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僕は、まず、今回の事件で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表します。同時に、過ちを犯した加藤君に、怒りというより、なんとも言えない哀切の情を覚えます。
これは、監獄に、長く居た体験も関係した、犯罪(「犯罪」)、犯罪者(「犯罪者」)の大半に、僕が覚える感情でもあります。
僕は、獄友であった、「連続射殺魔」、永山則夫君とその悲哀の人生の物語を、直ちに想い泛かべました。
一連の報道の中で、6月10日付の、読売新聞の「編集手帳」の中では、この事件について、「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを」という記述がありました。
これは、責任回避、身勝手きわまる、表現です。この表現については怒りを感じ、全面的に反対し、批判、糾弾します。
これは、「読売」らしい、あからさまな弱肉強食思想の容認、棄民思想、民衆切捨て思想と言えますが、犯罪を犯罪者個人の「自己責任」や「資質」のみに還元する、全く干乾びきった、権力者、支配階級の開き直りの常套の思考法と言えます。
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この事件は、最も、今の社会、経済、政治状況を反映した、象徴的で、典型的な社会的事件といえます。
人間、民衆は、置かれている環境、条件が、生存条件の限度を超えれば、錯乱するのは、当然と考えます。
それを、よき事として決して容認しませんが、人間、民衆は犯罪も犯します。
権力者や資本家階級、そのイディオロギー宣伝部、「読売」など、その社会矛盾の真の醸成者、創出者、原因者達は、このような意味での、巨悪の政治、経済上の大犯罪者たちは、そうであるにも関わらず、否そうであるからこそ、自分たちの責任を回避し、犯罪論において、上述の主張をやり、民衆のせいにし、民衆同士を争わせます。
これは、資本主義が行き詰まった時の支配階級の常套政治です。
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この事件に照らせば、被害者と加害者を、被害者の肩を持ちつつ、双方を、身を切り刻むように、争わせるやり方、そして、真の原因、搾取、搾取制度、真の事件の責任者、自分たち、搾取階級、資本家階級たちのことは、ふれないようようにし、極力隠蔽し、加藤智大君だけのせいにしようとしているわけです。
彼の置かれた、環境、生活条件は、現在の、日本、世界のグローバル資本主義、新自由主義の、労働者に生存の臨界を越えるような低賃金、無権利を強いつつ、資本だけは、膨大な利潤を上げる資本主義(の延命)の本質に根ざすものです。
不正規、不安定な流動的な労働者、いわゆる「プレカリアート」が、今の日本社会と世界では、膨大に作り出されて居ます。
これは、一般に資本主義の下では、避けがたいのですが、特に、ネオ・リベラリズム(新自由主義)の現代資本主義では、決定的に避けられません。
現代資本主義、グローバルな新自由主義的資本主義は、国境、国家を越えて成長し、民衆の制限された就業条件、制限された消費構造の枠組みのもとで、現存の資本制生産力に対して、いつも相対的に過剰な「相対的過剰人口」を創出します。
これは、マルクスが「資本論」において、論駁の余地なき内容として科学的に論証している資本主義に、つき物の人口法則です。
産業資本主義、古典的独占資本主義(帝国主義)の段階と違う、グローバルなネオリベラリズムの現代資本制の下では、これが一国ごとに創出されるのではなく、国境、国家を超えて、グローバルな形で創出されます。
同時に、それを、国際資本主義は、国境、国家を利用しつつ、巧妙に、分断して、流動化させ、操作し、利用します。
このような、労働者階級の国際的、国内的在り様からして、加藤智大君は、典型的なプレカリアートの存在ではあれ、決して、それ以上の存在でもなければ、それ以下の存在でもありません。
それ以外の特別な存在では全くありません。彼は、たくさんのプレカリアートの中の一人に過ぎません。
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僕が加藤君に深甚なる哀切感を覚えるのは、彼が、漠然と直感的、感覚的に、社会、体制、政治に、不満、矛盾を感じるも、その矛盾の本質・原因を、科学的に、解明しきれていないこと、したがって、敵が誰で、味方が誰で、どのようにしたら、この矛盾を解決できるか、その方策はどのようなものか、このような問題の立て方に至らず、その方策を獲得できず、よく分からないまま、闘いの矛、刃を、盲目的に振り回し、本来の仲間、味方、同志となるべき勤労民衆、労働者階級にぶっつけてしまったことです。
