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朝日新聞社・最新刊
若松孝二「実録・連合赤軍―あさま山荘への道程(みち)」について


2008年 3月 9日

塩見孝也

関西のI氏から、僕の「パトリ」論に集約される、民族論とそれにまつわる戦術路線に関して、批判的評注がなされました。

 括弧つきながら<転向>(「マルクス主義からの」?、あるいは一般的な「転向」?)という言葉も盛り込まれており、きちんとした、説明の必要を感じます。

一般に、左翼の中には、“民族”を語れば(別の言葉で言えば、“国民”を語れば)、<左翼からの逸脱>、<マルクス主義からに転向>といった、牢固たる偏見があります。
これも、その一種です。

 確かに、「階級と民族」、「階級と国民」の問題は、左翼の根本的テーマではあります。

しかし、この問題を逃げて、<階級>ばかり、語っていても、何も進まない、そして、今後も、投げ出されてくる、この問題に、何の対応もできず、左翼の無能を天下に晒すだけになってゆくことは、必至であると僕は思っています。

問題は、“階級”を踏まえ、前提にした上で、“民族をどう語るか”だと思います。

そして、両者を繋ぐ、コンセプトが“人間の自主性、(創造性、意識性)”だと、僕は考えています。

僕は、この問題に、実は、出獄してから、ずっと取り組んできました。

否、実は、僕自身の思想の根元、赤軍派のロマンチシズム(良き意味での、ロマンチシズムにもいろいろあります)を考え続けて以来のことです。

そして、これは、カストロ(やゲバラ)やフランツ・ファノン、毛沢東らアジアのコミュニストの根元にある、愛国者思想(今は、それをパトリオティズム、とはっきり、意識化されて、命名しています)に70年闘争で接して以来、意識化されて来たのでした。

日本近代では、西郷隆盛の思想に収斂してゆきました。 

人間には、いくつもの顔があります。

僕は四つの顔を持っています。これは、「幸福論」でも、明らかにしました。

一つは、民衆主義者(資本主義批判からする、プロレタリアートら人民大衆中心主義者)の顔です。

二つは、人間自主主義を基本的立場とする、人間主義、民主主義者の顔、平和主義者の顔です。

三つは、1,2を土台とする“パトリオット(「愛国者」)”の顔です。

四つは、人類主義者の顔です。

I氏との議論は、その顔の三つ目に関することであったわけです。

この問題は、マルクス主義者と名乗る人々、潮流、或いは、第一次ブント、第二次ブント系の人々が、、この立場を、現代にどう適応させてゆくか、現代、あるいは、現状、そこにおける民衆の状態をどう見てゆくか、いうなれば、こういった過去の立場を、どう総括してきたか、において、避けて通れない問題でもあります。

僕からすれば、僕がこういった問題に、これまでどう対応してきたかを示してゆける、良い機会と考えます。それで、一文を書きました。

T.
僕は、非転向の階級闘争の最前線に立ち続けてきた、(自主)革命家マルキストです。

一度もこの道から、はずれ転向したりしていません。
 但し、僕の<マルキスト>規定は、マルクス教条主義ではなく、<幸福論>で、展開しているように、階級を構成する、諸個人の個性、自主性の要素を、決定的に強調するものです。

 このことは、<幸福論>で、詳しく展開していますように、「<マルキスト>であって、<マルキスト>でない」「マルキストでない様でマルキストである」とも自称する、マルクス思想の“脱構築主義者”を意味しています。

 以上を踏まえた上で、僕は「括弧つきながら、<転向>などのレッテルを貼ってもらっては困る、といっておきます。

 1、僕は、一貫して、マルキストのコミュニスト(社会主義者)の革命家です。
 天皇制(国体論)、あるいは、戦前侵略戦争を、ただの一度も美化したり、支持したりしていません。

 2、「「資本主義批判―プロレタリア階級解放・社会主義革命」、「世界同時革命、世界社会主義、世界党―――」ら「過渡期世界論」の見地、「日本帝国主義打倒!社会主義革命!」の見地に立ち、このコミュニストの最大限綱領に従って闘ってきました。

 政治上の「過渡期世界論」を(そのベースの思想面、理論面を、「再構成」、「止揚」の見地で、“脱構築”しつつ)守ってきました。一度も否定、清算したりした、言辞を吐いていません。

 この辺、僕に対して、「資本論」を、付け焼刃的に勉強し、「転向して、民族主義者になり、今度は、民族主義者からマルキストに転進した」なる見解があるようですが、僕の「資本論研究」、理解は、年季が入っており、遠く、1973年の連赤事件以降、文章に現れ、「プチブル革命主義からプロレタリア革命主義へ」の思想問題として、「塩見孝也論叢」の1号から9号まで、その集約としての10号の<プロレタリア革命派>の綱領の原則部分として展開されても居ます。

