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 −書評−
「戦争と平和 - 戦争放棄と常備軍廃止への道」
前田哲男 著  ほるぷ出版

(その2)

2006年 11月 7日

書評者 塩見孝也


前田哲男氏の「戦争と平和-戦争放棄と常備軍廃止の道」(ほるぷ出版) についての書評(その2)です。


(3) 著書の内容紹介と論評

前田氏(以下敬称略)のこの著書での章構成は

1章 何故戦争を語るか
2章 20世紀とは戦争にとってどんな時代であったか?
3章 「冷戦時代」とは何であったか
4章 平和思想の歴史と現在:「基地の島、沖縄の心」
5章 戦争を克服し、平和な世界を作り上げる。

となっています。

以下、各章での彼の主張を紹介しつつ、一定の論評もしてゆきます。



「1章、何故に戦争を語るか。」について

ここで「冷戦」の終了、旧ソ連・東欧圏の崩壊を眼前に体験し、その深い感慨の下で、氏は戦争の歴史を振り返ってゆきます。

彼が、この原稿を執筆したのは、1993年より一寸前のことですから、多分、この歴史的事態を目の当たりにして、想像力を羽ばたかせたことは推して知れます。

 メソポタミヤ地方から始まった、戦争の起源を解き明かしつつ、「何故人間は戦争するのか、その答えは大変難しい。哲学上の問題です」。

「生物学的理由(人間の闘争本能」)、社会的理由(群れの宿命)、経済的理由(持てる者と持たざる者の必然的対立)まで幾つもの理由が考えられます。確かにそれらが錯綜し、複合しあっているに違いありません。」と、氏は思索します。

彼は、それに続けて「例えば、戦争が生産手段や所有制度の発達と密接に関連しあっていることは容易に説明できます。」と社会・政治問題をしっかりと押えて後で、「経済的な条件、つまり戦争を起す物質的側面とともに、もう一つ、〈生物学的要因〉も人類と戦争との間に深く介在しているに違いありません。」とも述べます。

この見地から、生物学者、コンラッド・ローレンツの「群れの闘争本能、種内での悪い淘汰」らに言及してゆきます。

とは言え、「戦争は人類にとって避けがたい」「人間に付き物」といった戦争を正当化する見解に前田は与せず、これを批判する見地に断固として立っています。

マルクス主義的思考をあまりしない前田は(僕はマルクス護教論者ではなく、人間自主論を拠点としたマルクス思想の超克者を自認し、敢えて言えば自分流、塩見思想でよいと思っています)、このような命題に対して、主として欧米の学者、フランス人の社会学者、ロジェ・カイオワ、イギリス人・科学史家サミエル・リリー、或いはオーストラリア人・動物学者のコンラート・ロ―レンス、古代軍事史のアメリカ人、アーサー・フェルリらの知見を、この章では紹介しながら自説を展開してゆきます。

このような方法での展開は僕にとっては、相当新鮮でした。

尚、2,3章では、「戦略論」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」などの多くの著書を残す、間接戦略、制限戦争の主唱者で、クラウゼビッツ型の殲滅戦争を厳しく批判する現代イギリスの軍事史家、リデル・ハートや核抑止論の提唱者、現代アメリカの戦略思想家、ハーマン・カーンなどの紹介もあります。


◆戦争の原因についての前田氏の見解

いわゆる、原始時代、狩猟採集の時代では、「手から口に持ってゆく」生産力の段階故に、戦争をやる備蓄もなければ、それに応ずる社会制度も生み出されていなく、「狩猟や狩場や獲物の獲得争い程度の小競り合い、暴力沙汰」ぐらいしか発生しなかった、と判断します。
 「戦争は集団的、意図的、かつ組織的な一つの闘争である」「破壊のための組織的的企は立てである」、こんなこと(戦争)は、「狩猟、採集農業を脱した定住・農耕社会に至ってである」(ロジェ・カイオワ)

「容易にわかるように旧石器時代の技術水準では、“原始共産制”以外の社会形態は不可能だった。―――――部族全体が自然に対する厳しい闘争で不敗の戦線を維持せずしては、生き残れなかった。内輪争いはこの闘争における敗北と死を意味する」(S・リリー)
 ところが、「定住農耕が出現するに及んで事情は一変し、富の差が生まれ、階級が分化し、やがて国家が作られ、その日暮しの経済から、戦士を養う食料、武器を供給する技術力、良い土地を確保する、捕虜を使って農作業をさせる、属国に食料を貢納させるーーー」、こうなると「勝利が得られるならば、戦争は“引き合うもの”と考えられるようになった」(S・リリー)。

