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 −書評−
「魂の民主主義」
-北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法-
星川淳 著、築地書館

2006年 10月 23日

書評者 塩見孝也


 日本国憲法についての本、主として反改憲論が主ですが、改憲論者のも含めて、随分と読んでいます。

 いろんな切り口で、はっ、とされるものも含め、皆、参考にしていますが、僕が注目したのは、
前田哲男氏の「戦争と平和、常備軍廃止の道」(ほるぷ出版) 及び 
星川 淳氏の「魂の民主主義 -北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法」(築地書館)です。


(1) 9条読み込みの指針となった前田と星川の書

 「“国家死滅”に連なってゆくような“国家”」を、展望し、その要に「常備軍の否定」を据え、それを、古来からの東西の歴史を概観しつつ、政治・思想的、軍事史的に跡付け、おまけにそれを理論的に展開した前田哲男氏の著書と、今回取り上げた星川淳氏の著書は、僕の問題意識ともピッタリ一致し、随分と参考になりました。

 この星川氏(以下敬称を略させていただきます)が展開する内容は、憲法9条1,2項を「戦争と平和」の問題や「主権在民と民主主義」を如何に捉えるか、或いは、これを指軸にして、「変革された社会は如何に追及されるべきか」において、随分と示唆的である、と僕には思われます。

 もう少し、言えば、ある面では、「高度に発達した資本主義社会」、別の言葉で言えば、「市民社会が成熟してきた」社会での、変革の視座とは何か、をインスピレーションさせる本とも言えます。

 僕にとっては、星川の感性、該博な知識を持ちつつも、核心を押えた、簡潔な、詩人的とも言える文章表現も手伝ってでしょうが、この本は、問題の核心に切れ込んでくる一冊でした。

 星川は先住民研究をフィールドにする著述家、思想家であろうが、もう10数年前からの、僕の縄文日本人やウチナンチュウ、アイヌ、インディアンら世界の先住民への関心、概して「ネオ・縄文日本人論」の思索、これと一体の喜納昌吉さんとのお付き合いの過程で話題となった人でもあります。



(2) 復権されつつあるイロコイ連邦らアメリカ先住民文化

 彼は、未だ、コロンブスやアメリゴ・ベスプッチ、或いはメイフラワー号の話以前の、北米大陸の狩猟採集民族、先住民、モンゴロイド系の氏族、部族であった人々、ネイティブ・アメリカンの歴史、その到達点としてあったイロクオイ部族連邦の成立から始める。

 この共同体で創出された平和の思想、民主主義の思想、この共同体、連邦で生きる「未開人」とヨーロッパ人からは見なされていた「気高い魂」を持った、「自由人」「自然人」の人々、ネイティブ・アメリカンを紹介する。

 そして、この平和思想、民主主義思想が、よく言われるギリシャから始まったとされる「ヨーロッパ民主主義」とは異質のそれとして、叉別の、「もう一つの民主主義」の源流をなしていた、と星川は論じてゆく。

 1章、「平和の白い根」では、インディアン世界で、伝説的とも言われる建国のリーダー、ピース・メ―カ―、グランド・マザーの物語、武器をホワイト・パイン(5葉松の一種)の根もとに埋める、自然を本源と見、自然と人間の一体化、共生を基本とする神話的とも言える戦争否定の平和思想、氏族(クラン)と部族の関係、その5部族(モホーク、オナイダ、オノンガーダ、カユーガ、セナカ)間の関係やその「ワン・マインド」に至る意思決定システム、自衛の際の族長と軍事指揮官の関係ら、今も続く「母権民主制」社会のあらましを語る。これは、母系民主制と言った方が良いのでは。

 これは、“ワンパムベルト(動物の皮紙)”に、象形文字で書かれていることも記す。

 星川が「国民国家」の「国」という字を使わず、邦(くに)という字を当てているのは理解できる。僕のパトリである。

 2章「生命と自由と幸福を求めて」では、このネイティブ・アメリカンのイロコイ文化、文明が旧大陸の封建制、絶対王政から、新大陸に逃れ、新しい社会制度、文化を模索せんとする、白人達に異様ともいえる大きな影響を与えたこと、そしてそれが独立戦争、合衆国憲法の制定、建国の基底に流れている、と説く。

 大地は、“食”を介して、そこで生きる人々に,もっとも合理的な文化を恵んでゆく。であれば、ヨーロッパ人が、大陸の文化を半ば否定し、新大陸で新しい文化を創出して行かんとすれば、ネイティブ・アメリカンの文化から影響を受けるのは、蓋し、当然といえます。

 インディアン達と交流し、彼らをよく知るフランクリンやジェファソン、ワシントンらが独立宣言、憲法起草者であったことも記される。

 アメリカ建国、憲法のインディアン・ルーツのことである。

 ワシントンは独立戦争後、このイロクオイ連邦を破壊した「破壊屋」と呼ばれていたことも記す。



(3) ネイティブ・アメリカン文化とそれを捉える星川の目と姿勢とは?

