寄稿・論文



自主日本の会

掲示板

コラム

イベント

リンク

 topページに戻る

映画評
森田芳光監督「サウスバウンド」について


「パイパティローマ」から吹き寄せる赤八の風


2008年 6月 3日

塩見孝也
この映画評には映画の内容について言及している部分がありますので、まだ映画をご覧になっていない方はご注意ください m(_ _)m

T.
「バトンを継いでくれ」というメッセージ 。

またひとつ、良い映画を観ました。 それは、森田芳光監督の「サウスバウンド」です。

行定勲監督「クローズドノート」だったか、の「新作映画情報」の中で、沖縄・八重山、西表島(いりおもて)で、トヨエツ(豊川悦司)の“一郎”がゲバ棒を持ち、バリケードを築き、ヘルメット姿の天海祐希の “さくら”が、開発会社や沖縄県警と闘っているのです。

天海は、子供たちに「良く見ておきなさい。あれが、お父さんの本当の姿よ!」「貴方達の目に焼き付けておきなさい」と母として、子供たちに、必死で叫んでいるのである。

まるで、三里塚闘争の「戦場」の再現です。

僕は、初め「何事か」と思ったわけです。それで、行きつけのビデオ屋に駆けつけたわけです。

映画は昨年10月に封切られ、ちゃんとDVDがありました。 見終わって、この映画が、話題にならなかったのを少々不思議と思いました。


現在、映画界は、決定的な流動期に入っています。

このことは、僕が昨年、「フラガール」ら、一連の映画評を行ない分析し、予言したことです。この流動化は、僕が予想した以上に速いテンポで進んでいるように思えます。

映画の主人公である、この上原一郎、さくら夫婦は、80年代の「過激派」、「アナーキスト」とされています。

ストーリーから、推定すれば、明らかに60年代から70年代の、今は30代の成人となっている「子供達」を持っている「父」や「母」を、二人が生き、闘った時代の青春時代の姿と重ねつつ、映像化していると捉えられます。

いわゆる、団塊の世代―全共闘世代の物語といえます。それが、何故だか、80年代に活躍した、とされ、10歳ほど年齢が若くされています。

トヨエツや天海に還暦近くの人物を演じさせるのはサマにならない、と監督は思ったのでのであろうか。
 
ちなみに、調べてみると、森田芳光は1950年1月25日生まれ、当時「過激」な「武闘派」で名を馳せた日本大学芸術学部闘争委員会、通称「日大芸闘委」でした。

それまで、村上龍の自伝的小説「69 sixty nine」、藤原伊織の「テロリストのパラソル」、その他断片的なものや、回想的なものは沢山あります。

しかし、正面から過去と向かい合い、総括し、現在を描き、未来を展望するような映画は、60年〜70年代をある面で「復権」した(止揚した地平で)、若松孝二「実録・連合赤軍」を待って、嚆矢とすると考えます。

その前に、高橋伴明監督の「光の雨」がありますが。

若松は、リアリズムの映画手法で、今の青年達に、体制側によって、切断され、不連続化された80年代、90年代に、70年闘争を連続化させる目的で、民衆の側からの歴史を開封しています。

あの映画は、70年闘争を映像化し、「こういう風に闘ってきたのだよ、こういう風に闘ってはならないのだよ、どうか闘うのであれば、君たちの両親たちの戦いを、その正反も含め、参考にして欲しい」というメッセージを、今の若者たちに送っています。

この映画も、向かい合い方が、やや斜で、風刺的で、スケールもやや小さいにせよ、基本的には、全く、同質のメッセージとも言えます。

違うのは、若松が「70年闘争まで」を語っているのに比し、森田は、 「70年闘争、それ以降」を、語ろうとしていることです。

しかし、「70年以降を語る」ことは、これまた、非常に難しいことです。考えようによっては、こちらの方が、難しいかも知れません。
なぜなら、あれ以降の後退戦を語ることは、語る人、その人が、その時代を、節義、節操を持って生きてきていない限り、そうやすやすとは、語れないのですから。