「こうして、戦争は古代国家を成り立たせ、野心に満ちた権力者は、戦争を自分の為に利用し、自己の権力を強化するために、国家の統制力や強制力を強めていった。」(前田)
 これは、指導者層が支配階級となり、その最高指導者が王に変質して行った事、それに対応する形で、共同体成員が人民に押し下げられて行った関係性の現出等を補足すれば,全く僕と同意見といえます。

ところが、氏は、このような「経済的条件」を押えた上で、先述したような「種内淘汰」説を、生物学者、コンラート・ローレンツに依拠しつつ、次のように展開します。

「わたしたち人間の骨の髄まで、今日、尚、悪しき遺産となってしみ渡っているところの攻撃衝動が、数万年の間、つまり石器時代の前期中、私達祖先に影響を及ぼし続けた淘汰の過程を通じて、破滅ギリギリのところまで来てしまったのは恐らく確かであろう。―――人間が、飢えや寒さや大きな捕食獣に捕まる、という危険をどうやらとり払い、その結果、これ等の危険が最早人間を淘汰する重要な要因とはならなくなったとき、正にその時に、種の内部に悪しき淘汰が現われて来たに違いない。こうなってくると、淘汰の腕を振るうのは、敵対しあう隣り合わせの人間同士がする戦争という事になる」(コンラート・ローレンツ)を引きつつ「人間が現代に繋がる文明の基礎を築き始めたその同じ時期に、経済と心理の両面から「戦争という悪魔」が住み着くようになった、という歴史家と生物学者の指摘は実に興味深いものがあります。」(前田)

「正義の戦争」「良い戦争」「民族の栄光」「祖国への忠誠」などの偽善性やボスニヤ・ヘルセゴビナにおけるセルビヤ人、とイスラム系住民の殺し合いを「破滅に至る袋小路に落ち込んだ闘争本能の悲劇」と見たり、ソ連崩壊にまで至った軍拡競争を「グロテスクな攻撃本能のサンプル」と見る指摘などは、生物学からする「悪しき淘汰」なのでしょうが、それは十分理解できます。

前田は「人々が本能や衝動、打算を頼りに部族の利益、権利を正義として追求するほか手段が無かった時代」の「旧態性」・「時代後れ性」を批判し、「そろそろ、「人間、国家、戦争との関係を本能、宿命、必然の絆から解放してやる時ではないか」と述べます。

このような見解を前提にしつつ、戦争の防御と攻撃、矛と盾の構造を解析したりし、戦争の歴史的進化を振り返りつつ、近代に差し掛かってからの戦争を三つの発展段階に分け、「三つの突然変異」として解析し、現段階の戦争の特質を探ろうとしています。
「三つの突然変異」とは、それまで、「古代国家では戦力を、奴隷に、中世君主制国家では傭兵に、依存していたのが、近代民族国家が生まれると国民が兵士の最大供給源になった」と指摘しつつ、それが「ひたすら激しいもの、残虐になってゆく方向にエスカレートし」、その階梯として

a,アメリカ独立戦争からフランス革命――「1975年、政治と戦争に人民とイディオロギーが雪崩れ込んだ年」

b,第一次世界大戦―――「戦争に人民と工業力が雪崩れ込んだ、軍人や市民の人命損失をはっきりと高めた年」

c,第二次世界大戦―――「これは世界と戦争に原子爆弾と人口の爆弾が雪崩れ込んだ年であり、伝統社会の衰退の始まりと国際的な政治・工業社会への第三世界の登場を意味する。」

と説明してゆきます。


●「2章 20世紀とは戦争にとってどんな時代であったか?」について

 ここでは、先の「三つの突然変異」を踏まえつつ、20世紀期間中での戦争の形態や質の変化、進化を追跡してゆきます。

 20世紀の戦争が「過去の戦争と断絶した戦争」で、「無制限戦争=無制限殲滅戦争」「地球規模」「戦争の自動化」、その例として毒ガス、ナチスのゲルニカ爆撃、日本軍の重慶爆撃ら空からの戦略爆撃ら「敵国そのものが戦場、兵士と民間の区別が無くなった、戦場で闘う交戦者の資格が無くなってしまった空からの戦略爆撃」「殺す感覚の不在したハイテク戦争」といった特徴を挙げています。

 彼は、国家が「国民国家」として整備され、徴兵制―国民軍が作られ、工業社会での大量生産と技術の発展が、すさまじい人員の死亡数、手段を選ばぬ殺戮戦、新旧大陸を越えた、如何なる島嶼も巻き込む全地球が戦場となる姿を、数字を挙げ、過去の歴史的戦争事件と比較しつつ、述べてゆきます。

