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66歳にして労働の意義を知る。

2007年 12月 30日

塩見孝也

僕は、働き始めています。この12月からです。

正味、9日か10日ぐらいですが、これが一ヶ月の基軸となり、活動、生活が回りますから、リズムが出来ます。

清瀬市のシルバー人材センターのお世話です。

場所は、前回報告しましたように、清瀬駅前の「西友清瀬店」の、「クレア市営駐車場」です。

一日、土、日、祭日は800から千台出入りします。この管理です。

地下2階から、6階屋上まで、駐車券をもらい、お金を回収すること。車の出入り、駐車中の車の管理、屋内での車の登り、降りの交通整理、出入り口の扉の開閉、鍵の使用、業務報告、回数券の販売、金の計算らです。

これを、朝、昼、晩、三交代で、一日、一班、5人の計、三班でこなし、計、6班、30人で、一ヶ月をこなします。

要は、いろんなスーパーや百貨店の駐車場で、皆さんが、よく見かけたり、そこへ、皆さんが車で出入りする時、遭遇する要員のおじさんの一人というわけです。

家から、自転車で15分、マー「職住一体」のバイトに近い仕事です。

時給1000円、月、9日から10日、平均4、5時間というところ。僕は、この仕事を、かなり長くやり、これに、他の仕事を組み合わせる生活・労働プランを半年ぐらいで確立しようと思っています。

こういった、仕事が、今の僕には、どうも合っているようです。 気に入っているから不思議です。
  
出獄直後は、本気で予備校講師ら、定職を得たり、資格を取ったりし、市民社会内部に定着しようと、若干の努力はしたのですが、警察・体制側からクレームがいつも入って駄目でした。

それに、僕の周りには、年から年中、事件が発生し、奔走せざるを得ないのです。悠長に、定職について、生活することなど、ほぼ不可能であったわけです。

だから、僕が定職に就かなかったのは、僕の経歴からする、脅迫観念に近い、倫理的慾求が、実は本当の理由であったのです。

「赤軍派始末記」でも述べましたように、「自分は“半分、市民社会の足を突っ込めるが、後の半部は、そこから、足を抜いてしか生きられない存在だ”」こういうことでした。

一つは体調、年齢、二つは、革命家を看板に掲げ、カンパやメディア、文筆らの収入で、活動に専従することに気が進まなくなったこと。 結構、効率良く、一応の収入を得ていたわけですが、自己労働による比率は少なかったし、<俺は自活能力が果たしてあるのか>と時折、不安に陥る始末でした。

それで、自前で労働して、それで、自活できる能力を習得してみるのも良いと思ったわけです。

その代わり、文筆、理論・思想活動―――は、今後もっともっと力を注ぐつもりです。

僕は、学生運動を始めて以来、友人、「学友」、活動家に肩たたきで飯を食わしてもらったり、塾講師をやったりし、入獄前は生きてきました。

ブントからの専従費は、一度3千円もらったきりです。基本的には活動家への寄生だったわけです。

出獄し、これは、社会勉強が目的でしたが、半年ほどガードマンをやったり、土方をやったり、予備校の現代文・論文科の校正・添削をしたりです。

その前は、ご承知のように、懲役労働で、20年間、国家に扶養されて生きて来たわけです。

出獄し、段々、雑誌、新聞の原稿料、講演費、本の印税、取材費、テレビ出演らで、生活の糧を得るようにはなりましたが、困った時は、「緊急避難」で、支持者、友人、知人からのカンパやカミサンの世話になる構造でした。

しかし、「文筆」、「評論家」業といっても、のべつ隈なく、仕事を探し回るつもりはなく、カンパも定期的、系統的に集めてゆくやり方はしませんでした。

そういうやり方が好きでないのです。流れてきた時、自然に回ってきた時、仕事をばたばたとこなすやり方で、「熱心に仕事をしておれば、収入は後からついてくる」というような考え方を僕はしておりました。

どう見ても<武士の商法>といったところです。

要は、僕のこれまでの生涯では、「民衆に奉仕する」というより、民衆、人に寄生すること、どっちかというと、「奉仕される」方が、主で、自前の職業的な正規労働はしてこず、自前の生活能力などほとんどなかったのでした。

情けないことです。

良く、これで生きて来れたものだと、つくづく、感心します。

これを「在家、檀家の信仰ではなく、出家信仰をしている托鉢僧だ」と仏教にたとえて説明したり、本当の「疎外されない労働をやっている自由人だ」と嘯(うそぶ)いていました。

「政治〈<“革命闘争”>〉に集中しておれば良い」、そう自分に言い聞かせ、割り切って生きてきたわけです。その分だけ、民衆運動には、格段に集中してきたつもりです。
 
しかし、組織建設については、もう一つ、レーニン主義の<何をなすべきか>の組織論は、肌に合わないところがあるのでした。

僕は、運動大好き人間の“自主革命家”を自認して来ましたが〈これは、生涯、そのつもりですが)、「党革命家」、いわゆる「職業革命家」ではありませんでした。

勿論、革命党の展望も否定しているわけではありません。主客の情勢から、必要なら、僕も、「党革命家」にもなりますが、それは、それを構成する人々の自主性、(とりわけ、その人々が、民衆とごれだけ、緊密に繋がり、民衆にとって必要とされ、信望を得ているか、における}の最大限の尊重が前提とされます。

今は、ネットワーク、フォーラム運動を介しつつ、何よりも運動を盛り上げ、必要とされる、理念、思想、路線、諸政策を確立して行く時期と思います。 或いは、その中で、鍛えられ、リーダーシップを発揮しえる多数の前衛に、過去の闘いを反省、総括しつつ、各自、自らがなりつつ、主眼は、後継の若い人々を、その方向に育ててゆく時期と思っています。