ところが、監督・森田芳光(や原作者、奥田英朗)が、全面的とは言えないにしても、60年代から70年代を生き闘った、世代の戦いの意義と限界について、主側面において、“正しい”(と僕には思われる)》、思想上、政治上の総括方向を、彼なりに設定し、その観点で、「70年闘争、その後」を、「70年闘争戦士の家族の物語」として、誇らしく語っているのです。

そして、この(様な)映画の誕生は、日本資本主義−日本支配階級の経済、政治における行きつまりと軌を一にしており、又、そうであるが故に、その内容は、同時代を生きた世代の30年間の総括、反省を経ての、共通の思想、哲学、世界認識、つまり共同主観の先鞭をなす、映像と言って良いように思えます。

或いは、世代を超え、とりわけ、日本と世界のグローバリズム、ネオリベラリズム資本主義に、めちゃくちゃにされて来、今もされつつある、“プレカリアート”の20代、「ロストゼネレーション」の30代の世代への忌憚のない、まだまだ意識化されてはいないが、「バトンを継いでくれ」と、メッセージしているとも考えられます。


U. 戦後第一期の青年達―――「新左翼」世代の運命とは?

60年代〜70年代の闘いは、戦後世代のインテリ青年達が、あらゆる教条、権威に捉われず、自己の思うところに従って、自分流に、当時の時代、社会に“異議申し立て”を行う、歴史的意義を持った闘いでした。

そうであるが故に、この世代は、自らを「新左翼」と呼んだのでした。それは、「全世界を獲得する」ピュアーな高遠なる志に基づく、大いなる理想に燃えた闘いであったといえます。

60年から70年に掛けての新左翼の戦いは、斬新で、爆発力を有した、正に革命的といえるダイナミズムを持ち、歴史的意義を有していました。

しかし、それは、いろんな面で,未熟で、自らが〈革命〉しようとした教条、教義、理論、権威、悪習から、完全には、脱却しえていず、それに、未だ纏われ付かれていました。

それ故に、いろんな弱点、迷妄、概して、未熟性を有していました。志が高かった、その分だけ、その挫折は、巨大な民衆運動へのダメッジとなり、世界とわが国の政治と民衆運動を規定し、その後、30数年に及ぶ、―こればかりが主要因とは決して言えませんが―リアクションの一時代を生み出してゆかざるを得ませんでした。

たとえ、致命的過ちを犯したのは、当時の世代の一部であったとは言え、そして、それは、真摯に闘うためから発し、全体的には、ヒューマンな要素が圧倒的であったとはいえ、また、その限界の一線を越えることは厳格に、全体では、忌避されていたものではあれ、ある面では、自らの限界、弱点、総じて未熟性を、外在的には勿論のこと、とりわけ、内面的に、この世代に、シンボライズして、照射し続け、トラウマ化し続けて来たのでありました。

それ故、この、戦後第一期の戦後世代の青年達、「新左翼」世代は、自らの青春時代の闘いを、全面的肯定をするわけには行かず、さりとて全面的清算をするわけにも行かなかったのです。

かくして、闘いの体験の表明は、常に《反省》を伴い、闘いの意義を語ることは、常に《苦渋》を伴うものでありました。

ある面では、それは、この世代が背負わざるを得なかった宿命に近いものとも言えます。この世代の運命といえる、性格のものでした。

闘いの歴史的意義を高らかに語るには、その意義の正反が、しっかりと弁別できる、その時代の、思想、世界観のパラダイムを、明白に超克しえる地平に至らなければならず、それまでは、常に《くすんだ色合い》が伴わざるを得なかった、といえます。

この世代が、「苦渋」、「くすんだ色合い」を拭い去り、からっとした形で、過去を語り得、現在と未来を語り得るには、約30数年の歴史の経過が、必要であったともいえます。

それまでは、この世代は、自己反省、ある面では、迷妄の地べたを、這いずり回り、もがきなが進んでゆかざるを得ませんでした。

若松映画が、リアリズムで持って、時系列的に、我々、戦後―新左翼世代の70年闘争までを語ったのに比し、この映画は、70年以降を生き続けた“全共闘世代の70年闘争「その後」”に焦点を当てつつ、そのメッセージを青年達へ、送っていると言える、と言いましたが、それは、実は、親からの世代体験の子供たちへの伝達、子供たちの両親理解のコミュニケーションにおいて、この《苦汁》《くすんだ色合い》を拭い去る、プロセスを、映像化することであり、それ自体が、この映画の手法であり、かつ、同時に映画の目的にもなっていると思えます。

