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「9条改憲を許さない6・15共同行動」に参加を。

2007年 5月 27日

塩見孝也

6月15日におこなう「9条改憲を許さない6・15共同行動」は稼動し始めています。

この呼びかけ人による、第1回目の実行委員会は5月12日に、第2回目の実行委員会は5月23日にもたれ、百名余の呼び掛け人が集まりました。 盛会でした。

大衆的チラシも完成しています。 (368KB PDFファイル)

それで、皆さんはこの行動の基本的詳細をお知りになると思います。

もう1回ほど実行委員会が持たれ、「6・15」にGO!となります。

この行動が、「9条改憲阻止の会」を基軸にして、より広い規模の反改憲行動になるべく、一日共闘の呼びかけ人方式を取り、かつての60年安保、70年安保闘争を担った人々に加え、その他の年代、分野の人々も多数加わった、より幅広い、運動体「9条改憲を許さない6・15共同行動」として再提起しなおされたこと、このような運動に賛同する呼びかけ人が、現在までに500人も結集してきていること、このことを皆さんはご存知でしょうか?

この実行委員会は、この呼びかけ人を、千人規模にまで拡大し、弾みをつけつつ、当日、1500人規模を目標に、日比谷野音集会と銀座デモを貫徹しようと、頑張っております。

どうか、皆さんも、この呼びかけ人になられ、「6・15」行動に、ご参加ください。

蛇足ですが、この行動は、純然たる市民主義的性格ではないにせよ、とは言え、子連れのお母さん方も参加できる配慮がなされているような、純然たる大衆行動です。

塩見もその事務局に参加しているからといって、「4・28」のような、ある面では左翼前衛とも言える、ラジカルなプロパガンダ目的の思想・政治行動、デモと、絶対に混同しないで下さい。

「4・28は4・28」、「6・15は6・15」で、同じ集会、デモですが、運動の性格は異なり--勿論、共通性は、当然にも、十分持っていますが--、それに応じて、僕のそれへの係わりのスタンスも全く違ってくるわけです。


≪9条改憲阻止の会≫は、昨年、6・15行動で、「かつてのゼンガクレン闘士が、もう黙ってはおれない、で、樺美智子さんの遺影を掲げ、デモをした」で知られ始めました。

当時は、「60年安保世代の同窓会」といった風評も流れ、それは、あながち間違いでない面もありました。

しかし、昨年秋、久方振りに、かっての「国際反戦デー」の「10・21」の日、「会」の第2弾の大衆行動が、取り組まれ、70年安保世代も加え、約300人で、行動し始めたに及んで、その前後から、その評価は、段々別のものに変わり始めた、と思います。

「9条改憲阻止の会」の評価を決定的にしたのは、今年、3月20日からの、憲法記念日、憲法60周年の5月3日の前日まで続けられた、44日間、実質30日間の、延べ参加人数1500人の、国会前のリレー方式の連続ハンガーストライキ、座り込み行動の実行、貫徹でした。

「会」は、昨年末から、「6・15再決起」を鮮明にし、活動を継続、拡大し続け、「9条改憲阻止!国民投票法案不要!」を旗印にしつつ、強行採決を重ねる安倍内閣に挑戦状を叩き付けました。

僕らは、国会を睨み、執権勢力の独裁主義的行動を監視し、強固な反対意志のドスを突きつける位置関係にある、国会衆議院第二会館前の定位置を、いち早く確保しました。

この場所は、〈9条改憲阻止〉運動の最前線基地、砦、前哨の役割を担い続けました。

ある面では、このエリアは、日本全国を貫く、数ある9条改憲阻止の反改憲運動の管制高地としての役割を担ったのでした。

心理的には、「あそこにゆけば、必ず〈闘う仲間がいる。だから、閑が生まれれば行って見よう」といった安心感を、〈9条改憲素阻止を願う〉人々に与えたのでした。

ここに、僕らは、中央に「ハンスト決行中」の鉢巻をした数名を中心とし、署名を募り、諸資料を配布する、由緒ある「全学連旗」で覆われた机を囲み、その横に、ずらりと横断幕、幟旗、宣言文を書いた看板らを並べ立てました。

その左右に、これまた、ずらりと平均一日30数名、多い時は100名前後の人々が並び立ち、座り込みを続けてきたわけです。

定期的に、国会情報を中心に、全国から駆けつけた人々の報告を受けたりし、一日数度の集会も持ちました。

朝9時から、午後6時まで、これを30日間、それに5月15日の、「手続き法案」参議院採決の日まで、約10日間、緊急の再ハンストも加え、40日間、雨の日も、風の日も、雪の日もやり続けたわけです。

これは、大変なエネルギー、労力、綿密な計画、行動力、何よりも、情熱と強固な闘う意志を要する行動でした。

そういったわけで、この行動は、他のどの団体も真似が出来なかった行動と言って良いと思います。

かつての仲間や国会に用事があってきた人達、差し入れやカンパの激励に駆けつけられた人々、単独者で、国会に「反対」の意を表明に来られて人達、民主党や社民党の議員さんたち、或いは国会にやって来た諸団体の人々と僕らは、意を交流し、仲良しになって行きました。

