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A君への手紙


2006年 7月 6日

                    塩見孝也



 「自然権として、国家に自衛権あり」に立脚した、あれこれの、民衆側の改憲論の迷妄から、脱却し、「自然権としての自衛権は,自主性ある日本人民衆一人、一人にのみある」に立脚し、九条改憲阻止の旗の下、パトリ・コンミューン樹立の道を歩もう。
        

 A君へ

 前回の僕の「攻めて来たらどうするか」への君の意見、若干考えました。二つだったと思います。

 一つは「原始共同体では戦争は無かった」と言えるか?

 二つは、「自民党の憲法改憲草案には反対だが、自衛隊の存在は認める。専守防衛に限るべき、この点では、改憲すべき」、つまり9条1項、というより2項は書き直すか、3項として「専守防衛に限る」を付加する、点で「改憲するのも良い」、と理解しました。

 僕は貴兄の意見に、全く反対だが、憲法議論は大いにやるべき、貴兄の意見は、現在の民衆の側の混乱情況を、象徴的に、表現している点で、時宜に適した良い論題提起と思います。

 貴兄のようなスタンスの意見は、現情勢では、良く聞かれる意見と思っています。

 「現自民党案に反対」をしっかり、共通確認とすれば議論は生産的になると思います。

 ところで、本論に入る前に、一つ質問、何故自民党草案に反対するのですか、その理由を聞きたいと思います。

 1項、2項は認めて、現実論としては、3項で歯止めをかます、これだと一方で自衛隊の存在を原理的に否定し、他方では3項ではそれを肯定し、条件をつける、折衷論となります。

 2項を、書き改め、やはり自衛隊の存在を認め、それに、専守防衛の枠を嵌める、これだと自民党の「国家は自然権としての自衛権あり」で、自民党と原理的には、全く同じで、自民党が、海外派兵や極東条項→アジア規模の安全・自衛→世界規模の安全・自衛・日米集団防衛を言い出す前の、「解釈改憲論」の下での専守防衛論を20年から30年遅れで、民衆側が言い始めたことになります。これは、全く困ります。



1.
 原始共同体では、戦争は無かった、と思っています。

 食うのが精一杯で、余剰も僅かしか残らない社会では、氏族、部族の集団内では、階級分化もしていず、そもそも、ひと集団が、その集団を国家といった形のように、これまでの共同体性を、組織的に質的に再編成し、整備し切って居ず、そのような集団的整備を持ってから生まれる、殺し合うに足る武器も作りきれていません。

 化石の遺体も、階級社会、国家が生まれるまでの原始時代には集団が大規模に争って、殺しあう形で生まれるような、頭に矢が刺さっているものとか、刀や槍、石刀、槍,石の棍棒などで手足ら体が斬られたり、折られたりしたものはないと報告されてます。

 それ以降の時代では、そういった遺体が数多く発掘されているようです。

 戦争をどう規定するか、が問題でしょうが、いざこざ、喧嘩やその大きなものはあったでしょうが、基本的には、専門の軍事集団を擁し、他集団を組織的屈服させるための戦闘をやるにたる能力を、人類は未だ作り出しきれて居なかった、といことです。

 ある文化人類学者は、贈与品としての女性の問題で、やや大きないざこざなどがあった、と言っています。

 ネアンデルタール人がクロマニオンジンに滅ぼされたという説もありますが、僕の考えでは、そうではなく、自然への適応能力の差の問題であったと思っています。

 このような生産力の問題から見れば、この社会は貧困社会と言えますが、社会の性質としては、正に名の示すとおり全体と個の要求が、矛盾しあっているが決して敵対的にならず、基本的には一致し、人々は本能的に共同,協同、協働しあう共同体社会に生きており、、母系であり、素朴ながら、結構おおらか、純朴で良い社会であったと思われます。

 このような社会の片鱗は、現在のカラハリ砂漠のブッシュマンや様々な原始的な「未開」社会に窺われます。それも、もうグローバル化の中で、変わってきていますが。

 生産力が発展し、大量な余剰が生まれる次の社会では、ある集団がその余剰を独占しようとして、階級分化が生じ、その為に、指導権が支配・抑圧権に変質しつつ,国家が生まれてゆくわけです。

