さて、本題に戻ろう。
一体“国(くに)”とはナンなのか、国家とはナンなのか、も議論してゆくべきであろう。
民衆の国民的戦争体験から生まれた、戦後憲法は、中には不完全で、政治的妥協の産物も含まれているが、或いは、その体験が、点検を見落としたものもあったであろうが、基本的には日本民衆の国民的戦争体験から生まれた、世界でも珍しいほどの、今の21世紀にも通ずる開明的なものだったといえます。
決して、アメリカに押し付けられた、民衆的、民族的主体性無きものとはいえません。
その側面、なきにしもあらずですが、次元の違う問題です。
戦前の「国」は、明治憲法に定められているように、実質は別の面を大きく有していましたが、法制上は、天皇を指し、民衆は「臣民」であり、主権は、「絶対主体」の天皇にありました。
国の形としては、西欧の「王権神授説」と同質であったのです。
天皇を「親(産土、うぶすな)」とする、そして民衆をその「赤子」とするような国体論は、「国家有機体論」として、ヨーロッパら世界の各地にあった社会観ですが、日本では江戸時代に日本流の国家論、日本独特の“国体論”として体系化され、生まれました。
これは、古事記(や万葉集、源氏物語などを)を文献学的に整理して行った、国学者、本居宣長らが基礎付けていった国学に起源します。
この国学は、一般に論理、科学、道理、合理性抜きの主情主義が特徴ですが、幕末期、平田篤胤らに於いて対外関係から日本人流のナショナリズム、国家主義として特異化され、超主情的な「天皇を国体の化身、神」と見る神がかり的、ファナティックな天皇信仰風潮を社会の一部に生み出しました。
ここで、少し押えておくべきことは、江戸時代、近世は、国学もそうですが、唯物論的で、民衆中心主義の安藤昌益の哲学思想もあれば、近松、西鶴の庶民文芸、芭蕉の俳諧、関孝和の数学や様々な人文科学、平賀源内、渡辺崋山、高野長英、緒方洪庵等の開明的洋学、儒学の日本的発展、幕末期の洋式軍事学や軍事の能力、或いは、マニュファクチャーから産業資本主義的経済まで、数え挙げれば切りが無いような、たとえ鎖国の中にあっても、欧米に伍するような多種多様な文化を日本人は発酵させ、花開かせて来た、という事実です。
明治維新は、この文化の総体の成熟の中で、実現されていったということです。
この辺を押えた上でのことですが、国学が「尊皇攘夷」「倒幕」「維新」、(実は列強における植民地化からの脱却、独立の保持、近代国家樹立という近代革命の日本流の変革の姿)の思想的、理論的支柱の一つとなったことは確かです。
しかし、攘夷、倒幕を推進していった志士たちは、決してそれだけに埋没するようなことは無く、洋学(蘭学ら)をやり、漢学(儒教ら)に、造詣深く、合理的、科学的、ある面では、唯物論的、弁証法的ものの見方をし、決して天皇を神とは見ていませんでした。
主情主義だけのロマン主義ではなく、論理性、科学性を一体化し、革命的ロマン主義を幕末、維新の指導者は持っていたこと。
良い意味でのロマン主義をもっていたのであり、それは、むしろ、天皇(制)を、近代国家を建設してゆく上での機関、「玉」と見做し、政治的に利用してゆくのが、志士たちの指導者の一般常識であったのです。
このような、維新の指導者たちの思想的、政治的識見における幅の広さ、深さは、勝海舟などの偉材を除けば、新撰組ら佐幕派などとは問題外のスケールであった、といえます。
だから、1930年代、国体明徴運動らによって、楠正成や高野彦九朗や吉田松陰らを天皇絶対崇拝主義者として、或いは篤胤国学を過度に、主情主義的に持ち上げるのは、やはり異常で間違っており、愚か、であった訳です。
ともあれ、対外関係での欧米列強との覇権争い、対内的な後進的な独占資本家、地主、軍閥、各種官僚らの執権勢力の存在は、既に、欧米では、社会の支配階級と民衆の闘争の主要軸が、ナポレオン的帝政、或いは帝国主義的植民地主義と共和主義、社会主義の勢力の闘争に変わっていっているにもかかわらず、敗戦まで、日本では、維新以降、対内、対外の諸関係が緊張するたびに、いわゆる「皇国史観」といわれる、天皇を神格化し、民衆を超国家主義的に統合し、侵略戦争、帝国主義戦争に駆り立てて行く政治やそのシステムを跋扈させて行くこととなりました。
「死んで,カミとなって靖国で会おう」が、内実はともあれ、ロマン主義的死生観の標語として煽られ、民衆、兵士たちは、戦争の是非など思考停止され、他民族を侵略すること、殺すこと、死ぬことの精神的、思想的諦観を一元的に強制されていったわけです。
「顕教」は天皇絶対の国体主義、しかし、「密教」としては天皇機関説の立憲君主制の使い分け、これが明治以降の近代日本、近代日本独占資本主義(資本家階級)のヌエ的な政治様式、政治手法であり、いずれも政治のキーワードが、天皇にあったことは確かです。
そして、天皇を絶対化することで、「軍事の統帥者としての天皇(民衆ではなく)」の金看板を持ち出して、軍隊は「統帥権の干犯」を、盾に、「皇軍」化し、「神の軍隊」となり、これが故に、軍部は、他の何者の干渉も寄せ付けず、独善的暴走をして行きました。
皇国史観を心棒とする神道によって、死生観は、「靖国に、カミとして祀られる」といった形で、民衆の死生観を、精神的に、一元化することで、軍国主義は完成されていった、といえます。
あらゆる侵略戦争批判の理性的、合理的思考を麻痺させ、思考停止させる、「天皇絶対、国体の護持、八紘一宇」の皇国史観、皇軍思想に基づく軍部独裁、「死して護国の鬼となる」死生観における靖国奉直思想、この三位一体が戦前日本軍国主義政治の基本構造、スタイルだと言って良いと思います。
こう考えれば、靖国神社の侵略戦争に果たした精神的、文化的役割は,測り知れないほど大きいといえます。
|