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少し時間が経ちましたが、4・28の行動について、まとめて報告させていただきます。
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首都、全国に於いて、僕らの4・28「沖縄デー復活!安倍政権打倒!」行動に関心を持たれたり、賛同、支持されたり、支援してくださった皆さん!
4・28「沖縄デー復活!安倍政権打倒!」行動をやりきったこと、若干、人数的には不満な所もありましたが、大成功したことを報告しておきます。
先ず、皆さんに感謝の意を表明させて頂きます。
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ロフトでのイベント、フェスタ・トークは、約100名余、デモ隊60名余でもって貫徹されました。 |
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この件で、共に、このような行動を共にしてくださった方々に感謝を表明させていただきます。
特に、予定通り、宣伝カー、のぼり、横断幕、強力なトラメガ、チラシらを持って、新宿都心の新宿駅周辺の繁華街と大勢の歩行者に対して、我々の思うところの、既に確認している主張やスローガンを、恐めず、臆せず、大公然とアッピールしつつ、堂々と1時間20分ぐらい、意気揚々、果敢に練り歩いた、デモ効果は素晴らしかった、と思います。
僕らはデモ効果と同時に、デモをやり抜いている充実感、満足感を、最初から最後まで感じていたのでした。
これは、私服がデモ隊と同じくらいの人数で、大久保公園では、遠くから見守っている状態の中で、これに怯まない内実を持って、60名余のデモ隊が組み編まれた、という別の視点も、しっかり抑えて確認されるべきことかと思います。
宣伝カーのコーラーの晴朗、澄明な演説、スローガン斉唱は道行く人々を立ち止まらせ、じっと聞き入らせていましたし、デモ隊脇に付くトラメガを持つ、デモ指導員の、修練されたデモ隊、シュプレヒコールは、元気がよく、調子がまとまった、勢おいのあるものでしたし、それに「安倍内閣打倒!4・28沖縄デー復活!」の横断幕、のぼりは凄く目立ち、「安倍内閣打倒!米軍は沖縄からアメリカに帰れ!沖縄をヤマト日本の下積みに置き続けるな!」のシュプレヒコールは新宿の町並みに撃ち込まれて行き、デモ隊周辺の新宿環境を騒然とさせました。
僕らのデモ隊は強固に密集した、鉄丸となっていましたから、僕らの10ヶ条ぐらいにまとめたスローガンは街中に突き刺さるように発射されていったのでした。
とりわけ、僕らのデモに花を添えてくれたのは、機動隊2個小隊(小隊、40名)と蒲鉾車2台が、サンドウイッチにしないように装いつつ、目立たぬように装いつつも、伴走して来てくれるわけですから、そして機動隊指揮官が「デモ隊は秩序に従って静かに行進を!そこの誰、傍を振り廻さないよう」とかが鳴り立てるのですから、いやが上にも騒然たる雰囲気を醸しだしてくれたわけです。
叉民衆側のカメラマンや民間の報道関係も結構デモ隊に付き添ってくれますから、デモ隊周辺の街並みが物情騒然となるのも当然です。
ロフト・トークが終るまで、一時雷雨もあり、雨中デモを覚悟していたのですが、5時大久保公園に集合した時は、すっかり雨は上がって居ました。
僕は、少数でも、非常に効果的なこんな意気宝かなデモが出来ること、を改めて確認しました。
デモに参加された仲間達は異口同音に「楽しかった」「やったぞ!」と満足感を表明されていました。
もともと、このデモは、少人数を覚悟し、雨が降ろうと、槍が降ろうと、どんな悪条件であろうと、やりきる旨を告知していたわけで、デモ参加者は、上記のような情況を覚悟の上で参加して下さった方々で、頼もしい方達ばかりでした。
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実行委員会メンバーは、当日午前11時にロフトに集まり、それぞれの確認していた役所を再確認し、その実行に移りました。
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共にウチナンチュウである、ゲストの「ぬちどう(いのちは)宝」の太田武二さんと共に特別ゲストの喜納唱吉さんは、11時前に来られ、既に音合わせを終られていました。
氏はフェスタ1部のメイン・ゲストとして、トークをリードしてくださっただけでなく、全くのノーギャラで三線(さんしん)とギターで「花」ら2曲を歌ってくださいました。
ギターで謳われる喜納さんは、僕は初めてですが、良かったです。
お二人以外に、加藤宣子さん、アイヌを代弁しつつ、北海道、ピラトりに住むヤマトのピリカ・エム・ワッカ〈水谷〉さんが参加され、僕が司会でやりました。