闘いの政治的、思想的、哲学的「武器」を、今、象徴的な意味で、「銃」としましょう。決して、武器としての武器の銃を、僕は言っているわけではありません。
しかし彼は、「物理的な武器」である刃物を、味方に向けて振り回してしまったわけです。
「武器」の基本ベースは、マルクスが解明した資本主義批判です。
生産手段の私的所有、社会的分業、労働力が商品化する資本制生産様式では、労働力を商品として売ることなしには、生きてゆけない、賃金労働者、賃金という鎖で縛られた現代の奴隷、賃金奴隷を大量に、階級として生み出します。
剰余価値は、その生産者、労働者階級には、還付されず、資本家が略奪できる社会経済システムです。このシステムの下では、労働者は、いくら、働いても、貧困のままで、賃金という鎖でつながれた賃金奴隷であるという運命を免れません。
このことが、分からない場合、今回のように、〈武器〉を味方に、ぶっ放してしまうのです。
哀切感の源はここなのです。
僕のように、現在の「プレカリアート」の問題を捉えて、闘っている人々は、認識の深さ、決意の程度は別にして、たくさんいらっしゃいます。革命家たちもいらっしゃいます。
その運動、声が、彼に届かなかったこと、彼が、我々の陣営に近づく方策、ルートを断ち切られていたこと、このことに、己の至らなさの自己批判を込めて、口惜しく、哀切感を覚えるのです。
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資本主義が行き詰まれば、支配階級は、大きく見て、三つの方策の政治を打ち出します。
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a) |
一つ目は、(侵略)戦争です。 |
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普通、その矛盾、民衆の不満を、資本主義は、他民族、他国にむかわしめます。これが、戦争です。
民衆を軍隊に動員したり、他民族の領土を侵略し、そこに植民させたりします。こうして、諸民族相互を、憎しみあわせ、殺し合わせ、遂には、戦争に持ってゆきます。
戦争を政治・経済学上の観点で見れば、戦争こそ、執権勢力、資本家にとって、もっとも有効、有利な利潤追求のための経済行為といえます。
どういうことか。
支配階級が、民族や国家を名文に、ひとたび、人が人を集団的に、殺しあう関係、状態に、もって行けば、軍事経済を初め、あらゆる経済行為に市場を与え、経済を活性化できます。
自国の人的資源を、戦争勝利の目的に向けて、無制限に動員できます。そればかりか、他国、他民族の人的資源、原料・資源らを無制限に利用できます。
生半(なまなか)な新産業分野の開発など、及びもつかない膨大な利潤を資本家たちに、もたらします。
戦争こそ、資本にとって、最大、最高の救世主となります。
なぜなら、戦争が、彼等に、人間が最高尊貴する、命と自主性を自由に操作しえる権能を与えれるからです。人間の命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせる人間の自主性によって、社会が向上するという歴史発展の大法則、大原則、基本約束事・基本規範を、戦争は否定、ひっくり返してゆくからです。
この典型が、産軍複合体の戦争システムを完成させているアメリカ資本主義の制度、システムです。アメリカ資本主義は、年から年中、インチキ名文を捏造し、戦争をしています。戦争を続けない限り、存続し得ない社会に至っています。資本主義が、戦争を常に求める生産様式の社会であることを露呈しています。
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b) |
二つ目は、自己責任、リストカット、引籠り、各種依存症、自殺志向らです。精神錯乱と一体の自己否定、自己抹殺の容認。いわゆる、矛盾を内向化させ、人間を壊してゆく棄民政策です。
ここまで、体制、社会の危機が煮詰まってきていない時は、その矛盾を対象化させないようにし、「内側」に向けさせます。「心身が壊れた〈精神錯乱の)人間」に労働者を仕立て上げ、膨大な自殺願望を持った人間を作り出します。
外部、社会と切り離された「内向化」は、観念的な神秘主義の諸思想、諸哲学、諸カルト的諸宗教思想と結びついたり、新たにそういったものを生み出します。
