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なぜ「連赤事件」は起こったか

2007年 12月 25日

塩見孝也

去る12月15日(土)深夜24時に、「テアトル新宿」にて、若松孝二監督の<実録・連合赤軍>の試写およびトークの集まりがありました。
以下の文章は、それに先だってmixiの日記にアップしたものを、ホームページ用に若干書き直したものです。


連赤事件での僕の真相―原因追及の基本観点とは?

特に、この事件につきましては、外国の革命運動の経験(毛沢東思想、中国共産党の、「粛清」を肯定するスターリン主義の)を無批判に、我が国に持ち込み、それをそのまま実行しようとした特殊な要素、日本民衆運動の悪しき伝統、外国権威・権勢盲従の問題があることを強調しておかなければなりません。

連合赤軍事件は、反スターリン主義を掲げる赤軍派、ブントら新左翼と、スターリン主義を、6分4分で肯定する毛沢東思想派の路線、思想の違いを抜きにして、軍事至上主義を掲げ、スタ―リン主義思想を採用し、野合し、「新党」を作ろうとしたことから発生していること。

スターリン主義に基づいて、野合「新党」反対派を「粛清」し、殺してしまったこと、これが真相です。

単なる軍事至上主義ら急進主義だけで、あんな事件は、とても発生しません。

決して、世間一般で流布されているような、「無謬の強い<新党><指導部>を自称する人々が、弱い、矛盾だらけの同志兵士を、「強い」「赤軍兵士」にしようとした、格好良いように見えるが、実に嘘っぽく、胡散臭い、「思想鍛錬運動」、つまり、いわゆる、「共産主義化」から生まれたものではないことがはっきりされねばなりません。

実際は、自己保存本能、保身・保命衝動に拝跪し、「スターリン主義が、本当の革命思想だ」と、錯乱、盲信したこと、それと、軍事至上主義の「銃による殲滅戦」と祭りあげ、<新党>をでっち上げんとする、邪で、インチキな組織戦略があり、その手段として<共産主義化>という、同志支配、指導者独裁の方策を捻出していったわけです。

特別な、要因が働かない限り、こんな事件を科学的に説明することは決して出来ません。

まことに僭越至極ですが、どうしても、僕は、これまでの歴史的経過、そして、民衆運動が前進してゆくために、きっちり、過去を決着付けなければならない意味合いで、以下の如く言わざるを得ません。

「多分、僕以外に連合赤軍問題を、全体的に解明した人はいないと思います。 」と。

革命左派の代表、故川島豪さんは、スターリン主義と毛沢東思想を信奉した上で、路線の違う政派の、軍事至上を掲げた「野合」「新党」結成に走ったことが基本原因であった、と部分的に、事件の真相に迫りました。

「銃撃戦と“粛清”と」〈序章社)を参照してください。

しかし、スターリン主義を内包した毛沢東思想とそれに無批判に盲従した自ら自身の問題〈2名処刑は、革命左派の時期に発生した)や自らの軍事至上主義の総括には踏み込みきれていません。

この事件が、スターリン主義思想の肯定から発生していることを、僕はこれまで、言い切ってきたし、今回もはっきりと強調します。

この辺の、僕の連合赤軍事件の認識、総括のアウトラインを明快に説明するためにも、簡単にここで触れておきます。



<同志殺し(同志粛清>と銃撃戦、―――その本質と経過について

この「共産主義化」は、上にかぶせられたベール、カムフラージュであり、この事件の真の原因は、野合「新党」を、監獄にいた、僕等赤軍派指導部や、革命左派指導部に隠れて、こっそりと、永田さん、森君が無理やり作ろうとして、野合ー「新党」結成に反対する人々を、スターリン主義特有の恐怖政治、粛清、殺し、で意識的に抹殺したこと。

スターリン主義思想を正当と考え、分派ー私党の「新党」でっち上げの権力闘争(指導権闘争)を行ったことから発生したものです。

こう、その根底的にして、しかも直接的な動機を、スターリン主義とその思想、その党至上、実は指導者保身の指導者至上、指導者専制の粛清肯定思想に設定しない限り、この事件は説明つかず、全く非合理な、つぎはぎだらけの説明しか出来ず、民衆運動の可能性を閉ざし、暗くして、混乱させてゆくばかりになります。

