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長崎市長、凶弾に斃るに想う

遅ればせながらの僕の所感

2007年 4月 23日

塩見孝也

先日起こった伊藤長崎市長への銃撃事件は、最初は誰でも、1990年1月に当時の本島市長が右翼団体の男に撃たれて重傷を負った事件を思い起こし、また、暗い1930年代始めの、右翼テロの時代の始まりか、を予感したのではないでしょうか。

「個人情報保護法案反対」の運動で知り合ったノンフィクション作家の吉岡忍氏も、事件発生直後、朝日新聞の「私の視点」に、そういった観点から彼流の繊細な感性で、「終末を予感させる」といった内容でエッセイを載せていました。

僕もそういった観点で、 「暗い時代を始まらせてはならない」「この事件の本質は、前近代性を引き摺った社会での非合理主義、神秘主義に本質がある」と論評をしようと準備していました。

しかしながら、司直の捜査が進展するにつれ、この事件を、僕らに別の視点からも捉えてゆくべきことを教えてくれました。

大義ならぬ大義、また、ある種の民族主義的様相を持った行動ではなかったであろう、ということです。

これが、「暴対法」以降のやくざの収入源に対する締め付けの為か、金銭的に困った上での公的機関への要求、そして最後に起こした暴力的爆発事件であったであろうこと、同じ、非合理主義ではありますが、ある種の拝金社会、ネオリベ社会に根を持つ自己の為の暴力性であることが明らかになりつつあるのではないでしょうか。

もっと言えば、グローバルに共通する拝金主義、個人利己主義に動機を持つものであった、ことです。

グローバリゼーションの市場原理至上の社会、格差社会、貧富の階層への二極化社会、貧困層が自己の解放の道筋を見失っっている際、そのやり場のない不満は、一方で内面化し、非合理極まる鬱屈を育て、様々な精神的、肉体的社会病理の社会的土壌を育ててゆき、その外への爆発は、極めて、個人主義的で、やみくもで、時には激烈極まるテロへと爆発してゆきます。

伊藤長崎市長への銃撃と同じ日に、アメリカのバージニア工科大では、孤独学生による同僚学生への、大量銃撃殺人事件が発生しました。

何の脈絡もなく、無媒介に起こったと思われた日米の同時銃撃殺人事件ですが、十分に連関性、同質性があったと言って良いのでは、と僕は思うようになりました。

確かにテロ、暴力はあってはならない事です、しかしながら、こういった性質の事件は、これから二度と起こらないか、といえば、幾ら「民主主義を守れ。テロはいかん」と合唱しても、一層頻発するのではないでしょうか。

日米の執権勢力が、ネオリベ政治をやり続け、他方、そのはけ口を、何の大義もない、世界的規模のネオリベ経済・政治で、発展途上国を文化的、政治的、軍事的に支配せんと、非合理極まる局地的侵略戦争に設定し続ける限り、その結果としてこの種の事件はますます多発してゆくでしょう。

それにしても、犠牲になられた長崎市長は全くたまらなかったでしょう。市長の冥福を祈り、そのご家族に、心より哀悼の意を表します。


余談となりますが、亡くなった長崎市長は、僕らとは縁がありました。

2003年、鈴木邦男さん達と手を組みつつ、朝鮮国の核実験、核武装、拉致問題で「白船平和義士団」を募り、朝鮮国に直談判に向かおうとした際、日本民衆を代表する被爆体験に立脚する核武装への抗議のメッセージを、団員から市長にお願いしたのです。

その際、被爆地長崎の市長である伊藤一長氏は、僕らの「あらゆる核武装反対」という訴えに共感していただき、
「核兵器による被害は繰り返されてはなりません。そのためには全ての核兵器を廃絶しなければならないのです」
という力強いメッセージを、律儀にも僕らに送って下さいました。

僕らは、市長のメッセージに非常に感激し、かつ、大いに鼓舞激励されたのでした。 そこから、長崎市の姿勢の真摯さを痛感し、長崎市民とその市政治に、強い共感、親近感の想いを抱きました。

また、昨年に朝鮮国がついに核実験をおこなった際には、伊藤市長は即座に「被爆地の市長として容認できない」と、毅然として抗議声明を読み上げられたことは、まだ皆さんの記憶にも新しいことと思います。

その伊藤氏が凶弾に斃れた事は、返す返す残念なことです。