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成島選挙闘争から10・21国際反戦デー、
更なる9条改憲阻止、新宿闘争へ。


議会主義を批判する。

2007年8月20日

塩見孝也



成島選挙を終え、のんびりしていたわけではありません。

この、選挙は、概して言えば、いろんな意味で参考になった、とだけ、ここでは、言っておきます。

この選挙の結果と教訓につきましては、詳細は後で述べます。 

僕は、成島選挙の大衆闘争を、秋の、「10・21国際反戦デー」、9条改憲阻止闘争の大衆的闘争の爆発に繋ぎ、集約してゆくために、何よりも10・21闘争の準備を、「成島選挙」の直後から、やり始めていました。

その、要点のみを押さえておけば以下です。


1. 僕は「9条ネット - 成島選挙」を全力で闘ったとは言え、決して、選挙至上、議会至上主義者として闘ったのでは、全くありません。

この、国家が制定し、公認してくれている代議制議会制制度を大ぴらに、公然と利用し、民衆側の自由なる主張、政見の展開を、この時期だけ、十分に保障してくれる、滅多にない、絶好の機会として、選挙を最大限利用しただけです。

a) 成島が「9条改憲阻止」を真正面から掲げ、「9条改憲阻止」の大衆闘争推進の仲間として、決起し、安倍政権と真っ向から対決しようとした点で、彼を支持したのでした。

b) とりわけ、参議院において、3分の1の壁を破られる危険を取り除き、与党を過半数割れに追い込むために選挙を最大限利用しようとしたこと。

c) 盛り上がり始めた「9条改憲阻止」の大衆闘争のうねりを絶やさず、選挙大衆闘争に連続させ、それを秋の大衆闘争の爆発に繋いでゆきたかったからです。


2. 安倍政権に体現される反民衆政治を「9条改憲阻止」の主張を第一に展開し、これを基軸にしつつ、安倍政権の「戦後レジームからの脱却、美しき日本」の基本戦略、あるいは「年金」「格差」、「政治と金」、原発政策、教育方針らの反民衆性、反動性を全面的に暴露し、総批判したかったからです。

このような、選挙戦を、4・28闘争や「9条改憲阻止の会」の仲間の国会座り込み、ハンスト闘争や6・15闘争を闘った有志達と闘ったわけです。

したがって、僕にとっては、春の、きわめて前衛的な、少数を覚悟した「9条改憲阻止、沖縄デー復活、安倍試験打倒!」の「ロフト - 新宿駅周遊」の革命的集会、デモ、国会ハンスト闘争、6・15闘争、成島選挙闘争、秋の「10・21国際反戦デー」での「更なる9条改憲阻止闘争、安倍政権打倒の追撃戦」は、民衆の自主・自立した、全民衆的、全国民的な反政府、反権力の大衆的政治闘争の一連の太い綱、波の流れ、河の奔流として、しっかりと一本に繋がっています。


3. というわけで、このような選挙を通じてのみ、というか、これを至上として民衆の要求が実現される、とする考えを僕は議会主義(者)と考え、これを強く批判します。
 といって、大衆運動を第一としない議会主義者でも、反9条改憲、「護憲」、護憲論者とは、今の力関係、情勢では、「反改憲」で、改憲勢力と戦うべく、一時的に、共闘することに全くやぶさかではありません。

僕等が、目ざすは、僕等が、これまで、掲げてきた、有権者の過半数、3500万人以上の、反9条改憲の意見の獲得であり、反9条改憲の国民主義的規模での結集であり、これをベースとする反安保国民会議獲得の大方向です。

議会主義をそのまま標榜する社民党、マルクス主義を掲げつつも、マルクス共産主義を裏切り、その修正主義の分だけ性悪、セクト主義の議会主義者、共産党はおろか、当然にも、資本主賃金奴隷制、日米安保、改憲を、いずれも認める、民衆や「国民」の政党ならぬ、いわんや労働者階級の政党ではない、ブルジョア政党、自民党、民主党の中の、極く少数護憲主義者とすらも手を組みます。

あるいは、一水会のような「対米従属改憲反対」の民族主義者とも手を組みます。彼等が受け入れてくれる限り。


僕は、変革においても、選挙闘争に於いても、直接民主主義の形式を、もっとも実現、代弁する様式、その基本は、いつの世でも、現代世界でも、今の日本でも、民衆の大衆闘争と考えます。

国論を分かつような、憲法や安保のような全民衆的政治闘争、労働・生活問題、年金ら福祉問題、教育や文化の問題、沖縄闘争、環境問題等々、個別の大衆闘争、---選挙闘争もそのひとつです---ららすべての大衆闘争では、個々の民衆諸個人が主体となって推進する、推進することができます。

デモ、集会、演説ら言論、表現の自由、コミュニケーションの自由らの大規模な行使ららの基本的な命の尊厳とそれを保障する人間の基本権利、自主・自由が発現されてゆくことが保障されている大衆闘争、これ等が、あくまでも、民衆の側の政治を創造する基本ベース、母胎、民主主義闘争の基本形態と考えています。

