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反民主主義・反動勢力による
映画「靖国 YASUKUNI」
上映妨害を許すな。


民主主義の本質に関わる問題です


2008年 4月 4日

塩見孝也

1.
ことの経過について

若松さんの<実録・連合赤軍>の方に、気を配っているうちに、大変なことが起こっていることを、MIXI仲間から知らされ、調べ、コメントしようとしていたら、4月1日、各新聞で報道されました。

それは、映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題です。

報道によると、この映画は、4月12日、全国5館で、上映が予定されていた所、3月12日、自民党の稲田朋美衆議院議員らの提唱で、自民党議員が、大阪で試写会を催ようし、これがきっかけで、一部の保守系議員が騒ぎたて、これに呼応して、街宣車右翼たちが、上映予定館に押しかけていった。−−−これが経過のようである。

今回、「自粛」と称し、中止を決めた「銀座シネマパトス」が経営する「ヒューマックス・シネマ」は、「3月20日過ぎから、街宣車や電話で抗議を受け」、「お客さんの迷惑も考え、自主的に判断した」(3・27日)とのこと、これに31日、「Q− AXシネマ」が続き、結局5館全館が上映自粛を決めた、とのことである。

また、5月上映を予定していた、他数館も配給、宣伝を担当する「アルゴ・ピクチャーズ」と協議中とのことである。

この構図は、グランド・プリンスホテル・新高輪が、右翼の圧力で、裁判所の擁護にも関わらず、今年2月、日本教職員組合の教職員組合教育研究集会の会場使用を拒んだのと同じ構図である。



2.
映画について

●この映画は、我が国に、20年間在住してきた、在日中国人、李纓(リイン)監督が、10年近く、「靖国」を取材して、撮ったドキュメンタリー映画である。香港映画祭でも「最優秀ドキュメンタリー」の賞を取った。

この映画の評価は、観る人によって違うであろうが、皆さん、ネットで「靖国――YASUKUNI」を検索してくだされば、おおむねの客観的な評価はお分かり願えます。

そこでは、以下のような多数の人々が論評しています。是非、覗いてください。

田原総一朗(ジャーナリスト)、土本典昭(記録映画作家)、森達也(映画監督/ドキュメンタリー作家)、鈴木邦男(一水会・顧問)、アレクサンドル・ソクーロフ(『エルミタージュ幻想』『太陽』監督)、スティーブン・オカザキ(『ヒロシマナガサキ』監督)、野中章弘(ジャーナリスト、アジアプレス・インターナショナル代表)、古居みずえ(『ガーダ パレスチナの詩』監督)、綿井健陽(フリージャーナリスト、『Little Birds』監督)、小橋めぐみ(女優)、佐藤忠男(映画評論家)、倉本美津留(放送作家)、大場正明(映画評論家)、川村夕祈子(キネマ旬報編集部松江哲明(ドキュメンタリー監督)、梅山景央(「Quick Japan」編集部)、唐沢俊一(評論家)藤木TDC(フリーライター、)吉村紗矢香(CUT編集部)有田芳生(ジャーナリスト)―――ほとんどの人が映画的に見て、高い評価を与えています。


●映画の概要と監督の抱負は以下であります。
<映画は、軍刀の「靖国刀」を打ち続ける刀匠を中心に、小泉純一郎元首相の靖国参拝をめぐり、境内で、軍服で隊列を組み参拝する男たちや、星条旗を掲げて元首相支持を訴えた米国人に対する参拝者の反応、或いはA級戦犯合祀に抗議する台湾人遺族等の姿などを映す。>

李監督は<平成元年、自由な映画制作を求め来日し、約20年間、日本に住む。映画を通して「なぜ日本と他のアジア諸国の間で戦争に対する認識のギャップが残っているのか、問い掛けたい>と訴える。

制作のきっかけは、97年に、神社近くで開かれた南京事件(を否定する)60周年のシンポジウム。旧日本軍の映画が上映され、君が代とともに兵士が行進するシーンに、参加者が拍手喝采(かっさい)する姿に衝撃を受け、撮影を始めた、とのこと。