 この点は、プロ革派の外の指導者であったS君など、よく知るところでしょう。
 「資本論研究」は、テクストみたいなものも書き、ずっとそれ以降も続けられています。

 これが、非転向の背骨になっているのです。

 最近、出獄して3度目ぐらいですが、若い人と約一年間、月、一回のペースで、12回掛けて、<資本論研究>をしていますが、その前に「縄文研究会」でも半年掛けてやって降ります。出獄して。すぐに、<マルクス主義青年学校>でもやっております。
 こういった蓄積、素養がない限り、すぐにネグリ<帝国>の書評など書けるわけがなく、また<グローバル帝国主義論>の基本骨組みなど、提起できません。

 3、僕は、投獄されて20年、一貫してマルクス主義を堅持してきまた。非転向を貫いてきました。

 獄中の未決13年半も、激烈な日本帝国主義権力との、激しい、連続した、公然たる戦いをやってきました。これは、天下周知のことで、「獄中記」に記してあります。
 基本的な、闘いの対象を、この時は、天皇制に置きました。
 特に、下獄して、一人で闘わなければならない、一番困難な時、階級敵の転向攻勢の「厳正独居」攻撃に、獄中で、一人で(外の「塩見救援会」に支えられてのことですが)、信念に従って、不屈、非妥協的に闘い、勝利しました。 

 ここでも屈しませんでした。

 この獄中闘争の締めくくりに位置する闘いで勝利し、マルキストとしての背骨があることを示したし、より強い、背骨をなして行きました。 20年間の、獄中闘争が、僕の非転向マルキストの背骨を作ってきました。

この点、どれほど、獄中での非転向闘争が、つらく困難か、あなた方は、ほとんど理解できていません。

 いま、出されている問題は、I氏については知りませんが、転向者が、非転向者に、「転向だ」となん癖を就けているような、全く、逆の構図になっていることを理解しておいてください。

 僕は、宮本顕治のように、非転向を売り物にしたくはありませんが、こういった構図を、出すなら、こういった、監獄での、闘いがあったからこそ、信念と自負を持って、出獄後、発言でき、行動できたと思っていることも強調せざるを得ません。(この辺は、僕の、新泉社出版の「封建社会主義と現代(塩見孝也獄中重要論文集)」の諸論文、特に「投獄15周年論文」や<風雪>各ナンバー、そして、「監獄記」(オークラ出版)の第一章「監獄武勇伝・厳正独居物語」を参照してください)

出獄して、一貫して、プロレタリア階級の一員として、活動し、ただの一回も、資本家経営者の立場、地位についていない。資本の管理者、手代のような地位につくことも拒否してきました。

ずっと、貧困ながら、常時、マルキストのプロレタリア(自主)革命家として、階級闘争の最前線で活動してきました。

僕等の世代や上の世代、すぐ下の世代で、このように長期にわたって活動してきた人は、極く、極く、少数ではないでしょうか。

しかも、僕は、逃げ隠れせず、元「赤軍派議長」の看板を掲げて、そうしてきました。これは、自ら進んで、階級闘争の最前線で、闘うことを意味します。

「最前線」は、いろいろありますが、僕のいうのは、いつも衆人環視の中にあるから、思想の根本を、見守られ、点検されているということが、僕の場合は、主要な意味です。

この看板を掲げ続けることは、権力を中心に、4方8方から集中攻撃をうけ、極めて多種多様な困難を強制され、強い決意、覚悟、闘争心が必要です。勇気とともに、しっかりした、革命理論、路線に裏打ちされた、冷静な判断力、叡智も必要です。

生活は、これに対応すべく整除されていないと戦えません。

又、そうすることは、必然的に、思想・政治世界、理論闘争の世界で、厳格さと激しさを問われ、階級闘争の最前線におのずから立たされてゆきます。

僕は、こういった自分の置かれている位置を百も自覚しつつ、こういった攻撃と、激しく、非妥協に戦ってきました。

4、僕が、どんな事態にも対応して来、適当な発言をしたり、必要な自己批判を公にできるのは、こういった思想的、政治的営為、生き様を貫いてきたこと、この蓄積、自負心、信念に基づくもので、知識(知識は十分あるが)やおべんちゃら、年齢の役得を活かす、適当な調子の良さ、などに基づくものでは決してありません。

