を撃ちまくるのですが、それは何故だか、ナバホーンには向けられず、警察側に向けられ、彼は、彼女に挨拶のエールを送るのです。 その隙を衝かれ、撃ち殺されてしまいます。爽快さが漂っていました。
このような二人の人物などが、所変われば品変わるで、タイ権力や国際帝国主義に挑んゆくイメージを僕は想像したのです。

いま、一つ、音羽にからみ、彼女の現実知らず、をいつもなじりながら、次第に彼女の向こう見ずとも言える純粋さに惹かれ、馴染みあってゆく、同世代のタイ女性の絡みなど映画的面白さの片鱗が出ていたと思いました。

尚、「タイ撮影プロデューサー」の肩書きでリーフレットに紹介されている唐崎正臣は、かって、タイで「よど号戦士」、田中義三のことで、一緒に仕事をした、友人で、70年闘争以降、ずっとタイに在住しています。




観終わって残り続けるもの。
それにしても、余りにもきつく、重い映画であったと思います。僕は、途中で寒気がして来、ワイシャツを着込みました。

観客が、そうなのですから、作る側の坂本氏たちは、凄い覚悟と忍耐力が要ったでしょう。

こういった問題に、マスメディアは逃避しがちですが、それを、梁石日氏の原作を損なうことなく、彼流に、組み立て直し、映画に仕上げた坂本達の功績は黙過してはならないと思う。

梁石日氏は、とても映画化は無理だ、と思っていたようです。

監督の志と才質を評価したい。彼は、映画として、原作を踏まえながら、組み立て直し、タイのナショナリズムや日本の諸事情も踏まえ、撮りきっているのですから、立派といえます。

何よりも、日本人として、自己批判的に受け止める姿勢を崩していないことを評価したいです。この映画で、あらゆる分野の映画を撮ってゆける人であることを実証したともいえます。

この問題が、タイがアメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の後背地としてあった頃の60〜70年代、慰安・歓楽の基地として機能していたことも遠因にはあるようですが、グローバリズム、ネオ・リベラリズム資本主義の世界政治、経済の現在的構造をベースとしていることはしっかりと押さえられておくべきです。

1990年頃から、問題視され始め、インド 30万から40万、マニラだけで2万人、台湾 10万人、スリランカ、1万から2万人、タイ 80万人という1993年の「子供の権利センター」の統計があります。

この数は、増加はすれど、全然、減少してない、といわれています。僕もそう思います。

先進資本主義国の精神的、文化的荒廃、小児性愛者の輩出、世界的規模のマネタリズム、市場原理至上の拝金主義、他方でのタイ社会近代化路線、自給自足的経済の破壊、山岳少数民族の暮らしの破綻、観光路線、手っ取り早い外貨獲得路線、政府官僚、警察の腐敗、ラオス、ミャンマー、ベトナムからの貧困流民の流入、さまざまな問題が重なっています。

僕は、映画を観た後、暗い感じ、無力感に襲われたわけですが、「アジアの児童買春阻止を訴える会(CASPAR)」などの心ある人々が、営々と活動して、一定の成果を挙げていられることも知りました。

タイの1970年代、ジャングルから都市に引き上げて来たかつての青年の人々はどうしているのか。 タイに大量に生み出されてきている労働者ら民衆たちは政治闘争、暴動を起こし、時の政権を倒すようなことはしているが、この問題にはどういう態度をとっているのだろう。物事の是非・善悪、理非・曲直を正すタイ革命左翼はいないのか!きっといる、よみがえり始めている、と思うのです。

日本の左翼を含め、アジアでの、かっての大国「社会主義」から引き回されることから,自主・自由になった革命的左翼のネットワークは、幾重にも重層しつつ、活性化し、甦り始めていますが、これが、ネオ・リベのグローバル国際帝国主義と闘う世界プロレタリアートの国際主義の陣形に高まってゆくことを期待するものです。

この映画の主題歌を作詞、作曲した桑田佳佑は、やるせなさとそれと同時に、この心象に留まってはならない想いを込めて、次のように唄っています。



 さすが、芸術家です。映画の想いが、奈辺にあるかを見事に言い当て、唄い上げています。


塩見孝也