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我が「愛国論」と、そのベースとしての「民族論」

2006年 2月 20日

 塩見孝也


読者の皆さんへ

以下は僕がかねがね考えてきた「愛国論(パトリオティズム)」と「民族論」の基本骨子です。

「日本従属帝国主義とそこから引き出される反米愛国統一戦線」を発表した関係上、その続きとして、まとめて発表した方が良い、と考え、ここに発表します。補論など含め、レジュメふうの部分が大ですが、その分、僕が何を言いたいか、はっきり捉えられるようになっています。

いずれ、きちんとした文章に仕上げようとおもっています。よろしくお願いいたします。


僕の愛国論の基本主張、骨格と骨子

僕は、この列島で、人間の命を最高尊貴し、それを輝かせる自主性を尊貴し、愛し合い、日々営営と、協同(協働)し合い、創造的努力を発揮し、これまで、連綿と生きて来、世界平和、人類福祉、民主と共和を重んじ、社会の諸害悪是正に奮闘する、又わが国の良き、伝統を重んじ、かつそれを革新せんとする、我が同胞、日本人を心から愛する。

僕はこのような日本人を愛し、誇りに思っている点で全たきの愛国者であります。全きの愛くに(国)者、愛郷者であります。

全きのパトリオットとしての愛国者であります。

しかし、民衆を支配し、搾取、収奪し、特権を享受するような階級と被支配階級に分裂した社会から生まれた、国家、歴代の時代の政治国家、現存の国家、現実にそのために機能する国家権力を愛することは出来ない。

その言説の「愛国心」をにせものとして徹底批判する。

元寇に対する、北条時宗達の武士や日本民衆の闘いを除けば。

僕等は、「近代国民国家に総括される」これまでの「民族の在り様」を超えようとしているのである。

日本人は既に、この段階に、基本的には明治維新において到達したのであり、問題の所在は、その爛熟が、日本人の危機を生み出しているという、現実から出発する。

そのような「近代国民国家」に総括される「民族の在り様」への固執が、先の戦争の過ちと敗戦を生み出したのである。

かかる対応を、形態は違え、本質的には同じ質の過ちを再び繰り返さんとしている現国家の愚かしさとその蒙昧なる「愛国論」を、民衆の側の「愛国論」を積極的に提起、対置し、徹底批判する。

僕等は、その爛熟、そして腐敗にいたらんとしつつある僕等の社会と政治の現実をしっかり見詰め、それを越えてゆく観点で、国と民族を愛するのである。

僕等は、「愛クニ者」としての、愛国者であるが、断じて愛「国家」主義者ではない。

僕等は、一人の民衆としての自主・自立した日本人、そして、そのような人として、愛し合う男女を核心、単元とするその家族、友人、知人、近隣者、協働者の、最も確かな絆、関係性の総体を愛する。

この総体と列島の大地、自然、そして、人と自然を繋ぐ“地域”の総体を愛する。

“ふるさと”は「ウサギ追いしあの山、小鮒釣りしあの川……」の赤とんぼの歌に象徴される「遠きにありて思うものなり(室生犀星)」のように僕等一人一人の歴史の中で、親や隣人に愛された、この上も無く、優しく、切ない自己の過去の思い出の原像の中にたゆとうてもいます。

しかし、全ての狭雑物を取り払って、僕等、民衆にとって、最後に残ったものが何であるかを考えれば、地域(場所)と、それを、包摂する、現に、今、生き、互いを必要とし合い、愛し合い、尊敬しあう人間関係の総体として、何よりも“ふるさと”は存在すると思います

僕等はこの“ふるさと”を愛着します。

それは、赤とんぼの原像おも含んだ、遠く縄文以来の綿々として続く日本人の生き年、生きた、生き様、個々人の諸物語の集積としての歴史を凝集し、それを、今、現在、具現し、輝かさなければならないという想いから、そうするのではないでしょうか?

我々、日本人は、この“ぱとり(源郷)”への想いを土台に、その上に、様々な新生の必要な事物を創造的に構築してゆくものと思います。

パトリの謂いは「源郷」、ラテン語の故郷、くにを意味します。

英語では、ミサイルの名前に付けられたり、映画「パトリオット・ゲーム」「いま、そこにある危機」などでは、ハリソンフォードは「愛国家主義者」のCIAであったりもしていますが、原意は上記です。

