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洞爺湖G8サミットを糾弾する(上) 

G8の本質と、反サミット運動について


2008年 6月 29日

塩見孝也

この問題を論ずるには、いろんな複雑で深い、多岐な問題がからんでおり、順を追って展開して行く必要を感じます。

第一に、G8サミットの歴史的由来について、おおよそのことを押さえ、かつ、世界の民衆は、これと、これまでいかに闘ってきたのか。

或いは、この世界民衆の闘いに対し、日本民衆はどういう関係、位置関係にあるのか、を歴史的に辿っておく必要があります。

第二に、このG8サミットは、世界の支配勢力である帝国主義列強、国際帝国主義にとって如何なる意義を持ち、如何なる課題を有し、それにいかに対処しようとしているか。今回の洞爺湖サミットでは、どういったスタンスで、どんな課題を、どういった内容で、論じようとしているのか。

僕の考えるところ

a, サブプライムローンに秘められた、その要素、可能性が増大しつつある世界同時金融恐慌、これを端緒とする世界同時の過剰生産恐慌。
b, エネルギー問題を根底とする原油高騰、食料価格高騰ら、全世界の生命と生活に直結する問題にいかに対処するのか。
c, 対「テロ」、イラク侵略戦争や対イラン戦。
d, 地球温暖化ら環境問題。
e. 主催国の日本が拘る、「朝鮮」国による拉致問題。

らである。

第三に、G8サミットというものを、我々、民衆側は、いかに批判すべきか。又、民衆側のこの課題について、如何なる問題を留意すべきか、少なくとも、こういった、三つぐらいの領域は、しっかりと押さえられておかなければなりません。

僕は以上の問題設定で、(上)(中)、(下)に分けて、順序だてて、上記テーマに接近してゆきたいと考えます。



●G8について

ご存知のように、G8(Group of Eight):「主要国首脳会議」とは、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、ロシアの8ヶ国、及び、欧州連合(EU)の委員長が参加して毎年開催される会議です。

毎年一回、大げさにおこなわれているこの会議は、国連の枠組とは関係ない非公式な集まりに過ぎず、国際法上において、何らかの正統性があるものではありません。いわゆる「先進国」によって、勝手におこなわれているものです。

1970年代、ニクソン・ショックやオイルショックなどの国際的な経済問題、またそれぞれの国内にも、労働運動などの問題をかかえた「先進国」(工業化した資本主義国)の間で、資源の価格決定権の、資源供給国側からの奪回や、国内労働運動の押さえ込みなどの、「対抗策」を議論する場が必要であるとの認識が生まれ、1975年、当時のフランス大統領ジスカール・デスタンが、パリ郊外のランブイエ城に、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリアの6ヵ国の首脳を集めて、第1回首脳会議が開催されました。このときは、「G6」と呼称していました。

翌年、1976年のプエルトリコ会議からはカナダが参加して「G7」となり、1977年のロンドン会議からは欧州共同体の欧州委員会委員長が参加するようになりました。

1980年代、レーガン、サッチャー、中曽根の右派らが政権を握った時代には、新自由主義的な方向の経済政策が打ち出され、また、米ソ冷戦が激化し、イデオロギーを重視した、政治・軍事の討議の場にもなってゆきます。

その後、冷戦が終結してロシアが段階的に加わる様になり、1998年からは、ロシアを入れた「G8」となりましたが、世界の大事な事を、自分らだけで都合の良いように決めようという、グローバル資本主義の覇権構造を支える役割については、何ら変わりはありません。

環境破壊や、格差社会を作り出した張本人こそが、まさに「G7」、「G8」であるともいえます。



●反サミット闘争の現状について

7月7日,8日,9日と、「洞爺湖サミット」がもたれます。

このサミットを批判、弾劾すべく、日本と世界の先進的労働者等民衆は、昨年から準備し、現地での反対運動を準備して来ました。

日本と世界の民衆は、キャンプ村を用意し、続々と現地に結集する準備を図っています。

既に、この一環として、外相会議が京都で、6月26日、27日と持たれ、京都の労働者・民衆を中心に、関西、西日本から参集した人々は、これに対して、連日、統一行動を展開しました。