 3章「臣民から市民へ」――合衆国憲法の宿題、4章「真珠のワンパム」、終章の結び、となってゆくわけだが、星川が強調するところは、ネイティブ・アメリカンの文明ルーツや独立戦争・建国憲法の思想が、旧大陸に影響を与え、或いは与え合い、それが、太平洋戦争を経て、マッカーサーやニュ―ディール文化人、政策立案者たちを介して、日本国憲法に終結されて行ったと、説くわけである。

 星川は、マッカーサーらをやや美化し過ぎの嫌い無きにしもあらずですが、これを、“押し付け”ではなく、アメリカ人、実は、ネイティブ・アメリカンからの贈り物、プレゼントと解するのです。

 「臣民から市民へ――つまり、王の下僕から自立した個人へと生まれ変わった人々の体感する〈自由(フリーダム)〉が、スピリリチュアルな要素を色濃く含んでいたことは見逃せない。それは、自然や宇宙の本質と繋がる力を、誰もが等しく持っているという考え方だ。教会権威より各自の振興を重視するプロテスタントの思想と一脈通じるために北米に住み着いた、白人達に馴染みやすく、やがて空気のように当たり前の感覚となっていった。

 その自然/宇宙の本質をキリスト教的に、〈神〉と呼ぶか、多くの先住民のように〈大霊(グレートスピリット)〉と呼ぶか、もっと正確に〈大いなる(グレート)神秘(ミステリー)〉と呼ぶかに関わらず、インディアン達にとっては、一人ひとりが自然の美や力や聖性と直結できるからこそ、本当の魂の自由があり得た。もしそうで無かったなら、生命の根源と自分とを媒介してもらう何ものかに自由を縛られてしまう。自由と平等は〈魂の自由〉と表裏で―――自由であって平等でないことはありえず、平等で無ければ自由ではあり得ない。先住民にとっては、自由と平等は切り離せないのだ。

 そしてそのことは、生命の根源に関わるが故に、神聖な真実として尊重され、叉人間だけでなく生きとし生きるものすべてと無生物にまで適用される。-------北米大陸で生まれた自由思想、別名アメリカン・リベラリズムの根底には先住民のこうした〈ラジカル・リベラリズム〉とも呼ぶべき精神性がある。」(p70〜p71)これが、星川のネイティブ・アメリカン理解の核心であり、彼の思想の核心でもあろう。

 この星川の文章は綺麗で、ロマンに満ちており、おおむね卓見と言っても良いでしょうが、やや紛らわしいところもあります。

 人間は、自然を本源(自然、宇宙のいのち)とする存在です。しかし人間の本源性は、社会性、協同性を通じて汲み上げられ、実現、発現してゆくのであり、であれば、星川が見るネイティブ・アメリカンの世界が、共同体であったればこそ、その人々は、自然、宇宙の本質(“いのち”と言った方が、僕にはしっくり来ます)に直結できていたのであり、それが、私有制の階級社会であればどうでしょう。

 その社会では、その社会を批判し、自己と社会の利益、要求との一致を目指し、闘わない限り、そうやすやすとは直結できないであろう。

 現存の資本主義社会では、人間、民衆はその矛盾と“自主性”を発揮して闘ってこそ、宇宙の命と契合できるのではないでしょうか?

 僕には、星川が、この社会での闘いから隠遁しつつ、非常に高度な知的思索、瞑想を喜びとしている存在に、時々、仄見えるのです。

 星川は、「個人」という言葉を使うが、僕は、“自主的な個人”が、自己の役どころを得て、民衆の一人として闘ってゆくプロセスにおける「自主性」が無くては、「宇宙の本質との一致」は出来ないし、それは偽善を孕まざるを得ないと思います。この「自主性」こそ、きちんと位置づけて行くべきではないか?と思われます。


(4) 大西洋ダブルスパイラルから日本へ

 ともあれ、星川は上記の理解、思想から当時の旧大陸思想と新大陸思想の交流関係を次のように見て行きます。

 これが、旧大陸のトーマス・モアやルソーらに強烈な影響を与え、新旧大陸の交互影響(これを、星川は“環太平洋ダブルスパイラル”と命名する)の過程で、ロジャー・ウイリアムス、ジョンロック、ウイリアム・ペンなどの知的影響者を誕生させ、それが、モンテスキューやボルテールに、新大陸ではフランクリンやジェファーソンに受け継がれて行ったと主張する。

 そして、これ等の思想的スパイラルがフランス革命を勃発させていったとも見ます。

 これは、事実ではないでしょうか。

 叉、彼が、民族学者、文化人類学者ともいえるモルガンが、このイロコイ連邦を訪ね、ネイティブ・アメリカンを研究し、あの有名な著書「古代社会」を表わし、それをマルクスが懸命に研究し、その成果を持って、エンゲルスが「家族・私有財産・国家の起源」を書いたことらも、僕等の世代では常識ですが、ちゃんと指摘されていることは良いことだと思います。

 先住民の女性達が、“モカシン(革の靴)”を男達に送るか否か、で戦争するか、しないか、が決まった、そしてこのような先住民の中に確固としてあったフェミニズムが、アメリカ白人女性たちに影響を与え、受け継がれていった、という指摘も頷けます。

 叉、p58〜p59のセネカ族の歴史学者し学者,ジョン・モホークが語るヨーロッパ民主主義の批判は説得的であることを越えて、痛快ですらあります。

 僕も、ネイティブ・アメリカンについては、主として映画―――最近では「ニュー・ワールド」など――などが思索の材料なのですが、ネイティブ・アメリカンの解放運動指導者、デニス・バンクス氏(著書「聖なる魂」森田ゆかりインタビュー、朝日新聞社)などとも知り合いですし、大体のことは判るのです。

 星川は別に無視してなく、ちゃんとそういった視座を持ってはいるのですが、アメリカ史に於けるマルクス資本主義批判の比重、アメリカン・フロンティアに始まるインディアン抑圧、絶滅化のアメリカ史に於ける比重、アメリカ資本主義発展と一体の自由や民主主義思想の変質過程とその原因、マッカーサーの評価、そして上述した哲学らについて、機会があれば話してみたいものです。

 ともあれ、反・九条改憲を闘う僕等日本民衆にとって、憲法の思想史的ルーツを探るユニークな書として、見落とせない必読の書の一つと思います。

               塩見孝也