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映画「靖国 YASUKUNI」
上映妨害問題の背景


「日本会議」について


2008年 4月 13日

塩見孝也

1. この問題は、靖国神社を、どう捉えるか、といった日本ーアジアを通底する「歴史認識」の問題が根底にありますが、一般的には、江戸時代以来の、為政の要諦であった「寄らしめるべからず、知らしめるべからず」に従った稲田議員らの民衆を愚民視し、舐めた、不見識な行動に起因するものでありました。

しかし、僕等民衆側の対応は、この為政の要諦に照応する「長いものには巻かれろ」(“自粛”強制を許容する)とは全く質の違う、自主・自由の旗を掲げ、諦めムードの台頭を許さず、稲田議員等と鍔競り合いを演ずる、果断、迅速、機敏な反撃、巻き返し、であったといえます。

良き文化や芸術が、そう判断され、残ってゆくか否かは、権力者の判断を超えて、結局、民衆がそう感じ、思い、それに愛着するか、否かにかかっています。
 こう言った道理を、集約した政治的権利章典が、「言論、表現の自由」に他なりません。

先ず、先決問題は、自分の目で見ること、そして、そこから受け取った感性を土台にして、自分の脳みそを動かし、思考し、判断すること。 こういった、人間としての当たり前の、最重要で不可欠なことを掲げ、これを踏みにじる理不尽さに、僕等は怒り、自らのささやかな行動を起こしているわけです。

特に、映画を愛する人々を中心とする表現の自由の重要性を認識する、名もなき心ある民衆がそうしている、と言えます。

マスコミが、この権利にこだわり、論陣を張りつつあるのが、大きな前進の要因ではありましたが、僕は、映画を愛する人々を中心とする、このような反撃を高く評価します。

ネットを中心に行動した僕等は、この映画をほとんどの人々は観ていないと思います。ですからこそ、観たいから、それを禁圧しようとする動きに怒るのです。

街宣車右翼諸君も多分、ほとんど観ていないでしょう。

観てないのに、人には見させないようにすることは、彼等の信ずる思想が、如何に浅薄で、根拠薄き、一人よがりの幼児性のものであるかを示しています。

自らの信ずる思想が、万人の検証に耐え得ると自負すのであれば、どうして、こんなミミ
チー行動をとることになるでしょうか。

彼等の“思想”なるものが、如何にひん曲がって、許容力のない、浅薄ものであるかの自己証明に他なりません。

彼等は、実は、自分の信じていると思っているか、信じようとしている思想に、本当は、初めから、自信がないのです。

だから、度量もなく、ミミッチク、せせこましく行動するのです。

観ていないから、映画の評価は、保留し、見る条件を得ようと要求する僕等と、この思想上のレベルで、天地の差があります。

だから、僕は、映画上映に、僕等、民衆は必ず、勝利することを確信しています。

皆さん、創意工夫し、積極性を発揮し、粘り抜き、頑張ろうではありませんか。



2. 皆さんは、「日本会議」(にっぽんかいぎ)という名称の団体をご存知ですか。

この団体は、日本の保守系の諸団体、諸個人を総連合させている総本山、「ナショナル・センター」ともいえる団体です。

その「ナショナル・センター」の路線・政策として、映画「靖国」の上映に対しても中止させるべく画策されているようにも見えます。

実際に、日本会議愛知県本部西三河支部幹事長である杉田謙一氏が、本人のBLOG「草莽の記」の4月1日付及び4月2日付の記事で、映画館(名古屋シネマテーク) に対し、五月三日からの上映を中止に追い込んだとの記述があります。

組織的、計画的行動かどうかは別として、こういった、「それなり」に「威力」のある実動部隊の行動が背景にあって、稲田朋美議員などはHPの「お知らせ」の中で「映画の『公開』について問題にする意図は全くなかったし、今もない」との「建前」を発言しつつ、一方では「別働隊」が平然と「上映阻止」の本音を公言して上映を中止に追い込むような構図にもなってしまっているわけです。

「敵を知り、己を知る」ことは「孫子の兵法」の極意です。であれば、皆さん、一度、ネットで「日本会議」を検索してください。

1998年、「拉致問題」などがかまびすしくなってゆく時期、保守反動・右翼系の諸個人、諸勢力を総連合させる目的で、「日本を守る国民会議」と神道、仏教系の宗教、修養団体「日本を守る会」が合流して結成されました。

以降、安倍晋三を総理大臣に押し上げてゆく、原動力になったのも、このセンターであり、いわゆる“日本右傾化”を推進してきた母胎ともいえる団体です。

政界、財界、宗教界、法曹界、学会、スポーツや芸能・文化界、極右の諸団体、任侠右翼や「民族派学生運動」の諸団体らあらゆる各界を網羅している「ナショナル・センター」です。