アジアと西欧がぶっつかったレパントの海戦、アレキサンダーやナポレオンの遠征、(ジンギス・ハーンの世界征服戦争も付け加えるべき)など、児戯に等しい行動であったことを説明してゆきます。

 彼は、「英」「仏」(このようには、はっきりとは国家の体裁を帯びていないのだが、正確にはイギリス王とフランス王の戦争)の百年戦争の時代は、交戦者は別にして、民間人は英仏海峡を自由に往来できた、として騎士道的な意味での、人間主義的精神は生きていたことを挙げています。

 或いは、古代や中世の世界での戦争には、はっきりその意味を、捉えきってはいませんが、人類は、戦争は避けがたいにしても、それを避けた方が良い、という認識、或いはそこにはルールがあったことを指摘しています。

 例えば、p51では、古代ギリシャではオリンピヤードの祭典の日には、戦いを中止して、武器を置いて神々の下に集まった、このギリシャ英雄時代、彼等は殺し合いをやりながらも「戦争は克服できないが、何とかなだめ、ルールの下に制御してゆこうとしていた」と彼は指摘しています。

 ともあれ、前田は20世紀の戦争を

a,世界戦争という地球規模戦争

b,核、大量破壊兵器に代表される「工業期戦争」

c種、環境の死に至る「絶滅戦争」

三つに到達してゆく過程として特徴付け、総括してゆきます。

 そして、先の1章の「三つの戦争原因」を踏まえつつ、如何なる戦争であろうと、戦争を正当化する試みは「自殺願望症候群」であると言い切り、冷戦以降の時代は「戦争の終焉の時代」「戦争が最早時代錯誤となった時代」と、「はっきり言い切るべき」と主張します。


◆ ぼくの「戦争論」とは?

このような、彼の主張は殆ど僕には頷けます。

 彼の主張をどういう風に、僕等は受け止めたら良いのでしょうか。

 僕流に捉え返してみますと、人間は保命、自己保存を基底とする自主、自由、幸福を求める、欲望を持つ存在です。

この欲望は利己主義のエゴイズムも含みますが、自分の慾求実現が、自己が所属する社会やその中の諸集団、隣人の要求実現と一体でなければならぬことを知っている存在と思います。

これは、基本的には、「命を最高尊貴し、それを、社会的に輝かせようとする人間自主の慾求(欲望)をもつ存在」と言い換えても良いと思います。

しかし、原始共産制以降の私有制、階級分裂、それが故の国家が現出し、この権力を支配階級が牛耳る社会では、それぞれの時代の社会の存在性格・関係性と一体のエゴイズムを中核とする執権勢力、支配階級は、己の欲望、利益に基づいて、社会をリードします。
その欲望、利益に基づいて戦争も仕掛けます。

ある所有関係が行き詰まれば、革命が起こり、それを担う新興階級が、支配階級の座につきます。そして戦争を始めます。暫くして、その支配階級とその所有制度が行き詰まれば、叉その体制の下で成長した新興階級が革命をやり、叉支配下階級の座につきます。そして叉戦争です。

 このようにして、奴隷制社会、農奴制社会、資本制社会と移り変わってきたわけですですが、しかし、移り変わりはすれど、このような、エゴ的欲望、私有制、支配階級と国家がある限り、戦争は無くなる事は無く、一層素朴なものから高度なものへと進化・発展します。

 農耕社会、工業社会へと社会の生産力が発展してゆくに連れ、戦争も叉大規模化、高度化し、より残酷で、非人間的な総力戦、総殲滅戦になってゆくのは当然です。
 奴隷制社会、農奴制社会の素朴な戦争から、工業社会の資本制社会では、前田が指摘するように、世界規模の総力戦の無差別、皆殺しの総殲滅戦に至るのも明白です。

 何故なら、資本主義、とりわけ資本制帝国主義は、世界市場を作り出しつつ、人間の欲望を、価値、貨幣を持って無制限に解き放つ所有関係、経済システムの体制であるからです。

 この戦争の量的、質的拡大深化が止まるのは、その破壊的威力が、支配階級の生命とその基盤、地球を破滅させ、自己のエゴ的要求を実現すべき社会的関係性そのもの、民衆とその生の母胎、地球的自然、そのものを消滅させる危険の臨界点に達した時でしょう。
 この時、支配階級と彼等に統率された民衆は、戦争の愚かしさにいやおうなく気付き、その対処を強いられます。