民衆自身の、民衆による、民衆のための要求、諸権利の行使は、民衆自身が起こす大衆闘争が原型、母胎、原動力であり、これを陣地、武器としてのみ、民衆のヘゲモニーは実現されます。

選挙闘争も叉、然りです。

特に、選挙−議会闘争は、資本主義体制とその政治、権力の批判、革命的暴露が中心になります。

民衆の大衆闘争は、もっとも民衆に相応しい民衆の政治表現、政治的要求実現の方式、政治・運動様式といえます。

如何に議会制度が発達し、そして、それが高度に洗練されて来ているとは言え、大衆闘争抜きの、大衆闘争をベースとしないような、大衆闘争の前進に結びついていない、選挙―議会闘争は無意味で、民衆を混乱に落とし込めます。

そのような行為は、その要求の代弁者が立つにせよ、当の要求の本人が立つにせよ、その民衆本来の要求は、捻じ曲げられ、屈折させられ、結局は蒸し殺されるか、変質させられ、いいように支配階級、権力者に利用されてしまいます。

民衆の要求を表現する、行動において、民衆が主体となる直接行動でもって、その要求を実現しようとする大衆運動を抜き、前提としない、「資本主義権力の民衆権力への議会を通じた平和移行」など、全くの幻想に過ぎないと思います。

金も権勢も、メディら宣伝制度、システムも独占している関係の中で、どうして民衆の側が、大規模な民衆の大衆的行動をベース、背景にしてゆかない限り、どうして、その代表の多くを、議会に送り込んでゆくことができるでしょうか。

このことは、日本議会制度が、ブルジョア2大政党システムに近づきつつあることや、資本家勢力が、金権、地盤、看板を独占し、労働組合とその幹部が、ほとんど体制内化していること、あるいは、大政党しか当選しえない選挙システム、小選挙区制が採用されていること、らいくつかの基本要因を挙げるだけでも明らかです。


4. 代議制議会主義制度は、資本主義を前提にし、この資本主義的私的所有を機軸とする、生産様式が、維持、防衛され、「健全に回る」ように、民衆の要求、不満を吸い上げ、ブルジョア支配に変容させ、吸収するための最も合理的で、洗練さて来ている、巧妙きわまる、資本主義国家権力の政治制度、システム、装置といえます。

これが、うまく機能し得なくなったり、育ってこなかった資本主義社会においては、ファシズムやボナパルティズム、絶対主義的天皇制らブルジョア独裁主義制度が生み出されもし、そのような国が世界には多々ありましたし、現に今もあります。 

しかし、資本主義の自由競争、市場経済においては、概して、代議制民衆主主義の制度が普遍的な共通の制度として、創出され、成長してゆきます。

これを、基礎にして、立法、行政、司法の「3権分立」が、整備、確立されてゆきます。

「立法」が国会、「行政」に常備軍の国家軍や警察、諸役人、官僚、監獄制度が入り、司法制度の裁判、裁判所制度が「国会や特に行政から独立に存在する」、という建前を取っています。

しかし、「三権分立」など、名のみなりけりで、形式に過ぎず、司法、行政、立法は、ブルジョアジーの支配階級の政治代表部、執権ブルジョア政党によって実質は、明白に一元化され、独裁されています。

この意味で、まさにブルジョア民主主義制度は、形の上での「三権分立」、「議会制民主主義」の形をとった、文字通り、ブルジョア独裁のもっとも、普遍的な形態であるわけです。

だから、現実の政治的国家の実態は、選挙、国会、軍隊(国家常備軍)、警察、裁判所、監獄、官僚に所属する人々、とりわけ幹部の人々、すなわち執権勢力、支配階級の人々から成り立っており、彼等が牛耳っているわけです。


5. ここで、しっかり押さえておくべきは、これらの「実態としての国家」(国家の本質は、「幻想上の共同性」ですが)は、資本主義生産関係、利潤追求(正確には剰余価値の搾取)、生産手段の私的所有、労働力の商品化の三つの 関係、要素が、利潤追求の競争戦(いわゆる市場競争)を推進動力、規定的動機として、これを中心にして結びつきあい、回り、展開していること、このことです。

この関係から、貨幣が物神化され、人々は金に狂い、利潤追求のために、大規模に「国家」(「資本主義国家」と読め!)の名において、人、他民族を殺すことを平気でやり始めます。

マルクスの産業資本主義の時代、その頃は、むき出しの暴力で持って、原住民を殺戮、虐殺し、「未開発国」とかってに名づけ、侵略し、植民地にしてきたし、そのための戦争をやって来ました。

独占資本主義の頃は、こうして創られた植民地を防衛したり、それを新たな帝国主義が奪取したりする、国家の総力戦を挙げた戦争、いわゆる「聖戦」と称された「国民国家間戦争」に、戦争の形態が変化し、移行して行きました。