当然、石原慎太郎都も居れば、小野田寛郎氏も居ます。麻生太郎も安倍普三も、今回の騒ぎを起こした稲田朋美議員も居ます。福田康夫現首相も、石破現防衛省長官も会員です。

宗教界では、神社本庁をはじめ、解脱界、国柱会、霊友会、など、保守右翼として、多少でも名をなした団体なら何でも、ござんなれ、のオンパレードで、参加しています。

月刊誌・『日本の息吹』を」発行し、議会では、「日本会議国会議員懇談会(1997年5月29日発足。2007年現在の会長は平沼赳夫)」などがあります。

僕が一昨年、4度にわたって、論戦し、この4月、二度にわたって、論戦しようとしている「日本文化チャンネル 桜(代表 水島聡氏)」も、この会議に属し、イディオロギー上の最先鋒を担っています。

「チャンネル桜」は、2007年の3月までは、スカパ−,767chで24時間の有料放送をおこなっていましたが、財政難により241ch(ハッピー241)での1日3〜4時間枠での無料放送に移行しました。その後の潮の流れの変化や、安倍政権の空中分解の政治情勢もあって、かつての勢いはないようです。

ちなみに、水島氏は、映画「南京の真実」の監督でもあります。(4月4日にも書いたように、僕らは、この映画に対して脅しや暴力で上映中止に追い込んだりするようなことはしませんし、あってはならない事です。)

この「日本会議」は、<「愛国主義」・「保守主義」の立場から政策提言を行い、国民運動を展開する>と標榜し、以下のような政策を持って活動しています。

 ・憲法の日本の伝統、国柄に基づく「改正」推進 ・「国旗国歌法」の制定(すでに実現) ・「有事法制」の整備
 ・「公共心」「愛国心」「豊かな情操」教育等を盛り込んだ「新教育基本法」の制定  ・「首相の靖国神社参拝」の推進
 ・靖国神社に代わる「国立追悼施設」建設反対 ・女系天皇への道をひらく「皇室典範改悪」反対
 ・「外国人参政権」反対 ・家族の解体を促進する「夫婦別姓法案」への反対
 ・男女の特性(=ジェンダー)を否定する「男女共同参画基本法」の改正
 ・行き過ぎた地方分権を進める「自治基本条例」の制定反対 などなど。

保守反動の願望を総展示したような「政策」の羅列です。



3. この思潮、潮流は、90年代から、日米の経済対立が激化して行ったり、他方で、アジアが興隆してゆく事情、或いは、日本執権勢力が期待するほど、ブッシュなどアメリカ帝国主義がイラク・中東などで、当初の思惑通りに侵略、占領・支配を実現し得ないでいる事情などを反映して生まれた、「脱米(嫌米・反米ではない)・自存派」の潮流といえます。

この極右部分は、日本核武装化を強調しています。

日本執権勢力は、思潮的には、このように、アメリカに歩調を合わせる、従属・グローバリズム・ネオリベラリズム派と戦前回帰の復古主義のファッショ派に分かれており、従来は、二派が目立たない形で相互補完関係にあったのが、時代の流れの中で、分化、かなり、対立し始めているわけです。

政治的基調、主流派は「対米従属」派ですが、後者は、「日本会議」などを創出し、組織的、集団的に系統的活動を行ってきているわけで、一応、侮れません。

何故、「一応」とつけるかと言えば、外観と実質が異なること、この「会議」の思想、政策が、超アナクロで、「鬼面、人を驚かす類」ですが、 日本の、現実、民衆の生活感情、根底にある反戦、平和、民主主義の要求と余りに乖離しているからです。   

又、何故、何故「侮れない」、とするかといえば、次のことです。

ドイツにナチズム復活の兆しがあるとは言え、日本の復古派と比べれば、日本のそれの方が、問題外に強力だからです。

なぜなら、ナチズムは、米帝ら連合軍によって完璧に打倒され、ムッソリーニ・イタリアは民衆蜂起によって打倒され、ともに根底から、解体、壊滅されました。

が、日本は、そうではなく、日米戦争の後に来る、ソ連とアジア革命との対峙をにらんで、日米支配階級の妥協、取引によって、天皇制も質を変えたとは言え護持され、陸軍や当時までの執権勢力は、ほとんど丸ごと温存され、根底的には、壊滅されず、延命してきたからです。

この、妥協、取引による、戦前からの支配階級の延命が、負の部分として、戦後日本を規定して行きます。

そして、戦犯、岸信介が内閣首班に、帰り咲くような事態が生み出されていったのでした。

更に、その岸の孫の安倍晋三が、祖父の薫陶を受けて、「憲法改正」を掲げて登場するところまで来たのでした。

しかし、失いかけてみると、自分が持っていたものが、どれほど大切なものであった、かを痛切に理解する、のが人間の常です。

それと、同じように、このような事態に至って、日本民衆、民族は、敗戦と戦後直後の歴史の意義、つまり、敗戦の過程で体験した、国民的な戦争体験の噛み締め、憲法の大切さなど、日本民衆の中にある、戦後日本を出発させた原点に脈々として存在する思想的な基本地盤、骨格となる部分を理解しはじめたのです。

