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小泉首相の靖国神社参拝を批判する

2006年 8月 14日

                    塩見孝也


(1)  「国(くに)のために命を捧げた人達を祀る、弔う、偲ぶ」、確かにその通りだろう、と一見誰でもそう思うかもしれない。しかし、それを、どんな内容で、どのように行うか、それが最大の問題です。

 僕は、祀る、という言葉はキライではありません。しかし、これが神道と一体に使われるがゆえに、否、これが神道言語であるが故に、靖国問題を論ずる場合には、控えることにしています。

 亡くなった人を、悼む、哀悼する、弔う、位の言葉の方が、適当と思うのですが、人間は亡くなれば、無機物となり、土に還ります。大地に還りながら、その大地は物質代謝の中で、叉有機物、生物を生み出してゆく。周り巡れば、人間も再生してゆく。

 これは、宇宙、自然と人間社会との物質循環、仏教流に言えば輪廻ともいえる事柄であろう。

 しかし、その死者の子孫や友人・知人、縁故の人々は、その人の生きた歴史を、それぞれの生の関係、それぞれの各種の社会で、社会的に記憶し、何らかの形で役立てようとします。こういった形で、その人の、生き様、キャラクター、もっといえば、精神、「霊」は、人類が存続する限り、文化として、永遠に、社会、子孫に生き続けて行くものと思っています。

 視点を変えれば、人間は、この事において、永遠性を持つとも言えないことはない。

 文化(広くは文明も)は、その良き物を残し、発展させ、悪しきものを、排し、それは蝸牛の歩みのようなものかもしれないが、少しずつは発展してゆく。しかし、永遠の約束された「千年王国」が現出する、などといった事は,明らかに幻想であろう。

 どう見ても、個的人間は愚かで不完全である。どんなにしても、人間は全能者、神などにはなれないし、集団で、上手く統一、団結した場合、一時は、神に近い力能を発揮することもありますが、あくまで個人としては、その場合でも相対的存在である。

 だから、人間は、問題をその場、その場で解決することにおいては、一番確かな「命の尊厳と自主性の最高尊貴」を基準にして、相対的には、明らかに、合理的判断をなし、何とか適切な対応をすることは、出来ます。

 しかし、永遠普遍の絶対的解決などなすことは出来ません。

 たとえ、その歴史的課題の解決を、一時代的になしたにせよ、次の未来に於いては、新たな問題を産み落とされ、叉、叉、人間は、馬鹿馬鹿しいことをやらかす、と思われるからです。

 その意味では、人間は、現実に提起され、解決されるべき課題には、悪戦苦闘しながら挑戦し、それだけは解決してゆく、ということであろう。

 ただそれだけのことであるが、それで、十分ではないでしょうか?

 そして、そのイタチごっこのような課題に挑戦し、悪戦苦闘し続ける事に於いて、やはり人間は偉大で、愛すべきと言って良いと我々は確認すべきではなかろうか。


(2)  さて、本題に戻ろう。

 一体“国(くに)”とはナンなのか、国家とはナンなのか、も議論してゆくべきであろう。

 民衆の国民的戦争体験から生まれた、戦後憲法は、中には不完全で、政治的妥協の産物も含まれているが、或いは、その体験が、点検を見落としたものもあったであろうが、基本的には日本民衆の国民的戦争体験から生まれた、世界でも珍しいほどの、今の21世紀にも通ずる開明的なものだったといえます。

 決して、アメリカに押し付けられた、民衆的、民族的主体性無きものとはいえません。

 その側面、なきにしもあらずですが、次元の違う問題です。

 戦前の「国」は、明治憲法に定められているように、実質は別の面を大きく有していましたが、法制上は、天皇を指し、民衆は「臣民」であり、主権は、「絶対主体」の天皇にありました。

 国の形としては、西欧の「王権神授説」と同質であったのです。

 天皇を「親(産土、うぶすな)」とする、そして民衆をその「赤子」とするような国体論は、「国家有機体論」として、ヨーロッパら世界の各地にあった社会観ですが、日本では江戸時代に日本流の国家論、日本独特の“国体論”として体系化され、生まれました。

