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『週刊新潮』5月1/8日(GW)号の
記事と、その後について。


2008年 5月 19日

塩見孝也

「週刊新潮」5月1・8ゴールデンウイーク特大号の「ワイド・特集 『ゴールデンスランバー』」に、僕の事が記事になりました。

特集の「その6」に、「塩見孝也元赤軍派議長は『駐車場管理員』になっていた」、と出ています。

「『週刊新潮』その後」、というより「「66歳にして労働の意義を知る」、その後」を報告しなければなりません。少し、面白いし、少し有益かと思います。


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T.
「週刊新潮」の発行部数が、いかほどか知りませんが、――30万〜40万?――結構な反響が僕の周りでもありました。

いろんな人からの、話しを耳にしました。

電車の宣伝ポスターの帯に僕の名前を見かけ、「どうしたものか」「どんなものだろう」と思い「読んだ」、しかし、「見てみると、『新潮』にしては、(例によっておちょくってはいるのだろうが)、結構、ほのぼのとした、好意的な書き方をしていた」といった具合の評価が、一般的でした。

「ロフト」でも、大いに話題になりました。

僕は「これは、僕の信ずる思想のしろ示すところだ。」「『週刊新潮』は、如何に、塩見が落ちぶれた、かを披露しようとしたのも知れませんが、かえって、今の資本主義の衰亡を示し、僕がいかに、自己の思想に忠実で在るか、を宣伝してくれた」「自分など、経営者になろうと思えばなれるのだが、そうしないで、こういった仕事を選んだ。この、心意気を買って欲しい」と大見得を切ったわけです。

経営者になれるか、につきましては、多少疑義が出ました。これは、やむを得ない、ある面で、当然というところの意見でしょう。

「みんなも、見栄を張らず、時給、いくらか言ってみろよ」「時給千円は高いよ」「僕は、それ以下だ」「私は1300円だ」とか、若い人の発言があったりしました。

平野悠が「清瀬駐車場・クレア管理員、塩見孝也応援・ファンクラブを作ろう」とか、おふざけの提案をしたりしました。

職場の仕事仲間の一人からは「塩見さん、『新潮』見たよ」と声を掛けられました。「あんなもんですよ。今後とも、よろしくお願いしますよ♪」とさらっと応対しました。

多分、我が5班の仕事仲間達はみんな知ったことでしょう。

新潮の記事のことは、口には出しませんでしたが、「塩見さん、一度5班で、飲みましょうよ」と声をかけてくれました。

発売されて2〜3日後に、清瀬市から、この仕事を委託され、請け負っている「開発」会社の部長で、専務の次、No.2の人が二度ほど、さしたる用もなさそうなのに(?)職場を訪れて来たり、清瀬市の自民党の市会議員が、駐車に来たりしました。たまたまか、意識的なのか、何気なく、僕に話しかけてくるのです。

無言電話も二日間ほど、事務所に、立て続けに、かかってきました。多分、冷やかしでしょうが、受けるのは、他の仲間ですから、「こんな事務所に、無言電話もないだろう」といった具合です。

清瀬に住んで、18年、旧社会党、共産党、民主党関係や元新左翼系の三多摩一帯の(元)活動家諸氏は、知る人は知ってるのですが、―――東村山市の公安は無論ですが――こんな具合にして、僕は、我が清瀬市に、ささやかなるデビューを果たしたわけです。



U. 世知辛く、誰しも、庶民なら、懐が寒くなるような世の中、みんな倹約し、見栄や虚栄も捨て、せこくしなければ生きていけないのですから、僕がシルバ−人材センターのお世話になり、駐車場の管理員をすることも、別に不思議ではなく、僕らしい、と受け入れてくださったのでしょう。