境内で首相参拝を批判した日本人青年が、賛成派から中国人と間違われ「中国へ帰れ」と暴行される場面も。

監督は「怖くて汗が止まらず、ピントがうまく合わせられなかった」と振り返る。

李監督は「靖国神社はアジアにとって重要な問題。人々がもっとよい形でコミュニケーションできるようにしたい。この映画は第二の故郷である日本へのラブレター。小泉元首相にも見てほしい」「靖国神社の空気をできるだけ静かに、先入観なく感じ取ってもらえるように、ナレーションは入れなかった」と話しています。>


●アジア映画人達の反応は?
・「―――はいうまでもないが、それ以上に、刀や菊といった国家の象徴がもつ意味を探りながら戦中及び平和な時代における日本の歴史を考え深く紐解く李纓の切り口は、慎み深く巧妙だ。観客から熱い反応を得た映画となった。(2007年釜山国際映画祭The Daily 10月11日号より)」

・「李纓監督の「靖国」は、議論の多いこの神社の問題に取り組んだ初めてのドキュメンタリーだ。日本で十年もの間、取材した結果、映画は靖国神社を巡り対比する様々な意見を描写する──過去の栄光な日々に思いこがれる右翼の活動家たち、それに反対する者たち、そして戦争の被害者たち。「靖国」は単純にこれらの異なる視点を並べるに留まらず、刀や天皇が象徴する意味を紐解きながら、日本人の無意識における靖国神社の意味を詳細に吟味する。(KIM Byeongcheol) (2007年釜山国際映画祭カタログより)」


・「この挑戦的で観察力に富んだ映画の中で、真実のインタビューや、生きている最高齢刀鍛冶が神社のために最後の刀を製作するといった素晴らしい記録的な映像を交えながら、最も日本的な神社を巡る戦争、信義、命、そして死の意味を追求する。(2008年サンダンス映画祭カタログより)」――――ざっとこんな具合です。



3.
「上映中止への圧力」の背景にあるものとは

靖国の「戦後レジームからの脱却」「美しい国」を唱え、戦前ファッショの復活を夢見た安倍普三の政権は、一年を経ずしてもろくも破綻しました。

しかし、この政権を押し立てた、親米・反アジアの反動ブルジョア勢力は絶命したわけではありません。

彼等は、臥薪嘗胆して、失地回復を目指し、おりあらば、大勢挽回の時期を狙っていたといえます。

沖縄民衆のデモの数合わせのいちゃもん付け、ウチナンチュウへの手榴弾供与による「皇軍」の自決要請の事実へのいちゃもん付け、或いは上記の、日教組教育研究集会の妨害、そして、今回の映画上映妨害である。

今回は、靖国問題であるが故に、自らの最後の精神的牙城を守るべく反撃に出てきているのである。

靖国は、その思想的見地からすれば、鳥羽伏見の戦い以来、「天皇崇拝―その赤子たる軍人、兵士―斃れた兵士、軍人たちが“英霊(カミ)”化し、祀られるところ」である。

「国家=天皇のために闘って死ぬこと−英霊化」この国家神道的図式は、他民族を侵略することの不正義、不道理を忘却させ、他民族を殺すこと、自己が死ぬこと、自分たちの愛する家族が犠牲にされ、死ぬことを忘れさせる、靖国神社神道特有の神秘主義的死生観である。

この死生観は、死ぬことを甘美する劇薬、毒薬といえる。もっとも反動的な、神秘主義のロマン主義といえます。

だが、ひとたび、この国家神道的宗教観の呪縛を脱却し、理性、唯物論に基づく思想、認識論、科学的世界観を持てば、戦争批判の見地が確立されます。

明治以来の戦争が、資本家、資本主義の侵略戦争、資本制帝国主義相互の利潤追求のための植民地強奪戦争であったこと。

一皮向けば、「超国家」主義者も、この利潤追求と一心同体であったのだ。そして靖国神社が、欺瞞に満ち満ちた、侵略のための死と殺戮に日本人、日本民衆を赴かせる装置として機能したことは明瞭といえます。