もう一つは、理論的、思想上の分析が好きで、思想、理論活動は大好きでした。
 
考えてみれば、随分と野放図で、社会ら見れば、信じられないほど奇矯で、畸形的な生き方をして来たのでは、なかったでしょうか。
 
僕は、病気をし、2ヶ月ほどでしたが、こういった、これまでの生き方を点検してゆく機会が得られたように思えます。

一つは、年齢、そこからする体力の問題だったでしょう。老後のことなど、全く考えてこなかったのです。

それに、この年齢で、信念も在る人間が、人に寄生しているのはどうか、と言うプライドの問題も頭をもたげてきました。

それよりは、贅沢はもともと望んでいないのですから、自己労働をきちんとやり、自前で生きる算段をしようと思ったわけです。

世間の労働者、庶民が、ある面で、ミミッチク、「せこく」やりくり算段しつつも、独立・自主、自分で生きるようにすべく、<俺も若干の生活の知恵を身につけ、そうやろう、活動はそれと両立させてできる、十分、両立させる、>と考えたのです。
 
家族は、大賛成でした。
 
本来なら、と組合書記の口も探しましたが、昔と違い、どうも経歴から無理そうです。ヤン・ソギルのように運転手をやろうと思ったりもしましたが、免許を4〜5年前失い、それに不器用な僕ではとても無理と思いました。

もう、一つは自営の農業、“文化”としての「農」のことも考えました。これは、未だ調査、研究中です。

資格を取ることも考えました。今も考えています。しかし、あくせくしない労働、職業の、です。
 
こんな時、会社をつくろうとか、どこそこの会社の顧問の話などもありましたが、僕はこういった話は峻拒します。

僕は、そこが、どんなに進歩的であろうと、企業家、経営者、つまり、資本家の方面は、僕の思想上、生き方で無理なのです。

自営業、協同組合までが限度です。

賃金労働者なら、<職業に貴賎なし>で、どんなものでも、本来OKですが、上記は、価値観、生き方、思想として許容範囲を超え、僕の戒律に反しているからです。

僕の友人、知人、かつての同志達は、70年闘争後、企業戦士になり、社長業などで成功している連中はごろごろいます。

未だ、民衆運動に理解があったり、運動に参加している人もいたり、で、人間的には友人でもあります。

しかし、政治、思想上は、同化するつもりは全くなく、終始、批判的です。

経営者で、<改憲阻止の会>など、ともにやる人、そのほかで、僕を応援してくれる人、よき人は沢山にらっしゃいますが、階級基盤が違えば、やはり考え方も違っており、この点はシビアーでないと、こっちが「自由主義」に感染してしまいます。

やはり、賃金労働者には、マルクス主義、コミュニズムが一番合っていると思います。

しかし、これらの人々が、僕の思想的、政治的立場を尊重してくれると、関係は上手く行きます。一種の階級間の統一戦線で、ヘゲモニーをこちらが取るということですから。
 
「職住一体」が気に入っています。仕事が終わって、都心に出たり、図書館に寄ったり、自転車で往復できます。

労働仲間は、みんなこの町の人、半数は土地の人で、年齢は、上の人が多い、と思います。みんな、素朴な人のようです。

市から委託された半官半民の請負業者の会社から、管理に来る人を除いて。
 
仕事は、病み上がりだったので、やや立っているのがつらい程度です。

班長などは、金の計算などがあり、面倒そうですが。いずれ、持ち回り制ですから、やらされます。

監獄では、徹底して「役」は、拒否してきましたが、今度はそうも行かなさそうです。

この労働は、いわゆる物を作る生産的労働ではなく、サービス業といえます。いわゆる、ある種の接客業といえます。

マー、単純労働、といえますが、ここでも労働規律は必要で、軽視できません。協同労働をスムースに行う必要から生まれます。

この規律は、労働の性格に伴うもので、ちゃんとやらなければなりません。

これは、「資本の専制」に隷従することとは違います。勿論、この職場でも、賃金奴隷制、搾取の論理は働きますが、非常に緩やかで、許容範囲です。

僕のことは、センターや会社の方は把握しているかもしれませんが、――分からない―――たいしたことはありません。公安はしっかり、イの一番に把握したでしょう。

仲間は、少なくとも知りません。そうなれば、そうなったらの時のことです。

知り合いの市会議員には、僕のことは話して置いたら、「それこそ、私の出番でお役に立てる時です」と気負ってくれました。

それにしても、仕事の最中、足指でジョキングをしたり、股上げをしたり、足の腱を伸ばしたり、柔軟体操を目立たない程度にしたりします。スクワットもします。

地下2階から、6階まで往復したりで、結構、健康、体力が回復してゆきます。
 
高校の頃、サッカーで右膝をけられ、寒くなると痛むのですが、刑務所では、運動の際、ジョッギングをやり、膝の筋肉をつけてきたのですが、出獄し、そこのおわんを割り、敏捷さを欠く状況でしたが、もう一度、この運動で治癒しようと思っています。
 
何よりも、一ヶ月、一週間、一日の生活のリズムが出来てゆくのが嬉しいです。

今まで、余りに自儘すぎて、全て自分の算段で、決めてきました。  それは、刑務所の延長で、頭のてっぺんから発想する超観念的な組み立てでしたが、こうなると半分ぐらい決まってくるので、生活、労働、活動が自然に整ってくるのです。

これが、良い、と気に入っています。

塩見孝也