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「先軍政治」と核実験、核武装

朝鮮労働党政治の誤りの核心の一つについて

2006年 11月 15日

塩見孝也


 前回の朝鮮国、核実験への僕の見解ですが、核実験は朝鮮労働党政権の掲げる、間違った「先軍政治路線」の帰結と思っています。

 僕は、民衆第一、人間最高尊貴(命と人間の自主性最高尊貴)の民衆中心の革命的政治ではなく、唯武器、唯軍事主義、軍事至上主義に政治第一が転倒してきた結果だと思います。

 この根元には、民衆第一と国際主義を忘れた、スターリン主義の「一国社会主義路線」「“党(軍人を含む官僚)”専制独裁」があります。

 チャウシェスク氏(Nicolae Ceausescu)のルーマニア軍や、東欧「社会主義」国の軍は、「ワルシャワ条約機構軍」といった衣はかぶさっていましたが、ソ連軍(「赤軍」)が作った、その下請け軍、従属軍の性格を持っていました。

 しかし、それと違って、朝鮮人民軍は、曲がりなりにも、自主・自立の「人民軍」でありました。そこに朝鮮国の特異性も顕現したのですが、残念なことに国家軍に変質してきています。

 中国は、1989年の天安門事件を境に国家軍に変質しました。

 この、核実験、核武装問題を考える際、キューバのことを念頭に於いて比較・検討してみると、可なり僕の主張もわかってもらえると思います。

 僕は、キューバを何も理想の「社会主義国」とは、思っていませんが、カストロ政治を考えると、1962年のキューバ危機以来、彼は、自分達の独立・自主の民衆第一、可なり人間中心のキューバ革命の原点に還り、ソ連式「社会帝国主義」の世界覇権主義、唯軍事主義の影響から脱却してきたと思います。

 ここで、カストロは核武装化による、自国防衛を諦めています。と言うより、その方向が間違いだと気付いたのではないでしょうか。 それは、その後の、70年代の旧ソ連指導部の命を受けて実行されたキューバ軍のアフリカ革命支援に於いて最終的に確認された、と思います。

 それで、より一層、民衆第一で民衆に近づき、民衆を主体にするように政治を行い、他民族、他国の民衆との国際主義的結合、その力を自国自衛の根本に据えるようにしてきたと思います。

 この政治的、思想的団結が培われていったからこそ、核武装などしなくとも、アメリカ帝国主義の目と鼻の先で、革命を存続させ、中南米、第三世界に、ずっと革命的影響を保持してきたのです。

 この力故にアメリカ帝国主義は、キューバ国内にグァンタナモ米軍基地を持ちつつも、手が出せず、反革命行動をやる度に粉砕されてきたのです。

 キューバも自国領土内に,米軍基地を許しつつも、悠々と共存してきたのです。 

 現朝鮮国の政治と如何に違っているでしょうか!

 皆さん、このことを考えてください。

 戦国の英雄武将、武田信玄は「人は石垣、人は城」と言いました。正に、人こそ、人の団結こそ自衛の要諦なのです。

 キューバは確か、正規軍の常備軍を持っています。

 ここが、僕の見解と違うところの一つです。

 この常備軍が、1975年以降、"アフリカ革命支援"と称して、アフリカに革命の輸出を図ったのです。しかし、それは、見事に失敗しました。

 こうしたのは、ソ連「党」の社会帝国主義的世界覇権戦略(判りやすいのが、ソ連軍のアフガニスタン侵出)があり、それにキューバも従わされたからでした。

 こういった、間違いを総括しつつ、未だ、はっきりとは検証していませんが、今のキューバ軍は、ますます自衛の軍として、地域の民衆を第一とした、パトリ・コンミューン軍に近づいて言っているはずです。

 朝鮮労働党は、このキューバが可なりなしつつある、国家常備軍ではなく、ミリシア的な、民衆自衛軍への接近とは、全く反対の国家自衛軍、民衆を飢えさせ、国家権力者の人民支配の骨である「国軍」の道を進み、挙句の果てには核武装軍に展開しつつあるのです。

 僕等、日本民衆は、国家常備軍など必要なく、憲法に明記されている事柄に従って、民衆の個人の個人自衛権にのみ立脚するパトリ・コンミューンとその民衆自衛のあり様こそ、研究し、目指すべきなのです。

 叉、あの小文では、自衛の基本原則を述べたわけでで、現存国家の政治としては、現政府は、これを批判するのは当然としても、朝鮮国締め付け、軍事力強化、カウンター軍事として核武装化らに走らず、一方では、対米従属の「集団自衛」、日米安保再編強化を否定しつつ、自衛の重心を下、平場の民衆の次元、パトリの次元での、福祉強化、資本主義のパトリと福祉軽視を止め、民主自身の福祉強化を促し、これと一体の自衛の体系を作ってゆく、他方では、文化、経済面での交流を閉ざさず、政治・外交面で、僕が言ったような意味合いでの、交流を堅持し、思想・理論闘争を行うべくなこと、 民間交流を促し、それに両政府は干渉、介入しないこと、今の朝鮮国の現状では、極めて限界がありますが、それでも諦めず持続してゆくとでしょう。

 さらに、あの文章で使った“民衆”概念について、一言細くしておきます。

 平和闘争の分野で、「大資本、1部独占資本まで対象にする」、と言ったのは、この、「戦争と平和」と言う人間の生命と自主と言うエレメンタルな、実存の問題に直接関係するが故に“民衆”概念は、広く規定しても良い、という意味合いをもって述べた、わけです。
 

               塩見孝也