論点は、多岐、多様で、広げようとすれば、無限に広がり、深まる内容ですから、司会の僕としても、パネリスト諸氏の問題意識、主張、論点の定まってゆく、流れに乗りながらやる以外にありませんでした。
さし当たって、「何故4・28なのか?」「どうして、何時頃から“沖縄デー”となっていったか、どんな具合にしてそう言われるようになったのか」、「何故、今、沖縄なのか、“沖縄デー”復活なのか」「それをどのように復活させるのか?沖縄の民衆闘争は、今どんな具合なのか?」と論点を設定しました
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ウチナンチュウがヤマトとは別の域内少数民族であること、アイヌとは、別の民族的分岐をなすものの近縁なこと、いずれも縄文系統でヤマトは、この縄文系と朝鮮系の混交で、ヤポネシア列島の中央を押えていたこと、そして、そこから、アイヌと共に列島周辺に追いやられたウチナンチュウは、沖縄諸島で、独自の民族的発展をとげたわけですが、1600年初頭、島津藩によって、侵略、併合され属国化せしめられたこと、明治になって、時の中央政府の廃藩置県の過程で、「琉球処分」を受け、日本国「沖縄県」として、大日本帝国に併合されたこと、以降、ヤマトに宥和化,、同化せしめられてゆ来ました。これを、「皇民化」といいます。
この戦略の下で、ウチナーは、日本帝国主義特有の“域内殖民地化”として、犠牲にされ続けてきたこと。
以降、日本帝国主義は、戦前、沖縄を日本帝国主義の「南方」、大陸・侵略併合・経営の前線拠点として利用し続けてきました。
終戦時、米軍の沖縄上陸の際、ウチナーの4人に一人が、日本本土防衛、実質は、「国体護持」の衝立にされ、亡くなり、その際、皇軍は、手榴弾をウチナーに渡し、集団自決を強制したこと。
米軍が日本を占領し、日本列島全体が、マッカーサー占領軍の支配下に置かれた7年間、沖縄もまた、米軍政下に置かれ続けたわけです。
が、重要なことは、この、アメリカ・マッカーサー軍政権力下の7年間以降も、つまり、1952年、4月28日、サンフランシスコ日米講和条約、他方での日米安全保障条約締結以降も、沖縄は、米軍政下に置かれ続けた来たことです。
沖縄は、それ以降も、このサンフランシスコ条約締結の対象外とされ、日本「国民」とは切り離され、引き続き、米軍政の統治下に置かれ続けられました。
沖縄が日本復帰したのは、それから20年後の、1972年の5月15日のことでした。
この、沖縄や小笠原らを切り離した上での、−−−もう一つ重要なこととして、それまでの在日コーりアンの帰属不明化も同時に発生してきています。これは、別の機会に述べます。−−−日米講和条約の締結は、ウチナンチュウの意見、意向を全く排除する形で、極めて日米権力と米軍部中心に行政主義的に、取引されたことを、太田武二さんは「極めて軍事的、政治的駆引きの中で、なされた“闇の密室政治”」と痛憤しつつ糾弾されます。
第3部のゲスト、原さん〈ブント蜂起派議長〉は、これを「第二の琉球処分」と命名していました。
何故、「4・28か?」と言えば、このサンフランシシスコ条約締結の日が、4月28日であったからです。
この日をもって、ウチナンチュウは、ある種の「棄民」を受け、米国に売り渡された、と言えます。
ウチナーにとって全くの「屈辱の日」であったわけです。
ヤマトから見れば、江戸時代初期以降の、薩摩ヤマトの支配以降、そして明治維新以降の、植民地主義的沖縄侵略の責任を不問にして行った点で、日本近代以降の域内少数民族侵略、同化の民族的責任を清算しきれず、それを継続的に容認して来た、民族的責任を相も変わらず、不問にする帝国主義的抑圧民族の慣習を、踏襲した点で、全く、民族的恥の上塗りを重ねた情けない日であった、と言わなければならない日でした。
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言い換えれば、このことを反省し、あらゆる諸民族との自主・平等の関係を樹立すべく,「他民族を抑圧する民族は自由ではありえない〈マルクス〉」を胸に秘め、誇りある自主的民族としてヤマトが、ネジを巻き直さねばならない日であったわけです。
この点から見れば、日本共産党や革共同中核派の「日本返還論」や「奪還論」も叉、過ちであり、ブント系の「日米の共同前線基地化論」は、この両派より、他民族排外、同化、宥和主義で、ない点で、相対的に正しいが、民族問題を捨象して行く点では、別の問題を抱えていたと言えます。
この辺の、問題点を、それなりに、「琉球独立論」の見地から、孤立を恐れず、大胆に、思うことを述べた竹中労は、ウチナンチュウの大半が有す、深層の要求、感性、感情、つまり「琉球独立論」を、相対的には、正しい見地で展開していた、と言えます。