トラメガを持つシュプレコーラーは、団体で国会見学にやってくる小・中学生に、「2度と戦争をしてはならないよ。銃を取ってはならないよ。国民投票法案は、9条改憲、戦争への道を掃き清めるものだ。」と心より呼びかけました。

このハンスト、座り込みは、そのハンスト、座り込み者の家族、友人も参加されるような大衆性を有し、同時に誰でも、その思想、意志を鋭化することも出来る特筆すべき戦術でした。

だから、沢山の女性達が参加しました。

この実践行動によって、今まで「お手並み拝見」で、奇矯な目つきで、ぼくらの「会」を見守り、沈黙、黙殺を決め込んでいたマスコミも「口先だけではない」と感じ取り、「会」を、取り上げ始め、叉60年、70年安保に参加してきた世代も、9条改憲阻止に本気で向かい合わねばならないと、思い始め、全国的な思想覚醒作用を呼び起こし始めたわけです。

この時期、60年、70年闘争のOBは連名で「9条改憲反対!」の声明を出し、その中には東大全共闘議長、山本義隆氏や日大全共闘議長、秋田明大氏も名を連ねました。

山本氏は、2〜3度、ハンスト、座り込みにも参加もされました。

僕の先輩で指導者でもあり、またケーキのタカラブネ社(現・スイートガーデン社)の社長でもあった新開純也氏も名を連ね、氏への「朝日新聞」のインタビューは大体的に報道されてゆきました。

このハンスト決行過程は、まだまだ幼稚な所を多々もってはいますが、「阻止の会」の足腰を鍛え、団結力を強め、かつ、全国的規模の影響力を格段に強めることともなりました。

これは、一重に、僕の先輩筋の60年安保世代の叡智の賜物であったと思っております。


僕は、この時期、このような、文字通りの大衆闘争に参加しつつ、他方で、この親類筋として、今後の反改憲行動を、もっともラジカルに牽引する左翼思想人士の、思想運動のプロパガンダ行動、「4・28沖縄デー復活!安倍政権打倒!〈格差社会是正!9条改憲阻止!〉の4・28行動」を、一個二重に実現してきましたので、もの凄く大変でした。

個人的な思いからすれば、次のことでした。

僕は、かって華々しかった「4・28沖縄デー」が出獄して15年間、一回も「本土(内地)」で闘われてこなかったこと、それで、「4・28」が来るたびに、毎年、毎年悔しい想いを重ねてきたわけです。

そこで、僕は以下の如く思いついたのでした。

60年、70年闘争を、その後の主体的な思想的、政治的、哲学的反省を加え、止揚された内容で、今の時期、小規模でも、しっかりした政治・思想理念を持って、先駆的、実験的に、運動を復活させれば、そして、それを、われわれ全共闘、60年全学連世代、全共闘世代は勿論の事、30代、20代の青年達にも、知ってもらえれば、これまで切断され、消失せしめられてきた、当時の理念、運動が、新たな質で、蘇って行き、今後、大規模化し、世代的にも連続化されてゆくのでは、という想いが募って行った、わけです。

10・21国際反戦デーの闘争は、昨年〈阻止の会〉の手によって、奇しくも、復活されました。

こういった次第で、残るもう一つの民衆の祝祭日、「4・28沖縄デー」を、今年、復活させようとしたわけです。

この問題提起は、ヤマトの人々にも受け止められ、何よりもウチナンチュウの人々に評価され、かくして、ヤマト、ウチナンチュウの〈本土、内地〉での、合流の契機、基礎は、この行動でもって、不十分ながらも作り出された、と自負しております。

であるなら、「会」のハンスト行動と平行しつつ、一個二重的に4・28行動を、ロフト・プラス・ワンでの、「A,沖縄問題、B、プレカリアート、C、九条改憲阻止闘争と4・28沖縄デー復活の関連とその意義」としてもたれた啓発的な三部制トークと他方で、強烈、果敢な、ある面では、左翼前衛とも言える様な人々による、思想政治プロパガンダの新宿都心デモを大公然に敢行しきったことは、如何にしんどい行動ではあれ、大いに意義のあった行動と思っている次第です。

この両者(ヤマトとウチナンチュウ)の結合の課題は、執権勢力が改憲、安保体制堅持に於いて、「沖縄対策」を要衝的に、あらゆる面で力瘤を入れて、いるように避けて通れない重要課題であったわけです。

両方は車の両輪のようなもので、4・28実行委員会と〈9条改憲阻止の会〉が、それを対立的に捉えず、互いに支持し合い、協力し合って、その両方ともをやり遂げ、今、6・15行動を前にしている地平に立っている点で、僕は、十分満足しているわけです。

塩見孝也