つまり、森田は、《新左翼世代》の一典型としてこの“上原夫婦”を創造し、この夫婦を通じて、70年以降、結婚し、そこでなした、息子、娘たちに、自分たちがどう生きてきたか、どう過去を矜持し、同時に過去を、どう反省し、いまどう生きようとしているのか、を、その生き様の映像化を通じ、親子の世代の相互理解―コミュニケーションの在り様を示さんとしている、とも、捉えることが出来ます。

親子の両世代の相互理解、コミュニケーション!それは、「同志殺し」「内ゲバ」、体制側の、《過激派批判》《テロリスト批判》、拝金主義、個人利己主義、低水準な快楽主義が猖獗する《親子断絶》の時代であれば、それは大変なことといえます。

ところが、どっこい、上原夫婦は、少なくとも、それを、ある程度にせよ、やり遂げるのですから、痛快です。

上原夫婦には三人の子供が居ます。長女、洋子はもう20歳になり、次男の二郎、次女の桃子とは年も離れています。洋子は、両親の闘いの過去の片鱗を、一応知っています。

ニ郎と桃子は、両親の過去を全く知らず、ただただ、「父親」の破天荒ともいえる、一見風変わりで、奇矯とも言えるような言説やなりふり構わぬ「常識はずれ」の頑固一徹な行動、そして、彼に、いつも寄り添い「同志的」に連帯する彼の〈妻〉、二人にとっての〈母〉のさくらの姿に、かなり辟易し、迷惑気味です。が、他方では、畏敬の念も覚えています。

それが、物語の進展の中で、二郎の目を通しながら、次第に、融けて行き、両親との相互理解が生まれてゆくわけです。

映画は、二郎達が、自分たちの両親が何者であるかを、その歴史、そしてその思想的到達点が何かを、追及し、それを知ってゆく中で、その目的を実現します。


V. 前編、東京編について

物語は東京編と沖縄編の前編、後編に分かれています。

前編は、いきなり、20世紀冒頭の日本社会、東京から始まります。 地球温暖化が問題にされ、学校ではいじめ問題が続き、担任の若い先生は、懸命に生徒たちの宥和に努力しています。二郎には、良き仲良しのクラスメート、友達も居ます。社会は、グローバル化し、外国の女性で、日本で、水商売で働く女性も、子供たちの周りに、珍しくありません。

子供たちは、自由にパソコンを駆使しています。


父、一郎は、曲がったことが嫌いな、豪放、磊落な豪傑といえる。今でも、マルキストとして、全く観念的ではあるが、思想的には、筋を通しており、裏表の全くない生一本の人物で、一応、売れない、“高踏遊民”的小説家のようである。

トヨエツは、この現代の儒家的な人物像を、といって、相当暴力性を秘めた男なのですが、巧みに演じています。


一郎の言説は、超俗的なところが多分にあり、博物館の陳列棚に載せられているような一見荒唐無稽なのだが、突き詰めていけば、結構、道理が通っているのである。過去、過激派の幹部で、口を開けば、昔話もし、実際古くからの友人も沢山持っています。

いろんなエピソードが、織り込まれて居ます。


長女、洋子がグラフィックデザイナーになった、と聞き、喜ぶが、「それなのに、あんなダサい靴を履いているのか」と揶揄し、洋子を怒らせるが、お祝いであろう、新品の靴を進呈し、「父親のように、この靴を履き潰せ!」と一筆したりもし、娘の一人暮らしにも干渉はしません。

一郎が、「3万5千円の2泊三日の修学旅行は高い。学校と業者の癒着で、こうなって居る」と考え、学校側にねじ込んで行ったり、「今の義務教育制度は間違っている」とか、「徴兵制をどう思うか」とか、家庭訪問に来た、二郎の担任の若い女性の先生に議論を吹っかけたり、社会保険庁の年金積み立ての取立ての女子職員に、〈払わない、日本国民を止める〉とか、突っ張ったりもします。

