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自然権としての自衛権は、国家にはなく、
民衆一人一人の中にある。

「9条改憲阻止の会」の理論的、思想的位置づけについて

塩見孝也

2006年 9月 12日
                    

以下は、僕の「9条改憲阻止の会」に、積極的に参加するに当たって、表明しておくべきと思った、ぼくの基本的考えです。

ある面で、僕の反省的な新左翼運動の見解でもあれば、この「会」に、何がししかの形で、部分的に少しは、残存している「マルクス主義」の“教条主義”的固守の傾向への批判ともいえます。


他方では、マルクス思想そののもの、完全清算の傾向への批判でもあります。いうなれば、この「会」が発展してゆくに当たって、多様な意見を包摂,許容しつつも、まとまってゆくための、基調の方向が何かを僭越ながら提出したものと思っています。

言い換えれば、僕のかねがねの主張である、「マルクス主義の超克、脱構築」の観点を、「9条改憲阻止」にまつわる、理論、思想の分野での議論に適用し、運用してみた意見とも思ってください。

検討してくだされば、ありがたいです。

日頃から、ずっと考えてき、あちこちの文章で書いてきたものを、今回、総括的に簡潔にまとめてみました。

何しろ、多種、多様な諸問題、諸課題を9条反改憲闘争は孕んでおり、これをすっきりと、簡潔に、しかも要点に答え、かつ総合性を持って展開するのは、大変難しいことです。

しかし、主要な環を掴み、キーワードを設定し、解析してゆけば、すらすらと解けてゆくものです。

後、実際的な問題で、答えねばならない論題も2〜3あるのですが、それは今回省き、運動、闘争の基本骨格を作る基本問題をめぐる問題に絞り、展開します。


1. 憲法第9条を心からもっともっと尊重し、未来に向け、活かすべきであると考えます。

9条の「世界平和」「交戦権放棄と戦力不保持」への見解の意義を、言わずもがな、は百も承知ですが、もっともっと、言い換えれば、自分自身の生き様の原点とし、また、民衆解放の原点として、はっきり確認すべきかと思います。

 憲法9条は、言うまでもなく、先の戦争の国民的体験を「2度と侵略戦争、帝国主義戦争はしない」という反省から生まれたもので、それを凝縮した条項であります。

 僕などが、学生運動、民衆運動を始めた、思想的原点を表わしてくれている条項です。

このような原点的観点を先ずしっかりと確認し、より高いと思われるかも知れない、民衆解放、人間解放の諸思想、理論、イディオロギーを創造、構築してゆくべきでしょう。

「民衆解放、人間解放」とかとなると、得てして、ややこしくなるから、この9条を、原点的確認とすることは大変重要と思います。
イデオィロギーのために、マヌバーとして、利用する、などは、もっての他の事と思います。

とは言え、民衆解放、人間解放に、この運動を回路付けることは、それはそれで重要です。

この小文は、素朴にしてピュアーな日本民衆の国民的体験の原点を踏まえつつ、それを、文字通り原点とし、僕の描く民衆解放、人間解放に、回路付けるために、覚え書きしたものです。


2. 先ず第一に、この条項は、民衆解放、人間解放の大理念を目指す資本主義批判、民衆中心主義、人間中心の民衆運動(あえて「階級闘争」という言葉は使いませんが、その本来の意味のことです。近代政治学概念では、「主権在民と民主主義の闘い」、とも言えます)、コンミューン建設の創出運動とは矛盾しません。

叉この9条は絶対平和主義、議会主義の人々らの初発、ガイストの感性、要求とも矛盾しません。

ところで、この9条の基本思想を踏まえた場合、「自然権としての自衛権」の問題はどう捉えられるべきか、といった、根本問題があります。

この点で、僕等は、「護憲」でもないですが、その否定の、旧来の「階級闘争至上主義」「マルクス・レーニン主義」の主張とも違うべきです。

この見地は、煎じ詰めれば「ブルジョア権力は常備軍を持つべきではないが、人民権力は常備軍を持ってよい」といった主張と言えます。

このような、国家、常備軍保持を前提とする従来の民衆運動と僕の考える共同体運動、コンミューン創出運動は根本的に違います。

これは、単なる、マヌーバーの憲法利用主義と言えます。



3. 「自然権」としての「自衛権(正当防衛権)」は、「何処が、誰が保持するか、国家か、民衆か」、この命題選択は、絶対的にハッキリさせるべきと思います。

「どんな国家にも自然権としての自衛権あり」、「自衛権は、国家に存するのか」、そうなのか?