 これは、古事記(や万葉集、源氏物語などを)を文献学的に整理して行った、国学者、本居宣長らが基礎付けていった国学に起源します。

 この国学は、一般に論理、科学、道理、合理性抜きの主情主義が特徴ですが、幕末期、平田篤胤らに於いて対外関係から日本人流のナショナリズム、国家主義として特異化され、超主情的な「天皇を国体の化身、神」と見る神がかり的、ファナティックな天皇信仰風潮を社会の一部に生み出しました。

 ここで、少し押えておくべきことは、江戸時代、近世は、国学もそうですが、唯物論的で、民衆中心主義の安藤昌益の哲学思想もあれば、近松、西鶴の庶民文芸、芭蕉の俳諧、関孝和の数学や様々な人文科学、平賀源内、渡辺崋山、高野長英、緒方洪庵等の開明的洋学、儒学の日本的発展、幕末期の洋式軍事学や軍事の能力、或いは、マニュファクチャーから産業資本主義的経済まで、数え挙げれば切りが無いような、たとえ鎖国の中にあっても、欧米に伍するような多種多様な文化を日本人は発酵させ、花開かせて来た、という事実です。

 明治維新は、この文化の総体の成熟の中で、実現されていったということです。

 この辺を押えた上でのことですが、国学が「尊皇攘夷」「倒幕」「維新」、(実は列強における植民地化からの脱却、独立の保持、近代国家樹立という近代革命の日本流の変革の姿)の思想的、理論的支柱の一つとなったことは確かです。

 しかし、攘夷、倒幕を推進していった志士たちは、決してそれだけに埋没するようなことは無く、洋学(蘭学ら)をやり、漢学(儒教ら)に、造詣深く、合理的、科学的、ある面では、唯物論的、弁証法的ものの見方をし、決して天皇を神とは見ていませんでした。

 主情主義だけのロマン主義ではなく、論理性、科学性を一体化し、革命的ロマン主義を幕末、維新の指導者は持っていたこと。

 良い意味でのロマン主義をもっていたのであり、それは、むしろ、天皇(制)を、近代国家を建設してゆく上での機関、「玉」と見做し、政治的に利用してゆくのが、志士たちの指導者の一般常識であったのです。

 このような、維新の指導者たちの思想的、政治的識見における幅の広さ、深さは、勝海舟などの偉材を除けば、新撰組ら佐幕派などとは問題外のスケールであった、といえます。

 だから、1930年代、国体明徴運動らによって、楠正成や高野彦九朗や吉田松陰らを天皇絶対崇拝主義者として、或いは篤胤国学を過度に、主情主義的に持ち上げるのは、やはり異常で間違っており、愚か、であった訳です。

 ともあれ、対外関係での欧米列強との覇権争い、対内的な後進的な独占資本家、地主、軍閥、各種官僚らの執権勢力の存在は、既に、欧米では、社会の支配階級と民衆の闘争の主要軸が、ナポレオン的帝政、或いは帝国主義的植民地主義と共和主義、社会主義の勢力の闘争に変わっていっているにもかかわらず、敗戦まで、日本では、維新以降、対内、対外の諸関係が緊張するたびに、いわゆる「皇国史観」といわれる、天皇を神格化し、民衆を超国家主義的に統合し、侵略戦争、帝国主義戦争に駆り立てて行く政治やそのシステムを跋扈させて行くこととなりました。

 「死んで,カミとなって靖国で会おう」が、内実はともあれ、ロマン主義的死生観の標語として煽られ、民衆、兵士たちは、戦争の是非など思考停止され、他民族を侵略すること、殺すこと、死ぬことの精神的、思想的諦観を一元的に強制されていったわけです。

 「顕教」は天皇絶対の国体主義、しかし、「密教」としては天皇機関説の立憲君主制の使い分け、これが明治以降の近代日本、近代日本独占資本主義(資本家階級)のヌエ的な政治様式、政治手法であり、いずれも政治のキーワードが、天皇にあったことは確かです。