子供たちは、一応、父親が、元過激派の幹部であったことは知っています。


かくなる具合では、一郎が、一家を支えてゆけないのは、当然で、妻のさくらは、小さな喫茶店を営み、地域の朗読会にも参加しています。

さくらの母が、いろんな探偵事務所の調査員など使い、情報を集め、20年振りに訪ねて来たりもします。

さくらは、今も、裕福な呉服屋の娘であったわけです。

そこでの、以下のような対話が交わされる。

「あの頃は若く、自分たちだけが、正義と思いこみ、意見の違う人を悪、敵と考えていた。」

「もう、あんなことはしない」

「あの頃は、私(母)もどう対応して良いやら、分からなかった。」「二度と、あんな危険なことはしないでね。」

「しないは、出来ないし」

こんな、具合で、母子は二十年ぶりに和解します。

どうも、さくらは学生運動では、どこそこ大学のジャンヌダルクと言われ、刑務所に入っていたようである。

二郎は、このわけを知りたい、とかねがね思っています。

祖母の家との交流が復活するのですが、そのことで、小遣い銭をもらう、もらわないで、父子の議論になる。

一郎は、大上段に、二郎に説教しますが、二郎から反撃されます。

「二郎、お前はプロレタリアの息子であることに誇りを持て」「金持ちである方が良いに決まっているではないか」「有産者は自分の労働と能力で財産を持っているわけではない。そうなっているところに社会システムのおかしいところがあるのだ」「しかし、第一、お父さん、そんなに働いてないではないか。外へ出て、汗水垂らして、働けよ。家におられると、子供としては困るんだよ」と、一郎の痛いところを衝くわけです。


そうこうするうちに、二郎が、いじめに遭っている友達を守るために、その相手を暴行する事件が発生し、上原夫婦は、学校側やいじめっ子の親と大揉めに揉め、遂に、これを機会にと、沖縄に引っ越す決断をしてゆきます。


W. 沖縄編……現代の赤八の乱 。

西表島は、一面緑に覆われ、サトウキビ畑が連なり、白浜の海辺を持つ、ヤポネシア(日本)列島の最南端、八重山諸島の中の、小さな美しい、のどかな島である。僕も、行ったことがあります。

この諸島の一つであったとされる「パイパティローマ」とされる伝説の島に、530年前、台風で、異国船が漂着し、大きな体の船長と水夫たちが住み着いた。

その子孫に、赤八という沖縄皇帝に楯突いた反乱者が、居たわけだが、上原家、一郎は、その子孫であった。

一郎は、ここを、開拓し、農業をしようとするわけだが、島の人々に大歓迎され、その業を進めてゆく上でも、大いに助けられる。

一郎は、いわば、地元の人、原地人ですから、多くの友人、知人を持っています。

一郎夫婦は、廃屋を再建し、翌日から開墾に着手し始める。

子供たちは、島巡りをやり、学校にも行き、島の子供たちやベニさんという西瓜売りのアメリカ人とも知り合って行く。

島の人にもらった船で沖に出たりしながら、初めは拒んでいた洋子もやってきたりし、島の女性校長が、この島の「義務教育」は、「子供たちが知り合い何かを創り上げるためのものだ」、と説得され、夫婦は納得し、子供たちが学校に行くことを許可したりもする。

暫くは、穏やかな生活が続いてゆきます。


しかし、そういった生活は長くは続きませんでした。この島も又、世界と日本社会の一部であり、米軍こそ、居ませんが市場原理至上、開発主義の波に洗われ、土地は二束三文で買い叩かれ、内地の資本家、開発公団のものになっていました。夫婦は、その会社から立ち退きを宣告されます。

一晩考えた末、夫婦は、戦い抜くことを決意します。マスコミがやって来、環境運動の団体が共闘を申し出しますが、一郎はそれを拒否します。

一郎の考えは、「土地は島人の共有のものであり、売り買いされるものではない。内地の資本の進出は、侵略であり、自分は原地人として、それと闘う。又、内地の環境運動などの政治にも利用されたくもない。」というものであった。