 この時、人類は、支配階級も含め、私有財産制と結びついた自己の小欲、小我を克服し、共有性、共同体創造と一体の大慾、大我に目覚め、真の人間、自主性を持った人間に目覚め、私有制と国家を越えた、世界的規模の人類共同体、世界民衆共和国を目指すようにならざるを得ません。

 人間が、動物からヒト、人間に進化する過程で獲得して行った、人間的欲望、「命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせ、保障する自主性」を、それまでの自然史、自然発生的人間社会で、それにこびりつかせていた「社会的効能を報償に結びつけた」利己性を、階級社会と共に、否定、止揚し、完全な自主性を共同体創出と一体に開花させてゆく人類史的課題が提出された、ということではないでしょうか。

 人類、民衆は〈人類の自然史〉を終え、〈真の人類史〉を創って行く時代に入って行かなければなりません。

 前田が指摘するように、この臨海点は、二度の世界大戦を予備的段階にしつつ、その後の「冷戦時代」に於いて、完全に突入してしまった、と捉えられるのではないでしょうか。

このことは、誰でも感覚的に承認することでしょう。
とりわけ、決定的なその境界線は人類と地球滅亡の核爆弾とその運搬手段、ミサイルを人類、支配階級が作り出した時に敷かれると思います。
そして、そのことは、広島、長崎の原爆投下、日本人(朝鮮人も含む)被災として、人類に告知されていったのでした。


◆時折見受けられる前田氏の曖昧な展開

さて、前田氏に、敢えて若し一言、言うことがあるとすれば、次のことではないでしょうか。

前田は「工業社会」と言う言葉を使い、「資本制社会」「独占資本主義の帝国主義社会」と言う言葉はあえて避けていますが、社会科学の用語として、この概念は社会的に検証に耐えられるものとして社会に定着しています。

戦争が、様々な時代における階級社会とその国家の下での、権力を握る支配階級の欲望の産物であり、二つの世界大戦は、帝国主義支配階級となった、資本家階級が、自己のエゴ実現の、無政府、無制限な利潤追求戦に拝起した資本制帝国主義の所産であることは、はっきりと指摘しておくべきことではないでしょうか。

戦争の原因は「工業社会」にあるのではなく、その生産の私有制の所有関係とそれを機軸とする生産の仕方に原因があります。

独占資本主義の段階の帝国主義は、世界市場を前提にしており、その市場を独占しようとして排他的勢力圏を作り上げ、他の帝国主義を排除します。

世界範囲で、市場の分割と再分割の争いが続けられ、それは帝国主義国家の存立をかけた世界範囲の争いです。そして、それは相容れない、倒すか、倒されるかの非妥協的争いです。この経済的、政治的争いが、軍事的争いに転嫁され、世界戦争に発展して行った訳です。

このような、独占資本主義の争いであればこそ、クラウゼビッツが言うような無制限の絶対殲滅戦争となるわけです。

であれば、戦争否定、平和実現の良心、理性、ヒューマンな感性は、資本主義とその私有財産制の否定、そこで賃金奴隷として呻吟する労働者等民衆が、自らが主人となる共同体創出の闘いと結びつかなければならない、とも確認されるべきではないでしょうか。

この帝国主義との闘いと結びついてこそ、この人類的クライシスは解決の方向、段取り、手立てが得られる、ということではないでしょうか。

前田氏は孫子「戦争論」を高く評価しつつ、それと対照される形で、徹底的に非難するクラウゼビッツ「戦争論」こそ、独占資本主義としての帝国主義段階の支配階級の政治に基づいて引き出される「戦争論」です。

であれば、このような戦争批判は資本制帝国主義の批判としてなされるべきではないでしょうか。

帝国主義者の戦争論を理論化したクラウゼビッツ「戦争論」であれば、それは、無差別、無制限の大量殺戮を肯定し、それを、冷酷非情に徹底推奨するところにこそ、その核心をおいていたこと、それが故に、日本や欧米の軍人たちのバイブルとされてゆき、この延長線上に、アウシュビッツのユダヤ人大量虐殺や広島・長崎の原爆投下の一大戦争犯罪でもある歴史的事件が惹起されて行った、と捉えられるべきではないでしょうか。

クラウゼビッツの「戦争論」は、産業資本主義段階のブルジョア軍人、政治家、覇者、ナポレオンとその軍隊と真正面から闘ったプロシャ軍人の中から、ナポレオン軍事思想を超克するものとして、編み出されて行った帝国主義支配階級の普遍的な軍事思想、理論と捉えきることが重要と思います。