 こういった社会では、国家,国家権力の下に専門の軍事集団が創られ、他社会を侵略、征服、支配しようとして戦争が生じます。

 初期の素朴な軍事集団は、専門的常備軍に変わってゆきます。この常備軍は、国家の、つまり支配階級の、民衆抑圧と侵略の支柱となります。

 叉、このような軍人、常備軍は、戦争が商売であり、ステータスを上げようとして、常に戦争チャンスを探し、それで自己存在を誇示するわけで、これまでの国家間戦争では、軍人、軍部の主導性が決定的契機であったことは歴史の示すところです。

 もちろん、戦争の根本的原因は国家を牛耳る支配階級の利害ですが。

 警察は、犯罪らの民衆への支配秩序維持として生まれますが、常備軍の軍隊と違って、民衆との結びつきが強く、階級関係によっては、民衆の側の要求を充たす、いわゆる公僕的機能も部分的には有しています。

 しかし、軍隊は、ひとたび作られれば、戦争という獲物を探し、それ自体の存立目的に向け、ごろごろ転がってゆく本性を持って,止まることがありません。

 だから、戦争の全面的撲滅のためには、階級社会を共同体の民衆中心社会に変革することが、根本で、この観点から、現資本制帝国主義社会で、支配階級が引き起こす戦争には、民衆、民族の意識的部分、革命家達は断固として、民衆と民族を真に愛するがゆえに、革命的祖国敗北主義の立場を取り、戦争推進の自国政府打倒を追及します。

 当面その戦争マシン、常備軍を解体、廃止することだと思います。

 日本国の現憲法は、戦争を生み出す社会の性質の問題までには、踏み込んではいませんが、この常備軍の本性をしっかり踏まえ、それを意識的に批判、否定し、交戦権と軍事力の不保持を謳っています。

 その点で、素晴らしい憲法といえます。

 アメリカ国との関連で言えば、米軍の廃止、次に産軍複合体の廃止です。そして、資本制所有社会の共同体に向けての止揚、廃止です。

 戦前のアジア・太平洋戦争は、日米の国家を牛耳る支配階級の利害関係が、アジア・太平洋件で衝突し、それが非和解的になったが故に発生したものです。

 日本の支配階級は資本家(主として、独占資本家、金融資本家)、軍人勢力、地主勢力です。



2.
 A君へ

 貴兄の判断は、現実判断としてはそんなに間違っていないし、ある程度正しいと思っています。自衛隊を肯定していれば、問題ですが。

 しかし、このような現実的判断の根元、ベースに貴方はどんな考え方を持ってこられているか、という問題です。

 現在の情況判断は現実対応の判断と同時に、そのことの根底にある物事の考え方おも問うて同時に居ります。

 お見受けするところ、貴兄の言う箇条は正しいが、その統一的連関、一元的総合性はなく、プラグマチックに並べ立てているだけです。

 そっちの方の混乱の方が、むしろ深刻な、政治・思想問題として、重要だと思います。

 この方面での議論が必要になってきています。

 米軍が日本民衆を守ってくれない、とは貴方もそう思っておられるでしょう。

 そうだから、それにとって替わる「国軍=自衛軍」はそうしてくれる、と思っている、思い込もうとしているのではないでしょうか?

 「皇軍」は日本民衆を守ってくれたでしょうか?日清、日露戦争、「守った」というのは抽象的な観念だけであり、実際は多大な民衆が死にました。「“守る”の反対の結果」でした。

 アジア・太平洋戦争は,もっとひどい戦争となり、加害者として、他民族を侵略、殺戮し、苦しめ、日本人の側も、もっとひどい犠牲を出しました。

 これが、「独立・自存の自衛戦」とどうして言えるでしょうか!

 しかも、敗戦で、日本は米国に占領され、それ以降、独立のマヤカシは施されたが、実質は占領の継続で、従属国であり、人は「アメリカの属国」といっています。

 沖縄人をして「対米戦の前線に立て」と「皇軍」は、言い、「自決を強い」、自分たちは「軍隊だから」といって後ろに退いたり、本土に退却したりしました。それで、沖縄人は4人に1人の割りで死にました。

 これが、資本制帝国主義国家の常備軍の基本的な本性です。

 或いは、この軍隊が、米軍進駐の過程で、対米軍ゲリラ戦を挑みましたか?そうしていません。

 「敗戦の責任」を取って「腹を切った」“立派”な軍人や“愛国者”も極少数ながら居ました。

 しかし、戦争責任は「帝国主義間戦争」の責任であり、戦争責任の取り方は、本来、資本制帝国主義を廃止する、という別の取り方となるべきです。

 ともあれ、戦争責任は、敗戦責任だけに止められ、ただそれだけで、支配階級の指導者はおおむね、巣鴨に入り、転向し、米軍の忠犬になることを誓って釈放され、その人々とその子供たちが現在の執権勢力を構成しているわけです。

