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フーさんに面会して


2007年10月8日

塩見孝也

10月3日、久し振りに小菅に出向きました。

重信房子さんに面会に行ったのです。彼女の接見禁止は、成忠選挙の頃、切れていたのですが、今日まで延び延びになっていたのです。

裁判には、何度も出向いたし、手紙のやり取りや多少の救援のお手伝いなどもさせていただいてのですが、また、和光晴生さんの面会のたびごとに、花の差し入れなどし、忘れていないこと、を伝えていたのです。

差し入れのたびに、彼女は、丁寧な手紙をくれました。

しかし、面会ともなるとこれが、初めてでした。

いざ、面会のその日となると、柄に似合ずか、いろんな政治的事情からか、相当緊張しました。

又、話したいことは、山ほどあるのですが、何から話してよいやら、あるいは何を話題にしたら良いのやら、途惑うわけです。

彼女との面会は、丸岡さん、浴田さん、若生さんの面会のように気軽くは行かない要素もあることに気づいたわけです。

なぜなら、フーさんは、赤軍派から出発しつつも、明かに、その良き面を継承しつつ、それを超えて一時代を、世界的規模で画した人物でしたから。

又、「感激の面会」といっても、双方年輪を積み、きゃんきゃん騒ぎ立てるわけにもいかず、と言って、静かにぼそぼそ、話し込むだけでも済まない事は確かで、どんな風に展開してゆくのやら、予想がつかなかったからです。 

何しろ、真正面から、顔を突き合わす会合(邂逅)ともなれば、確か、1970年の初頭以来のことではなかったろうか。

彼女が、パレスチナに行ったのは確か、1971年の前半期であったでしょうから、僕は接見禁止中で、彼女は、日本でも、「地下」にいる立場ですから、結局70年以来と思われます。

とすれば、37年ぶりということになります。

彼女が、24歳か25歳、僕が29歳ぐらい、であったと思う。

僕等は、赤軍派の創成期のメンバーであり、しかも、それ以来、づっと、走り続けてきた数少ないメンバーといえます。

僕が出獄しても、パレスチナに出向くのは、そして双方が、邂逅するともなれば、大変なことで、双方とも慎重にならざるをえませんでした。米軍やイスラエルとその諸機関の動きのことです。

それで、僕の方は、朝鮮国行きを先行させる結果となり、以降、心は別にして、実際の政治的関係では、出獄しても、迂遠な関係がづっと続いていたのです。

時代が、大きく変化し、彼女や僕の、それに対応した政治的・思想的立場も変化してゆかない限り、僕等は、会おうとしても会いきれない事情があった、ということでしょう。

双方が置かれている時代状況や主体的状況も変化し、それで会える状況が生まれた、いう事でしょう。

そうではあっても、未だ、「現役」的事情も尾を引いていないか、といえば、そうとは言い切れない事情もあるのです。


僕は、面会で、結構苦慮せざるを得なかった経験を2度ほど持っています。

一つは、永田洋子さんとの面会でした。

これは、「赤軍派始末記」か、「監獄記」で、書いたと思いますが、双方譲れぬ「連合赤軍問題の総括」の立場を、ぶっつけ合うものでありました。

面会は、どうしても対決の場、たらざるを得ませんでした。

もうひとつは、田中義三「同志」との、面会でした。

2002年、小泉が訪朝し、全く青天の霹靂のように「拉致問題」が公になった時のことでした。

この、事態を受けて、僕が「疑惑表明」を公にせざるを得ず、それまで、僕も最大限尽力した、彼の「自主帰国」の後、友好的面会が続いていたわけですが、それが一挙に崩壊した直後の面会でした。

僕等は、国際政治の毀誉褒貶に振り間わされ、引き裂かれざるを得ない事態に立たされていました。

そうではあっても、僕としては、何とか、僕の知らない「朝鮮時代」での出来事をめぐっては、仕方が無いにしても、出獄してからの、10年余積み上げてきた、政治上、思想上の共通点や信頼関係を確認しあいつつ、何とか未来に向けて、折り合いがつけられないか、を探ろうとした面会でした。

しかし、彼等は、僕を「裏切り者」と断じ、僕は「人民奉仕無償、裏切り御免」を胸に秘め、「民衆の利益を守る革命家なら、真実を述べるべし」の立場を伝える面会とならざるを得ませんでした。

この、二つの面会は、本当につらいものでした。会いに行かない方が良いのでは、と思う人もいたでしょうが、僕は律儀に、僕の信ずるところに従って会いに行きました。

この二つに、比べるならフーさんとの面会は、何のわだかまりも無く、大義における意見の相違は全く無い、より強固な同志の絆を確認し合える、ある面で、初心を曲げず、いかなる困難、逆境にも、互いに、屈せず、風雪に耐え、革命の理想、原則を守り抜いてきた、ことを確認し合える、ある面で、互いに、晴れがましい、面会といって良いものでありました。

否、よくよく考えてみれば、もっとも晴れがましい、チョックラ、自慢げに言わせていただければ、「歴史的な面会」といえなくは無かったのです。

僕が、66歳、彼女が62歳なはずです。

僕は、面会用紙の所定の欄、「友人」で、「安否伺い」「裁判状況を知りたたい」にチェックを入れ、提出しました。

顔見知りの、今や係長、か部長になっていた、僕が東拘置所で暮らしていた頃の顔見知りの面会担当の役人は、事情をわきまえ、訳知りに応対してきたわけだが、それでも「身分を証明するものを出せ」とのたまいまた。