それを、断じて認めず、「自然権としての自衛権は、国家にはなく、各自の民衆自身のみが持つ」のか、この命題に判断を示すことです。

民衆側、「会」は、後者の基本命題にはっきりと立脚すべきです。

ここを、支配階級との理論上、思想上の最大の争点に据えて、僕等は反改憲闘争を闘うべきです。

ちなみに、憲法は、国家自衛権は否定していますが、民衆諸個人の「正当防衛」としての自衛の武装権は否定していません。



4. 外国侵略軍、自国国家権力の暴力装置による不当暴力弾圧、民間の不当暴力に、自衛権発動は許される。武装が許されるのは、こう言った3種の場合のみです。



5. 社民党、共産党は、自民党の「自然権としての自衛権は国家にあり」に、「自然権としての自衛権は民衆諸個人にしかない」で反撃できず、「国家自衛権論」の枠、土俵を前提にし、論争したが故に、負けてしまいました。



6. 新左翼も叉「国家に自衛権あり」であり、この枠に拘り、その国家が、「ブルジョア国家だから、ブルジョア権力だから許されず、こちら側はプロレタリア国家、人民権力だから、その常備軍は正当」としました。これは、詭弁です。

「“ブルジョア国家”か、“プロレタリア国家”か、は、一体、誰が決めるのか」、「決めるのは、一人一人の民衆自身」です。

民衆が、ある勢力によって自主権を侵害された際、それと、闘う過程で、実績を示した、民衆自身の共同体的な関係性の自己認識を通じて、初めて、“民衆自衛軍”の意義は判定されるし,“人民権力”か、否かも判定される」のであり、この実質とはなれた、何らかの特別のイディオロギーや権威、権勢によって判断されるものではありません。

叉、それだからこそ、「民衆自衛軍」は、それ以上でも、以下でもなく、決して「国家の常備軍」になってはいけないのです。この時、この軍は、民衆支配の道具に変質してしまいます。

ここから、上述のような、詭弁、マヌーバーが生まれてくるわけです。

「憲法9条」を尊重せず、「平和と戦争の問題」を「人民権力」、「社会主義」という勝手な言葉に、全部吸いこませ、それを,打出の小槌として、全て解決出きるとしてきたのは、全くの独善的幻想でしかありませんでした。

その、破産は歴史の示すところです。

ここにおいて、民衆の「先の戦争の国民体験」、「世界平和」、「主権在民」の「民主主義要求」という、民衆にとって、もっとも切実で、根本的で肝要極まる要求が、「マルキスト」よって、「社会主義」という魔法の絵図、小槌によって、吸い込まれ、消失させられ、その反対物、スターリン主義というインチキ共産主義運動によって、すりかえられながら、利用されて行った、経過とその構造が、はっきりと捉えられます。

「マルキスト」、「新左翼」は、この手品にみんな引っかかってしまったのです。

民衆利益の実質から、社会主義を措定できず、スターリン主義国家を“社会主義”と錯覚し、賛美したわけです。

かくして、それならば、と、もともとの「ホッブス的“契約国家”論の方が、まだましであったではないか」、と逆流現象が深まってゆく、わけです。

社・共は、そのやり方が、議会主義、新左翼は「暴力革命」、という違いはありましたが、共に、民衆、人間の自主性に立脚し、その自主性に立脚してのみ、正当防衛、自衛権やそれに立脚する民衆暴力、いわゆる「革命的暴力」は許容される、ということをしっかりと考えてこなかった、と言えます。 

戦争に反対し、平和追求における暴力、暴力原理は何か、についてを考えてこなかった、この事に置いて、新左翼も社・共も同じだったと、と思います。

我々は、国家を前提に、「国家を死滅させる」最大の要が、「常備軍を廃止するか否か」にあるという観点に於いて、9条規定を真剣に考え、捉えて来なかった、と思います。



7. 「国家常備軍」を原理的に否定し、9条を評価し、活かすことと、民衆個人の自衛権論をしっかり確認し、これを民衆革命に如何に回路づけるか、否か、これが現在の憲法論争の核心と思います。

「常備軍廃止」を梃子に、戦争否定、世界平和、「人類共同体」、「世界民衆共和国」樹立、世界同時革命、の道筋で「国家死滅」「世界民衆共同体(コンミューン)」を展望してゆく、民衆運動、民衆革命のコペルニクス的思考転換が必要と思います。

民衆が生活を持つ地域からの(パトリからの)、パトリ民衆への、不当暴力への自主、自立した民衆の自衛の闘いをベースにして、それを内発的原動力として、その全国的結びつきのネットワークに基づく民衆権力は作り出されて行くのでしょう。

これ等は、アメリカフロンティア時代のガンデモクラシイ、或いは、その後のパリ・コンミューンとその4原則の実現に原型を見出せます。叉こういった歴史的経験を通じて、イメージできます。