もう一つは、僕が塩見流の生き方、哲学に従って、忠実に生きていることを理解してくださってのことでしょう。

以下は、「週刊新潮」の記事の抜粋です。
福祉的な会社を起こす話しとか、どこかの会社の管理者に紛れ込む、とか、塾経営、塾教師の話などもあったのですが、こういった経営者の類は全く意に沿いませんし、労働組合の専従や「いっそ農業をやろうか」とも考えましたが、結局、職住一体で、日銭が稼げ、思想や運動とも両立できる、こんな仕事に落ち着いたわけです。

僕の本業とするところは、革命家、そこでの著述業といったところですが、これで食える、という具合には、そうやすやすとは行きません。 時代風潮も関係します。

自己労働で、一定の賃金を得つつ、本業での収入の構造を組み立てなおしてゆこう、思ったわけです。

「革命家を看板に、指導者然としていた時代に比べると、言葉つきも顔つきも変わった。お客様から、“ありがとう”といわれるとホント嬉しい」

「笑われるかもしれないが、自分は働く人のために闘う言いながら、所詮労働現場を知らないインテリ層の一人に過ぎなかったが、やっと本物らしくなった気がする」

「息子は父親が働く姿を見るのは、これが初めてだと笑っています。無論、これまでやってきた民衆運動とも両立させています。いやこういった肉体を使った労働をやることで、運動の内容を本物化させているんだな」

「すっかり管理員が気に入っているようだ」――この辺の、『週刊新潮』での僕の発言の真意が伝わっていったのではないでしょうか。


「彼は、もともと純粋な人。自分がよしと思ったら、何も躊躇(ためら)わず駐車場の管理員になったのではないか」――――マー当たっています。この鈴木さんのコメントも効いたようです。

年金など、ほとんどなく、老後など全く考えてこなく、「カンパとタカリ(喜捨)」で生きてきた(他、メディヤや本の印税、塾教師などの収入もありましたが)」その分、昨年の胸痛は、僕なりに「老後」を考えざるを得なく、せしめました。


V. ところが、やってみると、これが、僕に合っており、気に入った次第です。

12月からですから、もう6ヶ月目です。4月から「副々班長」なるものを仰せつかりました。

刑務所では、こんな役どころは、絶対的に拒否してきたわけですが、ここでは、持ち回り制で、全員ローテーションとしてやらざるを得ないわけですから、引き受けました。

時給が、50円アップしますが、帳簿の整理、仕事中のいろんな事柄の処理とその報告書の作成、お金の計算や管理、駐車券を出す自動販売機や出車の際のバーを上げる自動機械の手入れや管理ら、こまごましたことを背負い込まなければなりません。

大分、頭に入りましたが、未だ機械の操作はこれから、というところです。

物覚えが悪く、不器用な僕ですが、こういうことは、家に持ち帰って、覚えこむようなことはせず、現場で覚えこもうとするから、すぐ忘れ、頭に入りきれません。まー、もう2〜3ヶ月でもすればこなせるようになるでしょう。一人前になるには、一年はかかるようです。

駐車場管理は協同(共同)労働です。30人、6班で、朝、昼、晩の三交代で回ってゆきます。

労働規律が、会社(資本)の側でも、労働者の側でも問題になります。

会社の言いなりには、なりませんが、仲間内としての労働側で、ミスすることはできません。資本と対抗しつつ、労働側が、どう円滑に協働してゆくかは、自分等の問題でもあります。

ここに、自主と協働、共同の民主主義の問題があります。これに、労働力の再生産としての地域での“生活(主に家庭生活)”を加えれば、資本に対抗してゆく社会主義の基本原型が出来てゆくのだなーと考えたりします。

労働は労働時間によって規定される。労働時間の人、労働者にとっての拘束性、という基本問題も痛感します。

人の労働における時間を、この際、この観点で、労働時間と余暇の時間に分けて考えて見ましょう。

この、労働時間の中には、若干、余談の部類に入りますが、僕の職場の場合、正式の休息時間が定められていません。もっとも、駐車場の3階以上の担当の時やその他、適当にそうする時間はあるのですが。