 常備軍、国軍は支配階級の利益を守る軍隊であり、民衆の利益を守る軍隊ではありません。

 むしろ、こんな軍隊は、愛する人、恋人や父母、妻子を「守る」と称して、逆に、犠牲を強い、徴兵された本人は、命を落とすことになっています。

 こんな国軍は、やはり、民衆の本人と愛する人達にとっては、やはり遠い存在に映ります。

 何故そうなるのでしょう。それは「守る」ということにおいての、原理的認識が始めから違っているからです。

 つまり、支配階級の利益を守る、しこうしてその後に、余禄的なものとして「民衆の利益を守る」という構造になっている「守る」だからです。

 先ず、第一に「民衆の利益を守る」が来ていないのです。

 このことを、「国益を守る」「主権防衛軍」「国家には自然権としての自衛権がある」とかの、抽象的建前論でごまかしているわけです。

 こういった錯誤に民衆は戦前、みんな落ちいられさせられていたのです。

 こう言った錯乱をせず、自分は自分が守る、自分が愛する人達は、自分とその人達で、直に手作りで守る、これが本筋の考えではないでしょうか?

 この覚悟と方策を民衆が樹立し切れてないから、民衆は「自己の自衛を、自己を主体とせず、仮称の擬似主体たる“お上”、国家とその軍隊に託した」わけです。 

 国家に自然権としての自衛権があるのではなく、自然権としての自衛権は、民衆一人一人にあるのです。

 それ以外で、自衛権を託してはならないのです。

 何故なら、自己の運命を切り拓いてゆくのは、民衆自身であり、他の誰でもないのです。

 「自助」、しこうして「互助」なのです。

 自助なくして何の互助でしょうか。

 自分の運命は自分自身が、半分以上切り拓かなくて他の誰が切り拓いてくれるのでしょうか?

 だからこそ、自己の弱さと闘い、外側だけでなく、裡の自分自身と向かい合える、真に自主・自立した民衆、日本人としての、自分の手に届く、自前の手づくりの自衛の思想とその体系こそ案出さなければならないのです。

 愛国心が、「愛国家心」ではなく、「愛くに心」であること、この意味でのパトリオティズムであることは僕が言い続けたことですが、これは、もっと煎じ詰めれば、民衆各人の、自分への自信、自負心、矜持の心、姿勢なのです。

 その上で、自負ある生き様をしてきた自分と自分と愛と信頼ある関係を取り結んできた人々の信義、信義の関係、情義の関係を何よりも大切にすること、このことなのです。

「自然権としての自衛権」とは、そのような関係性を大切にし、守る権利を人間は人間になってから、もともと有している、ということです。

 このような独立自尊、自己矜持の生き様を,我々日本人は、日本人のよき伝統から汲み取り、外国の良き文化、文明から批判的に摂取して、涵養して行くことです。

 僕は、このような生き様、スピリットを、あの黒澤明の「7人の侍」の「もののふ心」に見るわけです。

 誰だ!「それは“階級史観”から外れている。農民を搾取、寄生する封建主義の思想だ」という奴は!?

 階級史観は百も承知だが、日本人の全体にある「もののふ心」は、その階級社会の根底にあり、それを越えた民衆、日本人としての良き人間像、言ってみれば「民衆の護民官」としての「パトリオット」としての革命家像なのです。

1. 言ったことはやる。嘘は言わない。

2. 卑怯なことはしない。

3. 弱きを助け、強きをくじく。結局、民衆の立場にたつ。抑圧、侵略される民衆、民族の立場にたつ。そうしないことが、卑怯なのです。

4. 闘いと尚武の心を失わず刻苦奮闘する。

5. 間違えば、自己批判する。

6. 物事を真っ直ぐ、正面から見据え、そこから誰にでも理解できるシンプルで真っ直ぐな結論を引き出す。ひねくれ、二ヒリ、斜に構えて悦に入る愉楽を戒めよう。

7. 友、仲間を大切にし、裏切らない。人をあらゆる英知、努力を積み、信じ、愛しぬく努力をする。

8. 民衆を持てるあらゆる努力、英知を発揮し、その可能性を発揮できるようにする。この大義の為に、覚悟を固め、不覚を取らないようにする。

9. 遠大な志を持ち、「愚公(民衆)が山(権力、体制)おも動かす」で刻苦奮闘する。

10. 己に勝つ精神的営為を、いつでも、死ぬまで解除せず、刻苦奮闘する。

 叉、こういった、人間自主論を獲得し、実行してゆく、必要条件とし、決して十分条件ではないが、マルクス資本主義批判(それと、唯物弁証法、唯物史観、社会主義の学説)は決定的に重要なことも、確認すべきと思います。