であれば、日本帝国陸軍、皇軍は、プロシャ直系であれば、クラウゼビッツ戦争論の無慈悲極まる総力戦―総殲滅戦思想、理論を明治以降実践してきたわけです。

こういった具合に、社会の発展段階やその性格らに、或いはその社会、国家の性格、そこでの支配階級の欲求の程度、質に沿って、いろんな「戦争論」、軍事思想、軍事理論は生まれてくると捉えてゆくべきと思います。

前田氏の展開には、唯物論的な「生物学」に依拠しているとは言え、「人間の闘争本能」「生物学上の種内、悪しき淘汰論」は、私的所有関係の批判と結びつかないで、無媒介に述べられ、時折曖昧な展開が見受けられます。

「冷戦時代の帝国主義者の核戦争体制構築、核抑止論も彼等のこれまでからする利潤追求欲望と他方での自らも含む種の絶滅の危険の相克、正にチキンゲームの全く愚か極まるギャンブル性から来ており、それは確かに「自殺願望」の心理、衝動とは言えないことはありませんが、それなりの経済的、政治的背景に基礎付けられています。

 であれば、民衆側の核戦争阻止、核廃棄の闘いも、唯物論的裏づけを持った合理的内容でなければならないのではないでしょうか。


◆孫子、クラウゼビッツ、レーニンについて一言。

レーニンは、クラゼビッツ「戦争論」を絶賛した、といわれていますが、前田はクラウゼビッツ「戦争論」を徹底的に批判し、こき下ろし、その反面で孫子に好意を示します。さしずめ、孫子が「戦争が避けられないにせよ、それをなだめ、ルールにしたがってなされるべき」ことを知っていた兵法家であったからでしょう。僕も同感します。

 「孫子曰く、兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず」、孫子開巻「始計編」、劈頭は、この文言で飾られ、以下12編が続きます。大概の孫子解説書もこの劈頭分の解説から始めます。

「戦争は国家の重大事であって、国民の生死、国家の存亡にかかっている。それ故に、細心の検討を加えてかからなければならない」

 「およそ、兵を用いるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。軍を全うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。――百戦百勝は善の善にあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」、戦争は、敵国を痛めつけることなく降伏させるのが上策で、撃破して降伏させるのは次善の策でしかない。――したがって、百回戦って百回勝ったとしても、それを持って最善の策とは言えないのだ。戦わないで敵を降伏させることこそが、最善の策である」

 他にも孫子には沢山の良きことが書かれています。

 ここには、それが、総体的奴隷制の中国春秋時代、国家、帝王を前提にし、それに身を捧げる臣下とは言え、或いは、非暴力思想、哲学、そこからの自衛論などの暴力論などの考察は不備にせよ、ごくごくまっとうな中国文化だけでなく、人類の遺産とすべきような人間哲学、戦争哲学、軍事論が展開されています。

「絶賛」は、不分明ですが、クラウゼビッツの「戦争は政治の別の手段による継続である」という文言をレーニンが高く評価したことだけは確かです。
クラウゼビッツは孫子思想の核心、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」を「博愛主義者の根絶すべき誤謬」として批判しています。

しかし、レーニンは孫子については、何も言っていません。

「戦争は別の手段による政治の継続である」、これは、独占資本主義の帝国主義国民国家にとっては、ごくごく当たり前のことでレーニンが賛成するのも当たり前で、別にレーニンが,「戦争論」の細目に賛成していたのではないと思います。

とは言え、かのレーニンがお墨付きを与えたとなれば、それは世界的風潮ともなれば、ソビエトから遊離したり、というより、ソビエトが消失し、たとえ「プロレタリア独裁国家」を肩書きとしていたとは言え、その国家の支柱として「赤軍」という新しい「民衆の軍隊」という性質を孕んでいたとは言え、常備軍としての「国軍」を持つことを常識としていた、レーニンの時代ではあれば、クラウゼビッツがコミュニストやソ連「赤軍」軍人にバイブルとしてもてはやされていたことは確かであろう。

しかし、それはとんでもない過ちだったと思います。

このような事態が、より矮小化され、スターリン時代、帝国主義国家とその常備軍に包囲される中で、決定的に変質し、ブルジョア国家と常備軍の一般的関係に限りなく接近し、定着していったと思われます。

この関係が、第二次世界大戦後の冷戦時代、社会帝国主義とその軍隊として、前田が憤慨するような「グロテスクな攻撃本能のサンプル」となって行ったのでしょう。

(以下、続く)


               塩見孝也