しかし、精神的営為は、観念的に内側に向かっても、その存在は唯物論的であるわけですから、結局、いったん内側に向かった後、そのような、様相を呈しつつ、結局は、外に外化し、爆発してゆきます。
酒鬼薔薇聖斗君の症状は、その典型ですした。
読売・編集子は、こう言ったことを推奨し、そういった政治を護持しようとしているのです。
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c) |
三つ目は、矛盾の外化、「外ゲバ」志向、民衆同士の殺し合いの促進です。つまり、無政府主義的、大から小、各種の「内戦」です。
これは、aの戦争にも、外化できず、さりとて、bの自己否定、自己抹 殺も限度に至った段階で、採用する政治といえます。
しかし、現代では、aのような、帝国主義列強の国民国家間戦争の可能性は少なく、発展途上国の限定された地域戦争の恒常化が常態です。そこから、世界大戦に、発展する可能性が、完全になくなったわけではありませんが。
であれば、権力者達は、矛盾が内向化しますから、それを、見越してbを外化させ、「国民内部の総ウチゲバ状況」を常態化させ、権力と体制を維持しようとします。
結果は、果てしない、民衆相互の争い、遂には、暴力的決着、無政府主義的「内戦」です。
雑誌「論座」で、赤木智弘君は、aへの危うい志向を語っています。しかし、赤木君は、こういうことで、逆説的に、民衆の奮起を促しているようにも捉えられないこともありません。
今度は、自己防衛も含め、被害者の肩を持ちつつ、被害者とそれに同情する人々の憎悪の感情を掻き立て、「加害者」を、徹底的に、異常人間視し、彼に、一切の矛盾を集中しようとしているわけです。
こうして、「犯罪の被害者+〈私達、みんな良い子ちゃん〉の秩序勢力(実は、資本家ら支配階級)」VS「犯罪の加害者+プレカリアートら反抗分子(実は、プロレタリアート)」として、彼等、資本家本位の「内戦」図式を描こうとするわけです。
この図式に、乗せられず、こういった民衆の「内ゲバ」的犯罪(「犯罪」)事件を、社会的、階級的に捉え直し、乗り越え、「資本主義に因あり」、として、権力者、資本家階級を糾弾すべきです。そして、労働者階級は国際的、国内的に団結し、闘う陣形を作り出してゆくべきです。
拝金主義(貨幣物神)と搾取(剰余価値の搾取)、無権利、戦争遂行を法則として持つ、賃金奴隷制としての資本主義を廃止すべく、奮闘すべきです。
また、現代に合い、現代を超えた、資本主義とは全く違う世界が、創出できることを確信し、コンミューン(階級なき国際的な規模のエコロジカルな共同体)の、全く新しい社会主義・社会主義革命の内戦を創造して行かなければなりません。
人間の命とそれを社会的に輝かせる自主性をどこまでも保障して行くことに於いての、新しい社会主義です。
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「犯罪事件」、「犯罪」は、社会構造の認識、資本主義批判 が深まり、権力、支配階級に、その対象が、徐々に向けられて行くようになれば、もはや、犯罪とは言えません。半分、革命的な行動、〈犯罪〉となります。 だから、その両義性において、僕はカッコつきの二重表記をしたわけです。
この事件をまとめ的に述べれば、権力、支配階級が、「犯罪」として、民衆側に、その責任を転嫁し、「内ゲバ」を促進し、民衆の分断を図らんとするのに対して、民衆側は、それを、跳ね返して団結し、逆に、矛盾ー責任を、彼等に、再転嫁して、階級隊対階級の、真の民衆戦争、内戦・内乱を創出することだと思います。
しかし、それは、言語矛盾の極みのようですが、暴力至上ではなく、非暴力を理念とするものです。
正当防衛の自衛の暴力は承認する点で、絶対非暴力主義ではありませんが、かつての軍事至上主義的な「革命的暴力」を超えた、「超暴力としての非暴力」の内実を持って、国家暴力に対して、知的・道徳的・文化的強さにおいて、そういうものとして、スピリット、思想に於いて、彼等を圧倒する、丸腰の自主的諸個人の直接行動の集積としての大衆行動を基本とするものでなければなりません。
それは、知的・道徳的で、文化的な、スピリットの高さと鋭さににおいて、彼等を圧倒しさるような大規模な思想的・政治的な大衆的激突の戦線を主軸とする、徹底的にラジカルなものでなければなりません。
このような意味において、現代に合致し、かつ現代を超えた、ポスト・モダンとしての革命的内戦の戦列の創出こそが、今、要求されているわけです。
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塩見孝也 |
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