こう問題をこう捉えれば、カンボジアのポルポト派の悲惨な大規模な粛清事件やその他の毛沢東思想派の残虐な事件、或いは中国本土の文革期の大量な粛清、つるし上げ事件、或いは、朝鮮戦争、第一次安保闘争期の、日本共産党が受け入れた「51年綱領」に基づく中国式武装闘争路線の採用から発生した諸事件、 戦前の「32テーゼ」に基づく敗北やこの種の事件ら、一連の民衆運動の権力闘争を挑むか、否かの、日本民衆の自主性が問われる危急存亡の際の、自主性無き、対外盲従作風から発する日本民衆運動の負の遺産の伝統の一環であったことは容易に明瞭になり、極めて明白な説明がつきます。
 
粛清思想は、赤軍派やブント運動には無い思想です。ブントや赤軍派は、このような悪しき思想、作風を批判して誕生した組織です。

ところが、永田さんは、2名処刑の「実績」をもって赤軍派の一部の森君に、これを承認させていったのです。 
 
この経過は、京浜安保共闘派が中国式「遊撃戦争路線」を実行し、孤立し、山岳を革命「根拠地」と錯覚し、そこに基地を構え、そこから「逃亡」した2名の人を、この秘密の発覚を恐れ、「スパイ」と称し、抹殺したこと、これが、この事件の発火点、導火線といえます。

この決定的過ち、弱さを、永田さんらは、「革命的行為」と逆に正当化し、これを赤軍派の一部である森君らに持ち込み、合流し、「新党」を結成しようとしたわけです。

赤軍派の政治、思想、軍事路線は、京浜安保共闘派のような「反米愛国」の中国式二段階路線「民族民主主義革命から社会杉革命へ」に基づく「農村から都市へ」の路線とは、全く違う、社会主義革命、都市プロレタリアートに立脚する「都市ゲリラ戦争」路線であり、両者の路線は、思想、政治、軍事の全てにわたって違っていたわけです。

だから、赤軍派の圧倒的多数は、「合流」に反対であり、京浜安保共闘派も同様に反対であったのです。

「新党」などは、全くの論外で、ほとんどの人が、夢にも思っていなかったのです。(「過渡期世界論」「世界同時革命」路線を捨て、毛沢東思想「反米愛国」路線に、監獄で転向した花園君や松平君を除いて)
 
最初の「粛清」は、京浜安保共闘派の獄中指導部の川島豪君の野合、「新党」結成反対の意見書を持って山にいった、加藤能敬君ら3人の人々と、「軍事訓練をする」と言われ、騙されて、山に行った、遠山さん等獄中赤軍派指導部に連なる人々が、「共産主義化」の槍玉に挙げられ、殺されていっています。

それからは、悪無限的な、永田さん、森君の権力防衛・「強化」の殺しの連続で、理由などあったものではありません。全くのこじつけです。
 
銃撃戦は、決して、(「(同志殺し」や「野合新党」を、自己批判、批判したものでもなければ、これまでの歴史的諸経過からして)支持は絶対に出来ませんが、坂口君、坂東君ら5名の連合赤軍派の軍事指導部によって、「同志殺し」の粛清の反省、贖罪心が原動力になって貫徹された、非妥協的な反権力の闘いであり、無意義な「追い詰められたギャング団の自己防衛の戦い」とは、決して言えず、ないよりは在ったほうがまったく良かった行動といえます。

決定的、間違いを犯した彼らではあれ、根底において、民衆解放の思想、志があり、それが蘇って行ったこととして、認証されるからです。

銃撃戦がないまま、「連合赤軍」「新党」が崩壊しておれば、もっと状況は困難な事態として進行して行ったでしょう。



獄の塩見ら赤軍派指導部はどう受け止め、どう対したか?