大体においては、人間の各時代の各時代毎の私有財産制ー階級社会の労働時間には、食うために必要な、労働時間に拘束され、―――自分の適性にあった「自由」な、労働をやっている人も居ますが、大体は食うためです。―――、この必要労働時間以外の、自由な自分の人生を楽しむ時間、余暇があります。

人間の歴史は、一つは、この必要労働時間を、どれだけ自由で、自主的な、適性にあった労働にするか、あるいは、労働時間に合った内容で、労働対価(労働給付)へ、適正に照応させるか、の闘いの歴史であり、もう一つは、この必要労働時間を短縮し、余暇時間を増やすか、の闘いの歴史であった、ともいえます。

この集約点として、その時代、時代毎の、私的所有関係、権力との民衆の闘い、つまり階級闘争が、連なって歴史が創造されてきたわけです。

こういうわけで、僕も労働者ですから、根本のところで、資本制所有関係(賃金奴隷制)の廃止を目指すわけですが、たとえ、月、九日間、平均5時間半ぐらいの労働ですが、もっと自主的で、自由にやれ、ペイがより高くなること、或いは、余暇の時間を、それを影響させられないようにすること、それを増大させるにはどうしたらよいか、など考えます。

それにしても、賃金労働者には、賃金労働者としての共通の階級的感情、言うならば階級意識があるんだな、とも感じました。

これは、僕等シルバーの30人の仲間たち、雑役のおばさん達や近くの駐輪場のおっさん達、電気や諸機械を管理し、災害に備える建物の管理する人々、ビルの塗装にやってきた、この半年ほど、顔を合わせ続けてきた、10人ぐらいの労働者たちと多少とも付き合った、僕の実感でした。

それにしても、車で来たお客さんたちの困りごとや質問、要望に的確に答えられ、感謝されるのは一番嬉しいです。

たいていの人は、苦労人で、道理(わけ)知りなのでしょう、礼儀正しく、「ありがとう」と言ってくださいます。その中には、心のこもった言葉が5割以上あります。

反対に、こちらが、「職業に貴賎なし」で、張り切ってやっているのに、それを当然のごとく思って、見下す人もたまには居ます。

この場合は、うんざりします。

こんなことを、想いつつ、駐車場に来る人々、特に親子、その中でも、母・子達の挙措を眺めていると、僕は、なんだかゆったりとし、満ち足りた気分になるのです。母親と子供たちの情景は、微笑ましく、どんなにか、僕の心を和ませ、潤わせてくれたでしょうか。

僕は、5班の仲間たちと、近いうち一杯飲もう、と思っています。

全く、人生行路の違った人達で、しかも地元の人達ですから、今まで僕が、全然、付き合うようなことのなかった人々といえます。

こういった人々と、誼(よしみ)を通じる事ができるのは、僕にとって、果報の極みです。良い経験となるであろうと確信しています。


W. さて、『週刊新潮』に、戻ります。

「新潮」は、これまで、僕については何度もおちょくってきました。 朝鮮国にいる、「よど号」グループの仲間との付き合い、らについてですが、大義の問題で、彼等と、「切れた」後も、たとえば、2003年の「白船訪朝平和義士団」について、特集「真夏の夜の悪夢」の中で、いつもの調子で揶揄してきました。

実際、この指摘は、僕等の企図が挫折したのですから、当たったことになるのですが、一切、僕等にインタビューもせず、憶測で書いたものであり、信憑性に乏しいことは確かでした。

ですから、今回は、「インタビューは必ずすること」「書かれた原稿はチェックさせてもらう」という条件を出したわけです。

そしてやってきた記者の人が、僕と同世代の人で、極めて誠実な、物分りの良い人で、約束を果たしてくれ、僕の言う通りを書いてくれた次第です。

こう言った経過や反響からすれば、この「週刊新潮」の記事は、概して言えば、僕にプラスであった、大仰に言えば、「民衆側」にとって、プラスであった、と思っております。 

まあ、僕の「作戦勝ち」といってもよいと思います。


塩見孝也