強制退去通告に、一郎は、堂々とこの考えを宣言し、一郎お得意の「ナンセンス」を言い立て、「3日と言わず、明日にでもやって来い」と宣言し、その通告書を、べりべりと破り捨てます。

このことは、日本国中にたちまち知れ渡り、二郎は東京のかつてのクラスメートや先生から激励されます。

ちなみに、僕等の時代、意見表明に対して「ナンセンス」「異議なし」というのが、学生運動の慣習でした。一郎は、その習慣通りに、対応したわけです。

強制退去の日がやってきます。バリケードに対して、ブルドーザ−を押し立てた公団側、対するは一郎とさくら、それを見守る子供たち3人とベニさんという、冒頭に紹介した構図の展開です。
ブルドーザーは、落とし穴で敢え無く縁故します。

一郎は、「見たか、正義を信ずる人間は、自分より何十倍も重いものも倒せる」と演説します。

その後は、「乱戦」となりますが、ゲバ棒、ヘルメット姿ではありますが、無血の非暴力闘争、己の身一つだけの抵抗を頑強にやりぬきます。「実力闘争」といっても、人を殺すことを目的とする「革命的暴力」に連なってゆくようなものではなく、抵抗精神、魂を自分の身一つの体、命に託して表現するものです。
 二郎は、「この後どうなるか分からないが、今のお父さんは格好良かった」と思います。


両親が、公民館に留置された、その夜、子供たち3人は、両親のことを話し合います。

「お母さんは、警察に捕まり、刑務所に入った、といのは、お姉さん本当なの」と姉に長年の疑問を投げかけます。

「本当よ。逃亡中、仲間を裏切った人を、あの頃は、戦争状態であり、誰でも、正義感を持っていたから、刺したのよ」「出所してから、お母さんは、お父さんのファンだったから結婚したのよ。そうでなければ、ついてゆかないでしょう。あんな、非常識な人に」

「お姉さんもお父さんのファンなの」「そうね、少々手に負えない人だけど、今時珍しい、純粋な人なのよ。二郎も桃子も、そんな二人の血を受け継いでいるのよ」

長年の疑問が氷解した二郎は、勇躍して両親の救出に向かおうとします。

そんなおり、二人が逃走したニュースが入り、ベニさんが、自分の公営住宅を燃やし、ダイナマイトを擬した爆竹騒ぎを起こします。これは、二人を逃がすための陽動作戦でした。

子供たち3人は、別れのため、秘密の場所に行きます。

「妥協するな、人間の器が、小さくなる」「俺は、極端な人間である。俺を見習うな。しかし、汚い大人にだけはなるな。違うと思ったら、とことん闘え、負けても良いから、そうしろ。又違っても良い、孤独を恐れるな」「そうすれば、キット理解者が現れる」と一郎は二郎達に説きます。
 「その理解者はお母さんなの?」と桃子が問う。「そうよ」と洋子が答えます。さくらは子供たちを抱きしめます。

こうして、家族が一体化した後、「指名手配され、大丈夫なの?」となります。

応援する島人たちは、「一郎さんは、海人だから、この広い海と無数の島の中で、十分生きてゆける」と子供たちを安心させます。

そして、もらった小船で、一郎、さくらは「パイパティローマ」目指して、海に出てゆくのです。その時、主題歌が奏でられます。

僕は、「シェ−ン」の最後の別れのシーンを想い出しました。

「貴方が生きる時を生きる、後ろ姿を追いける。 たとえ、夕日が沈んでも、たとえ全てを失っても いつの日も、貴方とともに−−−」

誠に格好良く、感動的なのです。


二郎は、校内放送で語ります。

「オニノム(?)に重税を取り立てられ、島人たちは地獄の苦しみを受け続けます。そうでない世の中を作り出したかった。」

「俺は殺されても、俺の魂は、“パイパティローマ”で生き続ける。」

「島々のハイカジュの上を、風が吹く時、俺が吹かせた自由の風と思ってくれ。」と赤八は遺言し、妻、クイツバと切り殺され、オモト岳のツクバルの茂みに投げ棄てられる。

その青子花の樹の下に、毎年夏になると、二輪の花が、寄り添って咲くようになる。

これが、赤八の乱である、と。
映画は、この放送がエピローグとなっています。


塩見孝也