 こういった自主自尊、自己矜持の日本人像、日本民衆像を、資本主義の問題性の批判、階級的観点こそ、表に出していないが「国家の品格」の藤原正彦氏は、僕と殆ど同一内容で主張しています。

 こう言った僕流の自主思想を開陳した意味は、これをそのまま、貴兄らに採用して欲しい、が為ではなく―――そうしてもらっても良いのですが―――、本音は、あなた方、青年各自が、自己の生きるプリンシプル、自分の「内なる憲法」を持って欲しいが為です。

 このことが、自主的生き方にとって一番大切なことだと訴えたかったわけです。

 こう考えてくれば、別に三島由紀夫をことさら、今、賛美する必要もないわけです。
 
 更に次のことが確認されるべきです。

 左翼の僕などがパトリとしての「愛国」をいい、民族の問題のタブーを開封していったら、このことに目覚めるのは良いのですが、途端に超国家主義の極右にまで、走ってゆく清算、乗り移りの軽薄な風潮が生まれていますが、これはよくありません。

 僕の「左翼の中にあった民族を語ること、をタブー視する」思潮の批判、民族いついての開封行為の試行は、長い年季があり、その前の「連合赤軍問題」総括の苦闘から導かれた、という、辛い、これまた年季が入った前史があることを忘れてもらっては困ります。

 ブント・日向派などの改憲促進風潮など警戒すべきです。

 鈴木邦男さんの最近の著書など、「愛国心宣揚」が、軍事力強化の他民族排外主義に繋がってゆく風潮を戒めている点で、評価すべき点もありますが、対米従属・安保批判の弁は殆ど見られず、資本主義批判となれば皆無で、靖国批判も全くない点で、彼の民族主義一本だけの思想の矛盾をさらけ出している点、等もしっかり見て置くべきです。

 「民族主義だけの体制内革新」、「資本主義リベラル」がどういった限界、矛盾を抱えているか、彼の著作は見事に曝け出しています。

 僕には、人間論における自主思想、民衆第一思想があり、「民族」をパトリオティズムとして言っているのであり、叉世界人類共同体=世界民衆共和国の射程で、それを語っており、しかも、がっちりマルクス資本主義批判を堅持して言っています。

 ともあれ、A君、こういった「マルクス主義の超克、脱構築」の基本構造を抜きに、「民族を語ること」が超国家主義まで走ってゆく、現今の風潮には気をつけてください。

 こういった、自主自尊、矜持の気風で自衛の努力を創造しつつ、己のパトリ、地域で、パトリ・コンミューンを打ちたて、それを社会的権力にしてゆくことです。

 当然、このパトリ・コンミューンは世界民衆共和国、世界人類共同体(諸民族の個性ある連邦から融合を目指す)に連なるものです。

 叉、自衛の準備は、そこに占める政治、文化の問題の決定的重要性があるのですが、ここでは省くとして、特殊に、現在の対米従属軍たる自衛隊を当面反米愛国のパトリ軍の方向に改造してゆく工作が重要です。

 叉反安保・反改憲の闘いの中で、パトリ・コンユーンの自衛体制が創られてゆく可能性があること、作ってゆくべきことも指摘しておきます。



3.
 さて、A君、こういった、改憲議論において、

1.「国益論」「自然権としての国家自衛権論」の批判、概して「国民国家論」の批判 、その基本ベースに資本主義批判、帝国主義批判、グローバル帝国主義批判が据えられるべきこと。

2.自衛の主体を「国家」に置くのではなく、己、民衆、各人に置き、そのパトリ関係におくこと、

3.パトリ・コンミューンに置く、物事の考え方が必要であること、

等を前提に獲得すべきです。

4.僕は「9条改憲阻止論者」ではありますが、決して「護憲」論者ではないこと、「9条改憲阻止論」から、「新たな国家像」や「憲法像」を展開していることを知っておいてください。この意味では、僕は大局的、原理的に見れば、はっきり、改憲論者であります。その上に、“革命的な”を冠するところの。
 