獄中にあって、何も知っていない、僕や赤軍派指導部にとって、「同志殺し」(と銃撃戦)は、正に青天の霹靂であり、驚愕の事態でした。

僕は、僕等、赤軍派が、全くこの事件に関係ないことを前提にして、〈それは、僕等獄中赤軍派にとっては、論議の余地のないものでしたから)先ず殺された12名の人々を弔うこと、殺された12名を思いやること、侮辱され、イワレ無きレッテルを貼られ、無残、無念にも殺されていった彼等、彼女等を復権すること。それを僕は「12名の立場に立って総括してゆく〈「立場」には、立てないわけですから、彼等、彼女を真剣に想い、復権してゆく、が正しい)」と表明しました。

そして、総括、自己批判のために、連赤事件後、獄中にやってき、僕に「総括援助」を要請してきた、連合赤軍「新党」「指導部派」の植垣君、坂東君、永田さんら3人について、僕は、強くこのことを、要求し、総括援助ー共同総括を許容して行ったのです。 特に、永田さんに対してはそうでした。

そして、こういった事態を生み出したことを、主体的に受け止め、僕は、自己のプチブル的な「プチブル革命主義」の思想を、マルクス資本主義批判を学びつつ、人民大衆中心、民衆本位の「プロレタリア革命主義」を身につけることとして、行っていったのでした。

そして、幾星霜を経て、人間観、哲学、人と人の関係における作風の問題として、命の最高尊貴、命を社会的に輝かせ保障する人間自主の思想、民衆としての人間の共同、協同、協働の関係を通じた幸福追求の権利、総じてとして、「人間自主の哲学」追求、確立して来ました。
 
僕にとって、具体的な連合赤軍事件は、重ねて言い、くどいようで申し訳ないですが、政治的にも、思想的にも、組織的にも、或いは、軍事路線的にも、全く関係ない事件であったわけですが、この問題を自己や赤軍派、ブント系の思想的弱さ「プチブル革命主義から、マルクス資本主義批判の習得を梃子にプロレタリア革命主義へ」は、全く、僕にとっては、自然な総括視座であり、もっとその本音の核心部分を言えば、僭越ですが、日本民衆その前衛諸氏の代表として、日本民衆を代表として受け止めようとする自負ある姿勢があった、と言うことです。

しかし、こういった姿勢は、「燕雀 ( えんじゃく ) 、安(いず)くんぞ 鴻鵠 ( こうこく ) の志を知らんや」で、一方で、真摯な姿勢が高く評価されつつも、他面では、僕や赤軍派が、当事者であるかのごとく、誤解されたり、それを悪意に解釈し、利用する思潮流れも、一定の見識ある水準の人々の間にも、生み出してきました。

こういった背景で、永田さん、植垣君は、一審裁判終末過程で、態度を変えていったのでした。

僕は、8年間の「12名の立場に立つ」共同総括が捨てられてゆくのを、残念に思いました。

そういうことを踏まえれば、本当の真意を、いまは、きちんと示し、さまざまな誤解を一掃すべき、時期に至ったかと考えています。



法廷での<同志殺し>の再現、反弾圧、法廷救援闘争の虚妄

総括運動が伸展し、連合赤軍事件の、事実関係の確定、責任関係、刑法上、法曹上の処断をなさなければならない問題が、ブルジョア裁判の判決と絡まりつつ浮上してきました。

いわゆる、民衆側からする決着、真の意味での「人民裁判」が要求されてきたのです。

この段階で、僕自身の思想上の総括とは、相対的に無関係に、連合赤軍問題が存在していること、この事実関係は、自分個人の問題意識を越えてそれを、突き放して、客観的な全般的、全体的な、国際・国内の諸情勢、諸関係を踏まえた事実関係として、事件を、調査、分析してゆかなければならないことに気づいたのでした。

この事情は、事件をより広い視野から捉える試練となり、僕はそれに応えて行ったのです。

それまでは、赤軍派と革命左派、僕と川島君との間で、「この連赤事件は、赤軍派、革命左派、それぞれで行ない、互いに干渉しないようにしよう、でないと、みっともない他党派への責任転嫁になる」なる盟約を交わしており、赤軍派と革命左派の全体的関連から、この事件を解明して行く、総合化するやり方は控えていたわけです。

しかし、連合赤軍問題を捉えてゆこうとすれば、赤軍派だけでも、革命左派だけでも不可能で、両政派を含んだ全体像の想定が必要とされて来、そうでない限り、事実関係の確定、人民裁判など、不可能だったからです。