ウチナンチュー、「祖国復帰協」が、この4・28以来追求してきた「日本本土復帰」の方向は、単純に、「日本帝国主義国民国家への編入」を求めてきたものではないにせよ、そのような弱点も孕んでいたし、ウチナーの歴史的に形成されてきた、民族的弱さを孕んでいたといわなければなりません。
それ故、責任の大半以上は、ヤマトとヤマト民衆の民族的・民衆的責任こそが問われなければなりませんが、この辺が、5・15の復帰以降、日米両帝国主義の結託した、沖縄支配に対して、民族自決を前面に押し出せず、米軍や自衛隊、核の存在、湾岸戦争、今回のイラク侵略らの大後方の戦略的「基地の島」のグレードアップ化に対して、存分に闘い得なくなって行き、日本帝国主義の開発主義、グローバリゼーション、ネヲリベ路線、宥和主義にしてやられてきているウチナー自身の責任と言わなければなりません。
このことを、あの場で、ウチナンチュウの反省として、喜納さんは率直に述べられていました。
その喜納さんが民主党から立候補し、民主党の日米安保と米軍容認の路線、政策の沖縄県担当者であることは、僕には全く腑に落ちないことです。
ともあれば、21世紀の「沖縄デー」は、これまでの「復帰肯定」を絶対的選択肢とは、総括せず、対米従属の日帝権力、そのグローバリゼーション、ネオリベ路線、宥和主義、開発主義政治、米軍、自衛隊と対決する、――それが「ヤポネシア社会主義諸民族連邦樹立」となるか否かは、今後の状況展開や主体建設の動向との関連で決まってゆくにしても−−−世界・アジア同時革命、国際主義的連帯の一環としての「民族自決」を戦略的射程とした、解放への道でなければならぬことは明らかです。
ウチナーは天皇制支配、米軍支配、対米従属の日本独占資本のネオリベ路線の三重苦の頸木の中にあり、アイヌと並んで日本資本主義の底辺に落とし込められ、日本民衆の「鎮めの石」とされ続けている、といわねばなりません。
今回の、復活「沖縄デー」はこのように位置づけ直され、闘われた、と言えます。
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誰彼と無く言い始め、「沖縄デー」と称され始めたのは、多分、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の攻防が、日本列島の各所に、強烈に投影されてゆき、沖縄の米軍基地と華々しくリンクして行き始めた、60年代半ば以降のことである。
この時期、ウチナンチュウの反戦・反旗地・沖縄解放とヤマト民衆のそれとが、合流・リンクし合い、誰もが反戦闘争を勝利してゆく上で、4・28「沖縄デー」での決起は、共通の課題となっていったのでした。
そして、それが、決定的政治的激烈さを帯びて、民衆の闘いの日、祝祭日となった頂点は、多分、破壊活動防止法が発動された1989年の4・28闘争の日であったと思われます。
あの日、ブントは社会主義学生同盟と共産主義青年同盟と連携しつつ、医科歯科大学に終結し、機動隊の学生封じ込め作戦―その阻止線を、ウチナンチュウとその民衆と国際主義的連帯を実現すべく、ゲバ棒で打ち破り、御茶ノ水―神田カルチェラタンを創出すべく果敢に闘ったのでした。
この辺りが、「どのように、何時、どんな風に、“沖縄デー”が、ヤマト民衆の中に、受け入れられ、溶け込んでいったか」のかの経緯と思います。
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さて、来年も4・28沖縄デーはやってきます。
だから、今度は、より広く、より深く準備して、沢山の参加団体を主体にして、もっともっと巨大で、ダイナミックな民衆の祝祭日としてゆけば良いと思います。
従って、4・28「沖縄デー復活、安倍政権打倒」行動実行委員会は開店休業にして存続し、必要な連絡、会議ら集まり、必要な行動ら積み上げてゆけば良いと思います。
4・30「自由と生存のメーデー」には、実行委員会の仲間達は、数本ののぼりを掲げて参加したように。
但し、安倍政権が打倒されれれば、この部分は変わりますが。
ロフトフェスタ第3部は大好評で、特に「実録連合赤軍」予告編は衝撃的でしたが、若松監督は、ロフトでの初実験、初上映を参考に、編集・完成にピッチを上げるとのことでした。
それにしても、4・28闘争デモは、沖縄からのアピール、 「9条改憲阻止の会」事務局長蔵田計成氏の挨拶、4・30「自由と生存」のメーデー実行委員会からの挨拶、獄の和光晴生さんからのメッセージを代読した、彼の救援会「国境を越える騎士団」からの挨拶、こういった形で、しっかりした闘争陣形構築の展望の下、準備されて行った事も確認されるべきでしょう。
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