それが、第一次、第二次の世界戦争でした。

これが、レーニンの言う帝国主義戦争です。

このような資本主義の帝国主義的横暴、専制と戦争に反対しに、ロシア革命が成立したり、中国革命が成立したりし、民衆中心の社会が、一時、世界に現れましたが、それも、つかの間、スターリン主義に変質したりし、「世界の民衆対帝国主義の対決」の擬似形態、疎外形態である、冷戦(構造)状況が生み出されたりしつつも、世界の植民地国は、植民地護持を、利潤追求戦の最終凝集点とする、レーニンが解析した独占資本主義の段階の帝国主義は、最後的に打ち破られ、「植民地」地域から帝国主義軍隊は叩き出され、帝国主義の植民地体制は打倒されました。

これが、1975年のベトナム戦争におけるアメリカ帝国主義の敗北、叩き出され、放逐、インドシナ半島の解放、これを基点とするアフリカ、アジア諸植民地国、植民地体制解体の事態でした。

このような、時代の激変に、資本主義(者)は適応すべく、アメリカ独占資本主義を中心に、生産過程での分業、協業の国際化、有機的一体化、相互依存関係を「IT−情報革命」と結びつけ、推進し、その中に中国、旧ソ連を巻き込み第三段階の資本主義ともいえる、グローバリズム資本主義、帝国主義に脱皮して来ました。

この、グローバリズム資本主義は、水平間の先進資本主義列強間では、かつてのように「聖戦」と称された「国民国家間」の世界範囲の総力戦的戦争はやらず、やれず(相互依存が強すぎ、また、核危機、人類絶滅、地球破滅ゆえ)、その矛盾を、途上国での、恒常的な局地戦争に、あれこれの全くインチキな名文をでっち上げつつ、はけ口化し、長期化させ、沢山の民衆が死ぬことを前提にし、軍事産業を主導に、資本主義経済の浮揚力を維持しようとします。

途上国での、膨大な民衆の虐殺、死を前提とする、恒常的な局地戦、他方での先進資本主義間のグローバル市場経済を前提とする結託と闘争の熾烈な市場競争戦、(それは、「国民国家間戦争」の犠牲に替わるような、先進資本主義社会に、共通に「格差化」と「新しい貧困」、「人間の壊れ」らを、生み出してゆきます)、これが現代資本主義、グローバリズム資本主義の基本構造、特質といえます。

言いたかったのは、資本主義がいかなる発展段階にあろうと、また、資本主義がそれに応じて、如何に、延命し、見え透いた自己弁護論を展開しようと、資本主義が資本主義として私的所有、賃金奴隷制の賃労働と、市場を前提とし、利潤追求を社会の維持、発展の原動力、推進動機、規定的目的とし、それを追及するシステムである限り、(侵略)戦争と搾取、貧困、非合理な金権主義の人間支配は避けがたく、「国民国家」という政治形態、制度は欺瞞に満ち、民衆は、絶対に出来合いの国家、国家制度を通じて、民衆の要求、社会変革を実現してゆくことはできないこと。

民衆は、時と場合、条件によっては、資本主義生産様式やその政治、国家制度を批判するのに、逆に、議会制度を選挙を、通じて、適当、有効に利用することはできるが、議会制度を通じて、民衆の要求が根本的に満たされ、資本家の国家権力が、民衆の国家権力に議会を通じて交替してゆくゆくとなどの事態は、絶対にありえないこと。

それは、全くの、おめでたい幻想だと言わなければならない。

民衆は、直接民主主義の原初的で、かつ、もっともシンプルな具現形態大衆運動、デモンストレーション、そこには、集会や結社の自由、言論・表現の自由ら人間の命と自主性を保障し、実現する原基的内容が凝縮さていますが、その積み上げ、蓄積、そのダイナミックな展開、そして、そこから必然的に生まれてくる民衆権力、コンミューン権力創造の道筋にこそ、展望を見出すべきである。

現憲法を徹底的に尊重し、その回路から憲法に銘記されている、憲法9条2項の交戦権の放棄と軍事力の不保持という戦争と常備軍の絶対的否定、憲法の銘記どおりにすること、そのことはもちろんのこと、(そのためには、自衛隊の段階的、漸進的縮小、解消、国家の自衛ではなく個人の自衛を本旨とするミリシャスとしての自衛力の体系の創造や自衛隊をアメリカ軍の付属的な従属軍とする米軍の駆逐、米軍基地の消失、その法的表現としての戦後、常に憲法より、優先、高位に位置づけられてきた米安保条約の破棄、へと突きすすんでゆかなければならない。)、私有財産制を否定する、あるいは天皇家の問題、そのほかの諸問題を正しく解決する民衆憲法、真の社会主義のコンミューン憲法を展望してゆくべきです。

僕等の、選挙闘争は、革命的政治暴露、その母胎たる大衆闘争を基礎にして生まれ、それと結びついてこそ、取り組まれるべきで、また、その成果を、大衆闘争に還元されてゆくべきです。

その逆に、議会主義、議会闘争に、大衆闘争が還元されて行ってはならないのです。

これでこそ、社民党や共産党の議会主義とは、全く異なる選挙、議会闘争が生き生きとして取り組まれてゆく、所以と思います。


塩見孝也