永田さんなどは、革命左派にいては、責任追及されるばかりですから、ブントの思想的総括に全力を挙げている赤軍派の僕のところに来ることは、責任も追及されないわけで、非常に居心地が良かったわけです。
 
それはともあれ、僕は、冒頭に述べたような観点をつかんでいったのです。
  
僕等赤軍派やブントの未熟性の問題は存在するものの、全体像としての連合赤軍問題については、外国権威、毛沢東思想に盲従するスターリン主義という超ど級の基本原因が存在し、森派は、それに付け込まれた問題であったこと、この関係性をはっきりさせないと、赤軍派、ブントら新左翼の可能性を、自分の手で、完全抹殺してしまうことに気づいていったわけです。

それで、当初では、それは全くの当然の問題として、前提とされた、事件とは赤軍派は、直接的にも、政治、思想、軍事路線的にも全く無関係であったことを捉え返し、より意識的に復活、強調し、かつ、両派の関係において、全体像を確定する上で、組織問題、野合の重要性の問題やいずれの側に基本要因があったかをしっかりと確定すべきことにきずいていったわけです。 

自分たちの思想上の未熟性についてはしっかり総括してきたが故に、野合の問題や事件の全体像におけるスターリン主義の問題を、はっきりと主原因として俎上に上げることは、決して底の浅い、ものではなく、又、決して責任転嫁の自己弁護ではないことも確信できたのでした。

僕は、ここにいたって、大体の連合赤軍問題の総括を完成していったのです。

こう言った地平に、僕が至ったことによって、これまで塩見の自己批判的総括に便乗していた永田さんらは立場上不利になり、「どこまでも、殺された12名の立場に立って、総括してゆく」という僕との盟約を、捨て去ってしまいました。

自己の責任を否定し、挙句の果てには「殺された12名にも問題があった。自分たちは強かった。」なる山岳の「粛清」のカムフラージュの論理、「共産主義化」論を、裁判の上でも、復活させてゆきました。

それは塩見ら赤軍派指導部から支持されたからだ、という理屈を前提に、成り立っていました。

しかし、これは事実関係からも、政治思想路線からもありえず、「溺れるものは藁をも掴む」の類で、全くの根拠ない理屈に過ぎません。

そして、他方では、新左翼運動や民衆運動の帰結は、「同志殺し」に行き着くことになる、赤軍派やブントら新左翼運動の可能性を否定する、結局はマルクス主義をも否定する、荒唐無稽な論を展開し始め、今に至っているわけです。

これを、花園君や<漣赤救援委員会>は、反弾圧を名文に、「反権力の反弾圧裁判なら、嘘も方便である」と、「政治決断」し、支持、推進し始めたのです。

しかし、最初は、「嘘も方便」だったのですが、いつの間にか、それが、あたかも真実であるかのように、錯覚され、世間も大混乱して行ったわけです。

大体、こういった見地が、僕の連赤総括の基本見地です。



僕の願い

しかし、全般的に見れば、僕の見解は、まだまだ知られていず、それが、民衆運動を進めてゆく上での闇を未だ照らし出しきれていないのを、つくづく残念に思っておりました。

だから、僕は、今回の上映会を絶好の機会と思っているわけです。

これから、こういった機会が増えてゆくことを願っていますし、実際増えてゆくのではないでしょうか。

僕は、こういった機会を逃さず、これまでの誤解を解く努力を続けてゆくつもりです。

そうすることによって、ことの真実が鮮明になれば、なって行くほど、日本民衆はより思想的、政治的に強化されてゆくものと確信しております。

そうすることによって、70年安保大会戦とそこでの赤軍派、そのほかの武装闘争を闘った人々の評価が正しくなされ、現在の僕等民衆の立場所がはっきりして行けば、何より嬉しいことと思っております。

このような観点と現情勢、総括状況を踏まえ、「今、70年安保大会戦時の武装闘争をどう捉えるべきか?」も書きました。

これまで、この問題らにつきましては「リハビリ終了宣言」「幸福論」「赤軍派始末記」「監獄記」などで語ってきたし、このウェブサイト「ぱとり」でも機会あるたびに触れてきました。

どうか、これらをご参照くだされば、と思います。

塩見孝也