或いは、生活危機の歴史的原因を、直感的に理解し、安倍政権を打倒するような、逆転的対応をし始めているのです。

執権勢力と民衆の利害が、相容れないことを理解し始めたともいえます。

この利害対立の鋭さが、今回は映画「靖国、YASUKUNI」の上映問題となって顕在化してきているわけです。この利害対立の鋭さは、今後、「表現」の分野に留まらず、「格差」「年金」問題などを初めとして、あらゆる分野、戦線で激化してゆくでしょう。

生きるためには、闘わなければなりません。闘うためには、戦後の日本民衆の出発の原点を踏みしめ、何故、侵略戦争の責任を、突き詰めてゆき切れてけなかったのか、に至り、戦後、やり切れず、変革を中途挫折させてしまったことを、しっかりと総括し、再チャレンジしてゆく方向に、歩を踏み出し始めたわけです。

実は、その攻防の決定的要衝として、「靖国をどう見るか」の問題が存在しているのです。

靖国神社とそのアナクロな靖国神道ともいえる思想は、こう言った保守反動勢力の最後の精神的牙城といえます。

天皇家もA級戦犯合祀をめぐって、昭和天皇が、先ず参拝しなくなり、以来、靖国と天皇家は疎遠になっています。

そうなれば、この勢力は、天皇抜きに、死者を弔うという跛行(はこう)的な、極めて、変則的な対応をせざるを得ません。

これまで、死者を弔うという意味で、一種の「聖域」的様相を呈していたわけですが、天皇家が抜け落ちた段階では、その「神通力」は、格段に減退します。

そして、この神社が、日本民衆に死と殺戮を、諦念の下で、強制した、非常に精神上、重要な役割を果たした戦争マシーンであったことが露呈し始め、他の追悼施設の問題が、公然と出始めたわけです。

「七生報国」「殉国、憂国」「英霊化への憧憬」「死んで靖国で会おう」−−みんな「民族」「国家」「聖戦」を、先験的前提とした想念からなる諦念の上での、死を前提とする美意識、ロマンといえます。

観念、言葉に酔っているのです。僕には、戦前の先輩、父母、祖父母ら民衆の悲鳴と聞こえます。

一般に、慰霊すべき死者を前面に押し出すことは、誰でも文句を言えない環境に追い込み、批判を封じ込めます。

この精神、感性構造を、靖国は巧妙に使って、延命してきたわけです。

戦争で亡くなった人々、同胞を悼むのは、正当な日本民衆の民族的感情です。

しかし、悼み方の問題なのです

靖国的悼み方は、日本近代の歴史から何も学ばず、再び同じように、今度は負けない形でやろうという、全く愚か極まる、報復主義、復讐主義の陋劣さしか生み出しません。

安倍晋三があの「戦後レジームからの脱却」「美しき国、日本」と修辞しようと、それが如何に空しい、独りよがりの美学、ロマンであったことは、既に天下に晒されたことです。

僕等は、「靖国」的悼み方を完全に清算し、戦後直後、中途挫折した変革の方向、つまり「社会主義・民主共和制」、民族的には「徳高き信義ある日本」の方向でこそ、悼むやり方を確立すべきなのです。

この原点を踏みしめ、「愛“国家主義”」ではなく、“命”とそれを“社会的に輝かせる人間の自主性”の最高尊貴、そしてそれを土台とする民衆の国際主義的連帯、そういったものととしての人類愛、或いは、そういったものとしての「愛くに(邦)」「愛郷」の、パトリオティズムも孕ませ、進んでゆく方向にこそ、日本再生の道が、唯一、開けてくるのではないでしょうか。

死と諦念の美学、ロマンではなく、唯物論に立脚する科学的世界観に基ずく、人生の賛歌の哲学こそ、靖国神道に対置する哲学といえます。

「日本会議」は、見かけは大仰ですが、既に残骸と化しつつある「白日化したしたアナクロニスト達の夢」、いうなれば、生命力を失い、残骸と化しつつある「張子のトラ」がその正体です。

先ず日本民衆の生活感情、要求からかけ離れている事、アジア、特に中国、朝鮮らの民衆を蔑視し、敵視する思想、根底には、アメリカ民衆はおろか、アメリカ帝国主義とすら、深層において敵対する思想を持っていること。経済的展望などの絵図は、ほとんど持っていず、願望に過ぎないこと。この願望は、戦前ならいざ知らず、戦後現代では、本質的には全く空論なのです。

だから、彼等の外観だけを見ず、その本質を見極め、道理を尽くして、彼等のこけおどし惑わされず、批判してゆけば、必ずや、その残骸性はさらけ出せます。

妖雲状に、この日本列島に、20世紀末から、21世紀初め、漂っていたアトモスヒアは、決して結晶することなく、雲散霧消します。



塩見孝也