こういった水準では、発言も自己批判もやれません。

 I氏に、重ねて言います。「転向」など、括弧をつけてでも、言ってもらっては困ります。
U

カバーの扉を開けると、銃を持った「連合赤軍」の青年兵士達の夜間の雪中行進のシルエットが、赤地のページ一杯に、浮かび挙がってゆくように、黒で描かれている。壮観と言える。

次ページは、森恒男君の坂東国男君宛の遺書の抜粋である。 天蓋孤独に、逝った、彼の悲愴感が漂っているページである。
日付は1973年元旦である。


吉野忠邦君の手紙が掲載されている。日付けは2007年11月26日となっている。

当事者の事実関係の報告としては、彼のが、これまでで、一番精確ではなかろうか。よくまとまってもいます。さすがは、30数年後の報告である。何箇所も、知らないことが記されているのに、僕は驚かされました。

彼の中に、これまで渦巻いて、複雑に絡まりあった情念が、カラッと浄化、昇華されていることが分かります。

さすが、獄中36年である。

冬枯れの清澄な空を思わせるような文章である。


次が坂口弘君の短歌の紹介である。

「常(とこ)しえの道」と題して、短歌の名手として、既に評価が定まっている 最近の坂口弘君の短歌が17点掲載されている。

これを、読めば、今も尚、彼の、この事件を凝視し続け、煩悶し続けている姿、誠実さが、ストレートに伝わってきます。

彼や永田さんへの死刑は、なんとしても食い止めなければ、ならないと誰でも思うでしょう。

指導者を憎みおれども 第三者の彼への批判は不愉快になる。

この気持ち、痛いほど分かります。森君は、自決して逝ったが故に、その後、本当の彼の仲間、同志となっているのであろう。

これが最後、これが最後と思いつつ面会の母は85となる。
  
坂口母子のひっそりと睦み合って生きている姿が、僕等の不甲斐無 さとともに、胸に押し寄せてきます。

彼の慙愧の念の火炎は、今も胸に渦巻いています。凄絶な彼の火炎をなんとしても受け止めてゆこう、と思いました。

新左翼運動を誰一人として総括せぬ不思議なる国。

これには、僕にも、突き刺さってくるものがあります。

赤地の二ページにわたって、掲載されているこの歌群は、なんと凄絶でしょう。

無期の吉野君と違って、坂口、永田両君は、今も死刑攻撃と真正面から対峙する苦行僧として生きているのである。

権力者達を僕は憎む。


「1960→1972―<連合赤軍>全記録」は 「前史」、「発火」、「炎上」、「野火」、「鬼火」、「織火」、「硝煙」、「業火」、「銃火」の構成であるが、これを見れば、この3時間半の大作が戦後現代史のアウトラインを民衆の側からくっきりと描き出していることが、誰の目にも明かになります。

構成、文を担当したのは掛川正幸氏である。氏等とはこの間、付き合うようになったのですが、この各節ごとにはめ込まれている彼の解説は、いろんな論点を網羅して、沢山の僕の知らないような事実関係を、細かいところまで含んで、紹介しつつ、展開されており、見事で、彼の透徹した目を感じさせます。

本当に、事実関係を良く調べ、沢山の本を読まれていることが分かります。

12ページから138ページですから、126ページですが、写真が主ですから、息もつかせず読ませてくれます。これで、この映画の志向した時系列に沿って、「事件を時系列で、正攻法で追う」、と言う若松さんの正攻法論が、補強されていると思われるし、本自身ににも、骨が通されている、なと思います。

時系列で描く、正攻法は、観客に理解してもらう定石なのですが、凄くエネルギーと根気の要る大変なことなのです。


特別寄稿は、各方面、各界のこれは、と誰でも思う人が書いておられます。この寄稿が、上述の「全記録」に、巧みに織り込まれています。

お読みになれば、この事件に、これらの人がどんな想いを持っているかが分かります。前沢虎義氏のが印象に残りました。

彼は連合赤軍兵士で、あの「地獄」の「山」から、「逃亡」し、長い獄中闘争を経て、現在「連合赤軍の全体像を残す会」で活躍しています。雪野君、キム君、故人となったM作戦兵士、関君とともに、僕の仲間です。

僕の「迷妄の霧が晴れるとき」が、トップに掲載されているのは、光栄でもありますが、汗顔の至りでもあります。


「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程、撮影の全記録」はメーキングの過程を報告したものであるが、オーディション風景から始まり、若松門下として、映画撮影の修羅場に突入し、わずか3ヶ月で、仕上げてゆく過程が、写真つきの日記で報告されています。

