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対ブラジル戦の結果に思う。
サッカー雑感その3

2006年 6月23日

                    塩見孝也


(一)
 日本代表チームは1点先取しつつも、4−1で敗北した。

 玉田の最初の1点は、僕等に一場の夢を見させてくれはしました。

 しかし、残念であるが、これが世界のレベルであり、日本のレベルが上がったにせよ、世界のレベルもまたそれと呼応するか、それ以上に、日進月歩で上がって行っているのであり、実力差はいかんとも仕方がなかったことを率直に認めざるを得ない。

 ブラジルは、僕の予想以上に強い立派なチームでした。

 サッカーの歴史において年季が全く違い、底辺から這い上がってゆく選手たちの意気込み、鍛え方が全然違います。

 これに比すれば、日本選手は、技能、メンタル面、ヒジカル面でも如何ともしがたい差が見受けられました。

 日本チームは、こう考えれば、良く健闘したし、前2戦に比すれば、大きなミスもなく、相当のまとまりを持ったチームになっていたと思う。

 しかし、集団戦ですら、個人技、カウンター攻撃、ミドルシュ―ト、パス回しや連携プレーらを織り交ぜ、決めるところを確実に決める秀逸さがありました。

 さすが、前チャンピオンだけのことはありました。

 サポーター達が、プラカードに書いていた「ジーコ監督、ありがとう」「選手の皆さん、ありがとう」という文言に、僕も、全く同感します。

 サポーターとしては、「先ずありがとう」こうでなければならないと思います。これで、良いと思いました。

 ジーコのこの試合での選手起用で、僕は納得しました。



(二)
この、結果を持って、ひとしきり4年後に向けて、一大論争が巻き起こるのは必定であり、そうであるべきです。

  しかし、それが、一部の特権的上層部や関係者だけの論争に留められはならないし、そうはならないと思う。

 日本人全体、国民的レベル、民衆レベルで論議されてしかるべきです。

 それだけの価値ある議論だと思います。

 サッカーW杯を巡るスポーツでの、諸民族、諸国民の闘いは、スポーツが、人間の自然や対人間同士への根源的な闘争本能を、むき出しの生存競争の発現にとって換えて、それを、人間、民族、民衆、人類の平和と福祉の向上に向けて、人間的に鋳直し、浄化し、発揮させてゆく対象であることを明白にしつつあるのではないか?

 サッカーは時代にマッチしたスポーツとして、諸民族―人類のこれまでの負の文化・文明、世界(核)戦争、環境、科学、拝金主義ら資本主義の諸非人間性等の危機に取って代わる、積極的、創造的な日本人―人類の文化革命を呼び起こしつつある、呼び起こさなければならぬスポーツではないか?

 民族が、国民国家の枠を超え、民族の良きもの、個性を残し、輝かせながら人類へ融合し、人類を創造して行く梃子となるスポーツであるのではないか?

 ポーランドのフーリガン事件は起こったが、WBCに於けるアメリカの邪なエコ贔屓な行為は入り込む余地は無かった。

 覇権主義の軍事大国のアメリカの影が何処に見受けられたでしょうか。

 こんな連中の政治を入り込ませる余地をサッカー文化は無くさせてきていると言えます。

 映像は、アフリカの女性サポーター達の応援の姿の中に、溌剌とし、喚起雀躍とする現代女性たちの人間性、女性性を映し出していました。

 国際結婚をした、夫婦は、それぞれの出自のチームを応援しつつも、互いのチームが健闘しあうよう気遣い合っていました。

 敗北したサポーター達は、勝ったサポーター達を「コングラチレーション」と祝福していました。

 ブラジルの人々は「ジーコが指導する日本チームとは闘いたくない」と言い、ジーコの友人は、「日本を応援する」とすら言いました。

 人間の極限に近づこうとする自主・自立した個人の技能が、にもかかわらず自分のチームの全体性とどう協調しあうかを、俺がおれがの自己中をどう克服するか、を孕みつつ、競技の極限の中で、美しいもの、素晴らしいものとして、認めてゆく感性、情操、価値観は確実に定着しつつあります。

 人間、民衆、民族の人類へ向けての気高さが、いろんなところに見受けられていたと思います。



(三)

 選手たちのぶよぶよ性、脆弱性、はあると思う。独立自尊、もののふのプライドにおいて、尚足らざる所あり、と思う。

 しかし、その原因としては、選手たちの努力を超えた、サッカー協会、日本社会の政治、文化、教育等とむすびついた歴史的社会的性質の問題領域が大きな比重をもって指摘されねばなりません。

 折りしも、朝鮮国ミサイル発射問題に見られる宿痾の日朝関係が惹起され、他方では日銀総裁福井の国の金融政策を私する腐敗、堕落行為が発覚したように、或いは、教育問題に象徴されるように、権力者たちが、理想、理念、道義を失いその日暮の近視眼に終始しているのは明瞭です。

 彼等は、近代の侵略の過去を居直り、アメリカにぶら下がり、改憲に血道を上げ、覇道で持って世界に君臨しようとしていますし、国内では、執権勢力本位の政治を私する慣習を恬として恥じようとしない。

 この在り様とサッカー文化に創出されて来ているような感性、情操、価値観との落差はどれほど余りあるあるでしょうか?

 サッカーで世界に伍してゆくには、民衆を中心とする、国際的文化の良きもを摂取し、それを日本の良き伝統と結合させた、日本民衆、日本人の「徳高き、信義ある自主日本」に向けての文化革命が今ほど要求されている時代はないと思います。

 

               塩見孝也