 このことにつきましては、以下のような歴史的経過、総括とも関連させて捉えるべきです。

 社民党、かつての社会党、共産党が何故自民党の「解釈改憲論」などに改憲議論で負けて行ったかは,こう総括できます。

 「国家」を前提とする、社会民主主義思想ゆえに、「自然権としての自衛権」の主体を、自民党と同じように「国家主権論」を容認してしまい、国家においてしまい、自主性ある民衆個人とパトリ共同体に置くことが出来なかったこと、

 この点では、修正主義であった共産党もまた同じで、あったこと。

 自衛権論争で、主体の設定を間違っていたからです。

  新左翼は、この2党とは違って、「社会主義、プロレタリア独裁憲法」を対置し、改憲阻止論を展開したわけですが、「人間が闘えば闘うほど消えてゆく、人間無き、階級(闘争)至上主義」故、内ゲバや連赤の「共産主義化」の「粛清」事件を惹起させ、新たな人間自主論をベースとする「新たな社会像(社会主義像)」、「新たな憲法像」を提出し得なかったこと。

 僕などが、やっと、「人間自主論」を獲得し、「マルクス主義の超克」「脱構築」を追及し、ここから、「人間自主論」を礎石とする、「階級論に取って代わる民衆論」、「“国民国家”に括られる民族論に取って代わる民族論、つまり、パトリティズム論」を打ち出し、やっと、戦後憲法像を超克する「指令型、粛清型、官僚統制型でない」、こういった意味での「プロレタリア独裁憲法ではない」「新しい憲法像」を提出し始めていること。

 こういった経過があったわけです。

 このことを、踏まえて、貴方の「改憲論」を、批評すれば、貴方も社民党と同じような、民衆個人を否定する国家主権論の上に立つ「自然権としての国家自衛権」を、知らず知らずに前提にし、自衛権の主体を、民衆個人、パトリにおいていません。

 と言うより、僕のように整理し切れていず、其れゆえに、「国家自衛権論」に流されているわけです。

 其れ故に、プラグマチズムで実際判断をしているということです。

 自民党案に反対し、「専守防衛」付加論は、中間主義、折衷主義ですが、実際的役割では、功罪相半ばする提案で、自衛主体を民衆個人とパトリに置く方向を強めてゆけば、問題はなくなります。

 しかし、反安保闘争や自民党、公明の与党の改憲策動やその為の諸反動攻撃と闘わず、権力をその中間主義で補完するようであればそれは困ります。

 でも、貴方の判断は、思考不足から来、実際には、明らかに権力補完派ではないのですから、このような「専守防衛付加」派の改憲論者とは、誠実な共闘、統一戦線を組んでゆけば良いと思っています。

  最後に、貴方の「自衛隊を国軍と認定する(と、思われる)」考えに、三つほど危惧を述べておきます。

 1.自衛隊が完全な米軍、米国の従属軍で、従属覇権のマシンであること。

 したがって、これを「国軍」などと錯覚すればするほど、貴方は民衆としての自主性や自分による、自前の自衛作風、スタイル、陣形構築の努力を放棄 することとならないか?

 要は、自衛において己のなすべきことを問わず、結局、権力者の自衛プランに、あれこれけちをつけつつ加担、補完する他人任せ、自衛の問題を他人に下駄を預ける対応になっていないか?

 2.自衛隊を正式の「国軍」と認定し、そこに自己の運命を託せば託す程、日本社会は軍国主義風潮が強くなり、そうであれば、国家主義が跋扈し、主権在民や民主主義の社会や国家の存在の基本原理が解体されてゆくこと、に加担していることにならないか?
この超国家主義は、一時的には、予想以上のスピードで跋扈します。

これは、結果としては、権力者たちの改憲草案の線での改憲ロードマップを側面から手助けすることにならないか?

 3.自衛隊を国軍と認定することは、「専守守防衛」を言いつつ、現在の米帝国主義、日本帝国主義の二正面戦線(中東と朝鮮・中国)の戦争準備に、結果としては加担して行く結果にもなってゆかないか、自衛隊の存在を批判、否定し、海外派兵に反対してきた民衆の反戦・平和運動を清算する事にならないか?
 
         (7・4、了)

               塩見孝也