東京では、6月28日以来、7月上旬、一杯まで、多くの集会、シンポジューム、デモが、この前段闘争として、連続した闘争として、準備されています。

この中には、スーザン・ジョージさんの講演会なども予定されています。

(6月28日の文京区民セ ンターでの講演は、YouTubeにアップされています。)


●日本民衆闘争が、世界の民衆闘争に、やっとながら、キャッチアップしつつあること

この7月初旬の現地闘争を中心とする反サミットの連続した、東京・全国各地の闘いは、5月のメーデー闘争、沖縄での15日から18日の闘い、或いは、5月4日〜6日の「9条を世界へ」の「9条世界会議」ら、僕等の「9条改憲許さない、6・14フェスタ」の行動も含んだ諸反改憲闘争ら、今年、08年前半の民衆の闘いを集約する、決定的対決攻防場として存在します。

もっと視点を広げれば、この反サミットの闘いは、1975年、フランス、ランブイユで、第一回目のサミットがもたれて以来、国際帝国主義に抑圧、搾取、収奪され、貧困と無権利、生命の抹殺を強いられ、戦い続けて来た、発展途上国を中心とする世界の民衆の歴史、その息吹が、これまで、それと長き歳月において、切断されてきた日本民衆の中に持ち込まれること、世界と民衆の闘争が再度、公然と全民衆的レベルで、結合、融合してゆく開始点となると思えます。

70年安保大会戦(から70年代前半)まで、日本民衆闘争は、世界の民衆闘争の、最前線の位置を占めていた、と言っても過言ではありません。

しかし、そのポジションは、以下の諸要因で、以降、失われてしまいました。

■一つは、その後、国際階級関係の大変化、資本主義の新しい段階としてのグローバル資本主義、ネオリベラリズム資本主義の時代が到来したこと、にも関わらず、日本民衆は、この新たな段階の資本主義の到来の事態そのものをしっかりとは捉え切れてはいず、従って、それ故、この資本主義と、どう闘ってゆくか、そういった問題として、この敵勢力の本質、性格、布陣をしっかり捉えきることが出来ていなかった、ことにあります。

マルクスが「資本論」で解明した時代、いわゆる、産業資本主義の時代、レーニンが「帝国主義論」で解明した資本主義の時代(1975年の植民地体制の崩壊に至るまで)、いわゆる、古典的独占資本の資本主義、「帝国主義」の時代、こう言った時代の二つの資本主義の段階とは違う段階の、新たな資本主義の段階へと、資本主義は自己脱皮し、自らの新たな時代を創出して行ったわけです。

言わば資本主義の段階からすれば、資本主義の第3段階目、ともいえる資本主義の登場です。

国際帝国主義は、ベトナム侵略・反革命戦争で敗れ、それまで持ちこたえていた植民地体制護持の反革命の戦線を、解体されてしまいました。アメリカら国際帝国主義は、その敗勢を建て直し、巻き返すべく、中国の対資本主義融和路線、社会主義からの逸脱、変質を全面的に利用しつつ、新たな世界支配の路線、戦略を打ち出しました。

それが、IT−情報革命や新たな金融的術策の創出も含んだ巨大な金融力を最大限駆使したネオリベラリズム(新自由主義)、グローバリズム路線でした。

これは、レーガン・サッチャーにおいて、日本では中曽根において本格化して行ったわけですが、この路線で新たに理論的、思想的、哲学的な再武装を遂げた国際帝国主義は、ソ連圏を解体し、資本主義化し、これまでの世界市場では、まれに見る、高度に整備された、如何なる列強にとっても、均質な世界市場を生み出して行きました。

以降、国際帝国主義は、グローバリズム、ネオリベ路線を一層成熟・完成の域に仕上げて行きました。

仮に、この資本主義の段階を「グローバル資本主義」と命名するなら、(僕はずっと前から、こう命名してきました)、その特質は以下の如く指摘しえます。

第一は、ベトナム、インドシナ民衆、民族の反帝国主義、反植民地主義、反封建の民族解放戦争は、1975年、勝利しました。

アメリカ帝国主義ら国際帝国主義は、自らの構築した植民地体制を最後的に一掃されました。

ところが、皮肉にも、中国の路線転換も手伝って、社会主義革命に連続化されてゆく、といった具合には向かってゆかず、「資本主義発展途上国」となったわけです。この事態を見据え、国際帝国主義は、敗勢から立ち直り、この事態を徹底的に促進しました。