本来、こんなことは、全く不要なのですが、僕は、用意したパスポートを見せました。

僕は、この段階で、とにかく「激励してやろう。元気付けてやろう。自然体で行こう。出たとこ勝負!」「安倍政権がぶっ飛ばされたように、潮の流れは、変わりつつあり、支配階級共の世界と日本の政治、体制は破局に向かう時代に入りつつある」「フーさんの方が、結構、回してくれるのではないか?それに乗ってゆこう。こっちからがんがん言うより、彼女の出方に合わそう」と胆を決めました。
 
フーさん、あるいは、フーちゃん、フーといいます。

フーさんは、元気溌剌でした。

彼女は、ガラス越しに、いきなり、にこやかに、パタンと左手を合わせてきました。僕もそれに、おずおずと右手を合わせました。

彼女は、落ち着いて、物柔らかで、しっくりした雰囲気を醸していました。もの静か、と言っても良い印象でした。

ふっくらとし、色が、白くなっていました。

柔らかで、ろうたけた人、というのがぴったりでした。優しく、全体が、柔らかで、ふっくららとし、とても良い感じでした。
 
彼女の立ち居振る舞いは、明らかに精神の晴朗さを示すものでした。

逮捕時から、裁判に向かう1〜2年だったでしょうか、彼女も、強烈な錯綜とする政治的激流、格闘、精神的葛藤の中に投げ込まれ、さすがの彼女も、“溺れかかったり”し、修羅の精神状況にさいなまされかかったりしたことも多分あったであろう。

しかし、彼女の才質、器量、根性、自制心、努力、良き家族や友人、同志、弁護団らが合わさって、あるいは、監獄という、ある面での修道院的落ち着いた環境も手伝い、彼女は、政治的思想的、理論的研鑽も含んだ、余人からすれば及びもつかないような、一定の高い精神的境地を作り出していったのではないでしょうか。

何よりも、彼女のその屋台骨を支えて来たのは、彼女が骨がらみに作り上げてきたパレスチナとの連帯の不滅ともいえる絆ではなかったろうか。

それは、あの素晴らしいパレスチナとの連帯の詩に凝集されています。

彼女の境地は、言ってみれば、「革命的〈革命家としての、決して宗教的境地ではなく)瀬戸内寂聴的〈女性的、母性的な)境地」ではなかろうか。

 
彼女は、のっけから「塩見さんが、自分が実際の現場にいないのに、連合赤軍問題の責任を背負わなければ無ければならない、つらさは、よく理解できます。」

「いろんな、政治的動きの坩堝の中にいらっしゃるのも、私が、『日本赤軍』の総括の坩堝にいるだけに良くわかります」

僕は「あなたの置かれて状況は、ある面で、連赤問題直後のカオスと似通っていますから、あなたの置かれている立場は手にとるようにわかっています。しかし、そのカオスは、別に連赤問題のような決定的過ちを孕んでいません。」「基本的には、時代の転換期の問題を直接的決定的に体現しているだけです。」「あなたは、瀬戸内さんがそうであったように、人間として、女性として、もっともっと器が大きくなられます」「新しい時代に入りつつあります。僕などは、その時代に、脇から、自分が少しでも、役に立てるよう、総括をしてきたつもりですが、あなたは、純政治でのリーダーシップはともかくとして、それ以上に、それを越えた型破りの次元の、つまり、瀬戸内さん的スケールの仕事を、今後されますよ」

こんな具合に、縷々、僕は彼女にエールを送り返しました。

「よど号グループ」の仲間の問題や遠山さんのこと、荒君、花園君や米田隆介さんや第二次ブントや第一次赤軍派のかつての同志、友人、知人の話も出ました。

若松さんの映画『実録連合赤軍」」やそこでの遠山さんや重信さんのシークエンスの話、「塩見議長」を演じたハンサムな俳優のこと、「丁度、遠山さんが無くなる頃、幽霊〈亡霊?)として、パレスチナに遠山さんがやってきた」話など、いろんな話が出ました。

僕は、さかんに年老うことのない「ろうたけた色白さ、ふっくらさ、やわらかさに感心した」ことを述べました。

フーちゃんは「全く、〈僕は)変わってない。変わってない。昔のままだ。(---風貌のことか?)」と、さかんに連発しました。

僕は、この1〜2ヶ月、いろんな面から、自分の心身の衰え、老いを感じ、---安倍を打倒するまでは、そんな感触は全く無かったのですが--ていましたから、彼女の言はありがたがったが、リップサーブビスと受け止めざるを得ませんでしたが、彼女についての僕の感触は全く掛け値なしの本物なのです。

僕は、文字通り「激励しに来て、反対に、激励されて帰る」感じで、心底、「面会に来て良かった」、としみじみ思いながら帰途についたのでした。

帰途、中核派の獄中32年の星野文昭・星野暁子詩画集「究極の愛の形」を送ろうと思い立ちました。

フーさんの醸しだす出す、あのふっくらさ--あのやわらかさ、穏やかさ、落ち着き、優しさと文昭(・暁子)の獄中32年を経た詩画が醸す雰囲気が、全く共通なものであるような印象を僕は強烈に感じたからです。


〜 以 上 〜