 そして、天皇を絶対化することで、「軍事の統帥者としての天皇(民衆ではなく)」の金看板を持ち出して、軍隊は「統帥権の干犯」を、盾に、「皇軍」化し、「神の軍隊」となり、これが故に、軍部は、他の何者の干渉も寄せ付けず、独善的暴走をして行きました。

 皇国史観を心棒とする神道によって、死生観は、「靖国に、カミとして祀られる」といった形で、民衆の死生観を、精神的に、一元化することで、軍国主義は完成されていった、といえます。

 あらゆる侵略戦争批判の理性的、合理的思考を麻痺させ、思考停止させる、「天皇絶対、国体の護持、八紘一宇」の皇国史観、皇軍思想に基づく軍部独裁、「死して護国の鬼となる」死生観における靖国奉直思想、この三位一体が戦前日本軍国主義政治の基本構造、スタイルだと言って良いと思います。

 こう考えれば、靖国神社の侵略戦争に果たした精神的、文化的役割は,測り知れないほど大きいといえます。


(3)  ここで、特に強調されて確認されなければならないのは、戦後様々な民主化がなされ、それは、天皇(制)、皇軍、財閥、官僚、地主制、右翼らの多分野に及び、多くの民主的改革、戦争責任追及、戦争犯罪追及がなされたが、靖国神社だけは、国教神道の総本山という格付けは外されたものの、解体はされないばかりか、手が付けられてきませんでした。

 神道についても政教分離の原則は確認されましたが、神道、靖国についての戦争責任、戦争犯罪については公の追求がなされてこなかった、といえます。

 靖国の宮司、神官たちに戦争責任が無いとは、トテモいえません。

 だから、戦争責任の無追及故に、死者を愛した人々、遺族達は戦後、営営として、靖国訴訟を起こし、祀る事自体を憲法違反とし、その戦争責任性を明るみに出そうとして来たわけです。

 民主化の嵐から、何故このことが、見落とされ、追求されてこなかったのか?

 政治システムとしては、他に、民主化の嵐から、取り残されたものとして精神病院,監獄らがあるのですが、それは別のこととして、何故、靖国はそうだったのでしょうか?

 遺族たちを従えての「死者」を前面に押し出す、「弔い」の習俗は人間社会において、もっとも強力な、人心収攬行為と言えます。

 動物と違う人間らしさは、自分が恩恵を受け、愛され、愛した親ら、自分にとって、もっとも近しい人達を弔う、行為から創り出されて行ったとは、文化人類学の確認するところです。

 であれば、靖国神社への戦争責任の無追及の原因は、精心上、宗教上のもっとも奥深い民衆の人間観、死生観に踏み込むものとして、アメリカ帝国主義は勿論、日本民衆自身が「英霊の神域」に踏みこむことをタブーとする思想上の弱さがあったからではなかろうか?

 昭和天皇の戦争責任は公然と論じられました。

 しかし、如何に、死者たちを民衆的に弔うか、を伴った戦争責任の、より深い、精神領域での追求レベルでは、日本民衆は、踏み込みきれなかったのです。

 ナチズムは、木っ端微塵に「ニュールンベルグ」裁判で批判され、粉砕され、天皇も「人間宣言」をし、皇軍は解体されました。

 天皇絶対、「聖戦」論と結びついた「死んだ御霊を預かり、安置する」靖国は、2百何十万の兵士、戦争犠牲者を「祀る」名文、威光を盾に、民衆の前に、傲然と聳え立ち、この傲然さを前にしては、日本民衆、民族は踏み込んで行ききれなかったのです。

 つまり、その人間、民衆にとって、死者を弔う、という人間性の最重要性の事柄において、靖国神社の戦争犯罪システムの役割を、日本民衆は見過ごして来てしまったのです。

 死者を弔うという、人間性の普遍事と神道という宗教形態を帯びることで侵略戦争を肯定する、こととが絡み合わされ、混同させられたまま、超政治的に処遇され、戦争責任から、辛くも見逃されて行った、といえるのではなかろうか?