侵略戦争時代の悪しき世界観を、敗戦後も完全には清算しきれずに居る日本人に比して、外国人である李監督には、このことが透けて見えたのではなかろうか。



4.
上映妨害は、民主主義の侵害である

今回の事態は、映画を愛する人々にとって、特別に深刻な問題でありますが、それ以上に「思想・信条の自由、表現の自由」という民主主義の根幹を侵害する問題である、と考えます。

稲田朋美議員は、「伝統と創造の会」会長であり、この会は、もう一つの団体「平和靖国議運」(会長・位松寛衆議院議員)とともに、首相の靖国参拝を支持する議員の集まりである。

4月2日の「毎日新聞(朝刊)」によると、この両団体が、試写会の翌日の3月13日、文化庁の役人などを呼んで、合同勉強会をやりつつ、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てた装置だった、というイディオロギー的メッセージを感じた」と論評し、作戦として、形的には、「日本芸術文化振興会」の「助成金750万円問題」として、取り上げてゆくことを確認していた、とのことである。

稲田朋美議員は「文化庁(実際、出したのは、文化庁管轄の独立行政法人「日本芸術文化振興会」)が何故750万円の援助金を出したかを問題にしているだけで、表現の自由に介入するつもりはなかった」と弁解するが、氏がどういった政治的、思想的立場の人物かは元々明白である。

それがこういった「試写会をやる」などといった段階で、実質的に「検閲」「圧力」となるのであり、また、騒ぎ立てれば、一部右翼が動き出してこのような事態に発展するのは当然見通されることである。 それがわからなかったというのであれば、政治的、思想的立場とは別の意味で、議員としての資質そのものが問われるものである。



5.
今こそ、民主主義が問われている

今回の件は、民主主義においては基本的な問題です。自分の思想、信条と違うからと言って、相手を恐喝し、萎縮させて目的を達成するなど、はあってはならないことです。

民主主義の本質、ガイストを述べるなら、ヨーロッパのどこかの国の言論人が述べた、有名な言葉があります。

「僕と君は、政治・思想の面では、論敵であるが、若し君が、暴力などで、言論を封殺されようとするのであれば、僕は、その動きと命を賭けて闘う」−−−僕は、この姿勢、態度が、真の民主主義者の態度であると考えます。

民主主義を、最高に尊重し、徹底しようとするのが、左翼であるとすれば、先ずこの金言に忠実であるべきです。

「南京大虐殺がなかった」という映画が、創られたとしても、左翼は、その映画の自由な上映を保障し、決して暴力で、その上映を抑圧するようなことは、決してしてはならない、と思う。

言論で、その主張を批判するにしてもです。

又、右翼を自称したり、保守を自称したりする人でも、この金言を守る人は、僕は、その人を民主主義者と思い、尊敬します。

しかし、今回の稲田議員らの態度には、こういった、言論、表現に対する慎重な態度は、ほとんど見受けられません。

街宣車右翼には、こんな態度は、片鱗すらも見受けられず、無法者のやくざと変わらないような、暴力をひけらかした恐喝者の態度が見え見えに感じられます。このような、わが国の文化的土壌こそ、しっかり反省され、革命されるべきと思います。

「言論には言論で」という民主主義の基本ルールさえ理解できない人たちによる圧力や恐喝行為に屈して、むざむざと映画館側が「自粛」してしまうようなことに追い込んでいってはなりません。

李監督に鼓舞されてか、日本映画監督協会の代表、催洋一氏を始め、諸、心ある監督たちは奮起しつつあります。

我々日本民衆も李監督に習い、愚かな恐喝行為などに負けず、映画上映を、映画を愛する人達を一つの特別の核にしつつ、団結して、勝ち取ってゆかなければなりません。

4月上映は、残念ながら「反民主主義・反動勢力」によって、自粛せしめられました。

しかし、5月に予定されている上映は実現されるよう、我々民衆側は反撃してゆかなければなりません。



塩見孝也