監督は、昔から、早撮りの名人と言われていました。それは、そうでしょう。ピンク映画に、数ヶ月、半年も時間を掛けるわけにはゆきません。

こうして、若松さんの叱咤激励の下、青年達が、「若松組」として、如何に、鍛えられて行ったかが良く分かります。 映画好き、映画つくりを志す人には、堪(こた)えられない箇所ではないか。


出演者のメッセージは、森君役、永田さん役、坂口君役、吉野君役、遠山さん役、重信さん役、加藤三兄弟役、塩見役ら事件の主役を担った人々を演じる俳優さんたちの写真入りの一口メッセージの掲載となっている。

これを、呼び水としつつ、この映画に出演した全ての人々、全員が、満遍なく紹介されています。

僕は、これで、うろ覚えであった寺林さんとか杉崎さんとか、他、数人の人の姓名を確認できました。

この、メッセージは、世代の隔たりを感じさせるも、同時に、この映画作りに参加した、若い人達が、歴史の空白を埋める重要さに気づき始めていることも感じさせてくれました。

たまたま、森君役、永田さん役を担った地曳豪君、並木愛枝さんにはお会いしましたが、良い青年達と思いました。

僕の役を演じてくださった坂口拓君のメッセージも読ませていただきました。

「塩見が、えらくハンサムに描かれている」と言うのが世間の評判です。

僕だけは、例の思い込みで、「俺の方が、もっとハンサムだった」と、密かに思っているのですが、どうも誰も認めてくれないようです。

とにかく坂口拓君には、機会があれば会ってみたいものです。


「トーク・バトル」では、昨年12月のことです。監督、植垣君、平野悠さん、 僕の4人のトークとなっていますが、これは、前の日記でも解説したとおり、僕と植垣君のバトルの論争になっています。

テニスなどの試合でも、試合が好試合になるか、否かは対戦の組み合わせ次第、と言われています。

どういうわけか、試合の序盤から植垣君が突っかかって来る様な態度だったので、こちらも高慢の鼻っ柱を、先ず、へし折っておこうと思ったのです。

僕としては、この章は、この事件を如何に見、如何に総括するか、ですから、自分の思うところを歯に衣着せず展開しました。

多少とも、植垣君をやっつけ過ぎ、のキライ無きにしもあらず、ですが、ここのところは譲れぬところと、判断しておりました。

次の「日本外国特派員協会」でのトークでは、彼はおとなしくなり、それなりに気の利いた良いことを言うようになったので、僕も和気藹々で対応しました。

前回の試合が、好試合であったということでしょう。


「ジム・オルークの道程」の章は、監督を慕い、この映画の音楽部門を担当した、アメリカ人の青年、オルークのインタビューです。

才能ある、素晴らしい音楽家のようですが、僕は、それを聴き忘れ、思い出せません。

今度の時は、しっかり聴きますが、彼は、前の晩に、監督がこんな音楽にしてくれ、と注文が来れば、一晩でメロディーを作り上げ、監督のイメージを際立たせてゆく、とのことでした。


平沢剛氏が、若松映画の軌跡を、専門的だが、分かりやすく解説し、この映画が監督にとっての集大成的位置を担っていることを解説しています。映画好きには、欠かせない章と思います。


「それでも、僕は若い奴等を信じる」は、若松節の独演ですが、素晴らしいものです。読んでください。

監督が、財政に逼迫し、壊し、燃やす「浅間山荘の建物らセット」が、準備できず、結局、秋田にある監督が10数年使用してきた別荘を、浅間山荘に擬したエピソードは書き落とすわけには行きません。

それは、秋田県の県境、大崎市鳴子町の鬼首(おにこうべ)というところに在るとのこと。ここが、最重要のロケ地になったわけです。

映画から伺い知れる、この地域の風景は、「連合赤軍事件」を映像化するに当たって最適の地であったように思えます。

僕は、この「鬼首(おにこうべ」という、語感が気に入りました。

もう、その別荘は影も形もありません。壊され、燃やされてしまったのですから。それほど、監督が、私財を投げ出しても、この映画製作に賭けていた、気魂を示す事柄でしょう。


特別附録として、この映画の台本が、附録されています。

この台本は、映画に関心を持つ人には、極めて有用と思います。
僕は台詞がどう吐かれ、脚本がどう作られるかで非常に興味を持ちました。
 
映画は、前持った予習抜きに観ることべき、と言う意見もあれば、きちんとした予備知識を持ってみるべき、と言う意見もあります。僕は後者なのですが、この本は、いずれの立場をとろうと、重要と思います。


塩見孝也