これに、かつての「社会主義圏」が資本主義化することが、加わることによって、彼等は、世界史的に見て、最高度に発達し、洗練された、単一化された世界市場創出に成功しました。

アメリカ帝国主義ら国際帝国主義は、IT産業ら技術革新力と金融力を最大限活かし、巨大な国際競争力を持って、ここに乗り込み、資本・商品の輸出を「資本の多国籍化」の方策を駆使しつつ、各国、列強にとって共通の、この世界市場をベースとして、新たな質の経済競争戦を展開して行きました。

これまでは、資本の競争戦は、ブロック化された排他的勢力圏としての経済圏―垂直的資本輸出の構造でありました。

つまり、レーニンが「帝国主義論」の中で、執拗に、主張し続けてきた、各国帝国主義を単位とする≪帝国主義による非資本主義圏の民族の支配とその植民地化による利潤獲得≫といった、「帝国主義と民族・植民地問題」「世界市場の分割戦」の内容は、先進帝国主義列強相互の水平的資本輸出、資本の相互乗り入れのボーダレスな関係へ、そして、かつての一国ごとの垂直的関係のそこへの組み込み、といった「水平+垂直」の関係を総合した関係性へ再編成されてゆきました。

このことは、一国規模の「工場内分業、協業関係(「資本論」、「相対的剰余価値の生産)」としてあった、資本の「直接的生産過程」としての、「価値増殖過程」−「労働過程」としての、一国規模の「工場内分業、協業関係(資本論)」を、根本的にグローバルな、「国際的工場内分業―協業関係」に変革してゆくこととなりました。

さらに、この「工場内の分業と協業」が、国境を越え、グローバル化することに応じて、つまり、生産過程の大変革に応じて、かかる直接的生産過程の大変革、質的変化に見合う内容で、今度は、国際資本主義の諸貿易機構、金融機構、政治機構が再改革、再編成されてゆきました。

それが、WTOであり、IMFであり、世界銀行や国際決済機構の再編成であり、サミットの現出であったといえます。

又、金融資本の特質である信用の擬制的な驚異的膨張性に寄生した、デリバティブやヘッジファンド行為、あるいは株式交換を使った新種の企業合併、乗っ取り(M&A)らも生まれてゆきました。

第二は、「社会主義」との競争関係の中で生まれた、ケインズ経済学は、御用済みとなりました。それにとって代わって一大勢力となって登場したのがハイエクやフリードマン、ミーゼスら新自由主義経済学の潮流であったわけです。

この過程の分析は、デービッド・ハーベー「新自由主義」などで、相当、解析されているところです。

もはや、資本主義は、「社会主義」が消失した以上、民衆運動に何の気兼ねも払う必要がなくなったわけです。

彼等は、アダム・スミスやデービッド・リカードらの「自由なる競争、その調整は≪神の見えざる手≫に委ねる」らの見解を復権し、「国家の経済過程への不介入、ケインジャン達の批判、駆逐」学問的、政治的に推進しつつ、いわゆる「弱肉強食こそが、経済や人を活性化し、強化する」と言った、今では常識化しているが、当時では、新鮮な「市場原理の至上への純化の志向」を70年代、半ばから大体的に主張し始めたのでした。

この志向の核心は、「欲望に基づく自由競争こそが人間の本然」を、“真理”として言い直し、資本家の階級意識を呼び覚まし、格差、階級分化、階級分裂の肯定しなおし、同時に、その「自由」は、「それ自身が至上」で、「平等」や「博愛」をはっきりと否定したり、下位に位置ずけたり、「自由」との不両立を説くものでした。