 それが、以降、60年間、命脈を保ちつつ、延命し、今、正に、侵略戦争、帝国主義戦争居直りの総本山、牙城として、「英霊の奉直」機関として、保守反動右翼、戦争推進志向勢力によって、時代錯誤も良いところながら、蘇らされ始めている理由です。

 靖国神社は、陸、海の軍省が、機械的に戦争犠牲兵士達を、確認し、その氏名を奉書し、保管するだけでありながら、いったん奉書されれば、それは「国体を守った一つに融合されたカミ」として、否応も無く「国体」の精神的支柱とみなそうとする。

 それゆえに、いったん「合祀された慰霊は神となったのであり、何か一つの慰霊として取り出すわけには行かない」といった全く、身勝手なインチキ議論で、遺族や友人の取り下げ要求も無視します。

 かくして、靖国神社は、「国体」復古、再侵略戦争肯定の牙城となるのです。

 一体、死者と実懇で、死者を愛した人々、遺族の感情、要求の上に、優位する価値など何処にあるのでしょう。

 このことは、一皮むけば、靖国神社こそが、主権在民、基本的人権の近代国家の存在原理を否定した、前近代的な前述した国家有機体説に立脚した、国家を至上化する、再侵略戦争の精神的策源地、精神的橋頭堡たらんとし続けてきた、ことを意味します。

 靖国神社こそ、戦争犠牲者の兵士たちを、「英霊」化し、「祀る」という名の下に、誰も戦後の批判も、寄せ付けず、唯一といってよい形で、侵略戦争肯定を公然と守ってきた、特異な宗教機関だった、のです。

 この意味で、この神社は、戦後、延命してきた保守反動勢力の、天皇、天皇家よりもさらに強力な、最も強力な精神的より所、最後の保守勢力の防波堤であったともいえます。


(4)  しかし,この「慰霊」を伴った日本軍国主義、再興の最後の牙城、「神域」も、揺らぎ、風化し始めて来ています。

 一つは、靖国訴訟や遺族たちの合祀取り下げの要求、二つは、侵略された中国や他のアジア諸国、諸民族の強烈な抗議から、今ひとつの三つ目は、宮司たちが「現人神の大御心に従う」と信奉してやまない、当の「国体」とみなしてきた、故昭和天皇や天皇家から、靖国神社流の「英霊のたてまつり方」に、主としてA級戦犯問題を皮切りに、クレームが出てき、天皇家その人達が、参拝しなくなっていることである。

 「人間天皇」宣言以来、自己の「国体」化を嫌い、後戻りを拒否しようとする天皇家と「聖戦の御霊を奉ってきた」復古派靖国神社勢力と意見が違うのは当然といえる。

 戦前流に言えば、靖国勢力は、「乱心賊子」「賊軍」なのである。

 であれば、靖国神社の「神通力」は、尽きかかり、ある面では、戦前軍国主義政治の残骸たることを晒し始めたとも言えます。

 それでも、小泉首相は、「一人間、一公民としての思想信条から、犠牲になった人々を弔うべく靖国に参拝する」「参拝を外国にとやかく言われて止めるのはおかしい」とマヤカシの小理屈を並べ立て、参拝しようとする。

 日本国首相、小泉氏は、「人としての亡くなった人を弔意する気持ち」を名文にしつつ、実は、公私を使い分ける小泉流詐術を持って、人心を惑わしながら、「侵略戦争を肯定する神社に参ること」で、日本執権勢力が再侵略の意図を持っていることや、それを準備している政治をやり続けて来たことを,さらに、これからも続行しようとする決意を暗喩で持って公然と宣言しようとしているのです。

 これでは、日本民衆のみならず、アジアの民衆、諸国、諸民族が危惧し、怒るのは全く当然といえます。

 アメリカさえ、危惧するのも当然といえます。

 現実には、過去のいきさつから、今もなお靖国神社を心の拠り所としている人が多数居られるのも事実ですし。しかし、今の情況では、靖国神社とは別な形で誰でもわだかまり無く戦没者の追悼ができる施設も必要なのです。

 国家権力の主導ではなく民衆が知恵を出し合い、特定の宗教色やイデオロギーを持たない、皆が戦没者の追悼と、平和な社会をを守ってゆく心を育んでゆけるような施設を創ってゆけばよいと思います。これが、小泉首相の靖国訪問への、僕のパトリオティズムからする応答といえます。


               塩見孝也