全共闘の初期の自衛武装もその中に入れて良いと思います。



8. 絶対平和主義や絶対非暴力主義でもなく、といって、暴力革命絶対主義でもなく、あくまでも、自主・自立した民衆、人間を第一に尊重し、この民衆、人間に立脚した、つまり、この意味での、自衛権を持つ、民衆に立脚した、コンミューン型の反戦、平和、福祉(労働問題ら様々な福祉問題が入ります)、環境型のラジカルな現代民衆運動からの革命、民衆権力の樹立、この民衆の変革運動と共振し、重なるものとして、いわゆる、僕等の“ブント”系の「9条改憲阻止の会」の闘いの在り様、理念、内容は措定されなければなりません。



9. これを、世界的規模で見れば以下となります。

戦争は、国民国家ごとに民衆が分断されて、起こります。

段々、グローバリズムの所為で分断されにくくなり、国民国家同士の戦争は起こりにくくなり、局地的でしか,資本も戦争を起しにくくなってきています。

他方では、外が内に内抱化され、内が外となる入れ子構造の生成の中で、内と外の境界がなくなることで、民衆対支配階級の戦争は徐々にゲリラ戦の不正規戦争となり、それが世界的規模で所構わず有機的連関性を持って、同時多発で展開されるようになってきています。





いずれにしても、だからこそ、戦争に反対し、平和を追求するには、世界的規模で民衆が結合し、前記、自主的個人の民衆の自衛の闘いのみを支持し、常備軍の不必要性を訴えてゆくこととなってゆきます。
この意味で、「交戦権否定、常備軍不要」の9条改憲阻止の運動は、その性質からして、世界の民衆の反戦・平和の要求にピッタリ合致し、その普遍的要求の集約点ともなり、国際的民衆から支持されますし、国際民衆と結合することで、その生命力を再生産してゆくことも出来ます。

また、この「常備軍を廃止する」主張は、「国民国家を消滅、死滅」させ、それを、「世界人類共同体」「世界民衆共和国」に置き換える「世界同時民衆革命」に、自然に回路付けて行けます。

自然権としての自衛権を、自主・自立した各人の民衆に置き、国家常備軍を否定する、9条を守り、活かす闘いは、世界の反戦・平和運動に於いても、世界革命に於いても、その質を高め、世界革命の内容を明瞭にしてゆく意味でも、決定的に重要な闘いであると言えます。

言い換えれば、9条改憲阻止闘争を、国際主義を発揚しつつ、世界の民衆と一体になり、この闘いを、一国主義の受動スタンスではなく、世界史的視野で、世界から、能動的、攻勢的に位置付け直してゆけば、この闘争はさらに生命力を豊かにしてゆく、と確信してゆくことだと思います。

こうしてこそ、世界革命に、9条改憲闘争は回路付けられ、尽きぬ生命力を持って持続してゆく、と見るべきです。

要するに、9条改憲阻止闘争を、自国革命、世界革命にどう回路づけるか、については、マルクス「資本論」の資本主義批判をきっちり堅持しつつ、それを「人間なき」、或いは「人間を途中で、消してしまう」、「階級闘争」を改め、自主・自立した民衆、「人間の命を最高尊貴し、それを保障し、最高に輝かせてゆく自主性」を徹底的に擁護する、人間尊貴の思想を涵養することを要にしてゆくこと、このことが大切と思います。

そこから諸問題を捉え、硬直した教条や公式、或いは既存の権勢、権威にとらわれず、進むことだと思います。

自分の脳味噌によって、自分の言葉で、思考し、独立自主の尊敬し合う関係性を育てて行くことだと思います。


新左翼ラジカリズムは、

@ 人間論、思想抜きの、つまり、自主的人間論抜きの、むしろ、逆にそれを「階級闘争」ラジカリリズムに、それを解消するような形ではなく、思想、つまり、人間自主におけるラジカリズムそのものにおいて、止揚、継承されるべきです。

A 叉、「国民国家否定」、「脱国民国家」化としての国家常備軍否定、交戦権否定、自主的民衆の自主化、文化、文明化の向上の総合的闘いの推進とこれと一体の民衆自衛力育成のなかに活かされ、地域(パトリ)コンミューン創造志向として、活かされるべきです。

B 或いは、国民国家を越えた民衆の国際主義的結合、「民衆中心の世界人類共同体」志向に於いて止揚、継承されるべきです。

C かつての「革命的暴力」志向は、生活、生産、労働、地域とはなれた、「党」或いは「国家」暴力としてではなく、コンミューン原則の一つ、国際的に有機的に結合された「全民衆の武装」に内容化され、止揚、継承されるべきです。

或いは、“超暴力としての非暴力”の内容を秘めた、“民衆自衛暴力”として止揚、継承されるべきです。

塩見孝也