このことは、経済学上のことでありますが、哲学上、思想上、つまり人間観において、「欲望の至上的肯定」、つまり「個人利己主義思想の人間観の肯定、「社会主義的」、「共産主義的」人間観、「共同体」的人間観の全面的否定を意味します。

このような思潮、哲学は、資本家のみならず労働者等民衆にも、中国やソ連の実際や民衆運動の「挫折」的事態の中にあった民衆に多大な影響を及ぼしてゆきました。

■二つは、このようなグローバル資本主義の段階に、日本と世界の民衆は、古い段階の資本主義を倒す革命思想、路線、戦略―戦術に拘り、≪資本主義の新たな段階の到来≫に、すら、気づくことが出来ず、何の対抗策も提出できなかった、ということです。

しかし、このグローバル資本主義に、集中的に犠牲になる発展途上国から抵抗闘争が、始まるのは当然です。

又、ブルジョア革命後、帝政への反動化と幾度も戦って共和制を守ってきた民主主義の権利意識を、根っこのところで確固として持つ西欧民衆も頑強に抵抗するのは当然です。

第二次世界大戦の後に、ファシズムを徹底的に清算したドイツやイタリアをはじめとする西欧と、戦争を遂行した勢力を一掃できず、彼等を延命させてきた、日本社会の歴史的風土との違いもあります。

こういった次第で、遅ればせながら、このグローバリズム、ネオリベラリズムに、こういった地域から徹底した批判が始められて行ったわけです。

それが、新自由主義を批判したサパティスタに典型された中南米の民衆運動や、フランスでの 「ATTAC」、或いは「アウトノミヤ(空家占拠運動)」運動をやり始めたイタリア民衆の勢力であり、これらの流れは「世界社会フォーラム」を作り上げてゆきます。

「ATTAC」は、「外為市場の投機取引に課税する」という、アメリカのノーベル賞経済学者であるジェームズ・トービンの提案する「トービン税」などの実現を目指す団体ですが、今回来日したスーザンジョージさんは、「ATTAC」発起人のひとりであり、現在も「ATTACフランス」の学術委員会のメンバーです。

サパティスタは1994年、メキシコ、チャぺス州で、武装蜂起します。この流れは、年々力をつけて行き、1999年には、シアトルで開かれたWTOに対して、10万人の包囲戦を展開して行きます。

2001年に、彼等は、ブラジル・ポートアレグで、第一回目の「世界社会フォーラム」を開催します。以降このフォーラムは毎年、毎年、持たれ、昨年まで、ポートアレグで数回、インド・ムンバイ、ケニアらでもたれてゆきます。昨年、ドイツ・ハイリンゲルのサミットでも大結集します。

これは、後、詳細を説明しますが、ムンバイでは、路線闘争が勃発したりもします。

このような、サミットら国際帝国主義の政治への戦いがあるにも関わらず、日本では、国際民衆闘争の環である、反サミット闘争に、国際的に登場することは、少数の先進的人々を除いて、ありませんでした。

それは、日本の革命運動が、70年安保闘争での連合赤軍問題や内ゲバ問題から、主体的には、立ち直りきれて居ないことに主体的因があるのですが、その根元は、ドイツやイタリアに比し、先述しましたように、戦後革命や日本近代史において、真に近代的な革命的民衆闘争を経験せず、近代的な、自主的な革命主体を創出しえず、丸々と言って良いほど、戦前支配階級やその軍隊、警察やその権力制度を、追い詰め、解体しきれて居なかったことに起因すると思われます。

そうであるが故にグローバル帝国主義、ネオリベ路線の政治を、70年闘争以降、30数年間、真正面から批判しきれず、圧伏され続けてきたわけです。

しかし、それが、日本グローバル帝国主義の行きつまりと軌をいつにしつつ、やっと反改憲闘争やプレカリアートの戦いらを先駆的戦いにしつつ、70年までの日本民衆の戦闘性が蘇り始め、今回の反洞爺湖サミットを、国際的な革命的民衆勢力を受け入れ、ともに闘うことが出来るまでに力を付けて来た、といえます。

百万人の決起で、現大統領を窮地に追い込んだ韓国民衆が、大人数で来日したりもします。(続く)


塩見孝也