一番近いイメージはメル・ギブソン主演の映画「パトリオット」に漲っています。

“ぱとり”を愛する心が真実の愛国心、その共同体を愛する人が真実のパトリオット、愛国者といえます。

パトリオットは、何よりも、人間の本性である命を大切にし、それを輝かせる自主性(=共同性)を最高尊貴する人間中心思想を大切にします。

又、世界の平和と人類の福祉に向け、現存の国家、国境を越えようと志向するし、諸民族の共和、共生を志向します。

パトリオットは国際主義者であります。

又パトリオットは、国家によって疎外され、抑圧される全ての民衆に依拠し、物事の全てを人民大衆中心で解決しようとします。

或いは、我が祖国から生まれた、自分おも含めて自然をいのちとみなす、自然愛好文化、世界に自主・自立し、そのことで己の存在に賭け、社会に責任を持とうとする、もののふ文化を継承し、さらに、日本近代の歴史を教訓化した、世界平和の文化を愛好します。

※ クニと国家の規定、その関連と差異民衆の現実に取り結んでいる協同の諸関係とそこから生まれる共同体志向と願望は私有と階級分裂から生まれた、支配階級が牛耳る似非共同体、国家に取り込まれ、執権勢力の観点から、解釈しなおされ、すり替わったものとなる構造の関係

※ クニ、ふるさと、パトリとは場所性をベースとする、愛し合う男女、家族、友人、知人、協働者などが取り結ぶ諸関係や単位、思いやり、エートスで包まれたもの、ここでは全体と個の矛盾はあるが、決して敵対的でなく、話し合い、協働の中で、普段に生まれ、普段に、そのたびごとに解決されてゆく。或いは、そういった可能性を多大に孕んでいる。愛し合う男女が核心であろう日本流の共同体(コミューン)である。


1. 国家と民族、パトリ的共同体の関係とは?

近代「国民国家に総括されない」民族、「民族であって、民族を超える“民族”」の追求、そのような「民族」とはどんな、内容のものか?

我々の求め、規定せんとする「民族の概念」「イディア」としての「民族」とは、“資本主義とその頸木(くびき)たる国民国家からの解放を求めている”「民族」といえる。そこに、現体制のグローバリズム国家論と「超国家主義」国家論の二つの民族論、それと本質的には同質のマルクス主義「正系者」を自認する人々の「近代主義国民国家論」との違いが鮮明にある。

あらゆる存在が、人類が発生して以来、歴史的社会的であるように、民族も「歴史的社会的存在」であり、の標章が血縁ではなく、基本的には、場所性、言語、文化である以上、その文化において、従って、己の民族の特性(自然愛好、もののふ性に凝縮される自主性と和、世界平和の三つ概括される)に加えた、人民性・国際主義性、人間の自主性、人類性の協同性、の四つの民族の普遍性を、本質的特性として強めてゆく民族に、日本人は向上してゆかなければならない。


2. かかる民族の歴史的形成過程、展開過程と現在のグローバル帝国主義の段階での位置とは?「民族の起源と展開過程」

ここでは、基本的なアウトラインを描き、位置をはっきりさせれば良い。

「民族」の展開過程:

@ 民族の基層として氏族、部族として発生

A 初期「民族」=部族連合として。「大」部族、実質は部族連合のような国家→中期「民族」国家→後期「民族」国家といった初期、中期、後期の展開過程

B 民族の確立期:近代国民国家に総括される民族となる。――近代での確立期

C これからの現代の民族→人間の自主性、人民性、国際主義性・人類性において自己超出、自己否定する民族に、上記の日本人、3特性を継承、革新しつつ、自己脱皮してゆく。これは、日本人にとって4期目の大革命期としてあります。

日本人の民族形成史についてを、やや詳細にアウトライン的に見てゆくと以下となろう。

氏族、部族の原始共同体、(狩猟・採取、母系、一万年の縄文時代、無階級社会、共同体)
→第一期の移行期としての、大革命期・英雄時代、春秋・戦国期のような時期が日本でもあった。

古代奴隷制社会、(日本では総体制奴隷社会)=「大」部族(=有力部族を中心とする部族連合)社会=大部族国家、ないし部族連合国家・農業、稲作、私有制の発生、階級分裂、階級社会、国家の発生と階級抑圧→階級闘争、民族創世記の古代において、天皇家の登場、大和朝廷とその後の「日本国」としての展開、諸部族の連合、統合、異民族(というより、異系統に発達していった)蝦夷、アイヌ、ウチナンチューの侵略、併合、宥和の歴史

→第二次大革命期が古代から中世、近世=封建社会への移行期(平安末期から鎌倉・室町・戦国期の時期)があった。

封建・農奴制社会(前期と後期あり、そして、その中間の戦国期、実質は古代から中世、近世への移行期)へ
→第三革命期としての幕末から明治維新、自由民権運動からなるアジアで最初の近代民族・民主主義革命(ブルジョア革命)期を経て

近代国民国家に総括される民族(民族の確立期)

第四移行期としての革命期にある、民族を自己否定し、類へ向かうパトリ民族へ(現代から)


3. 日本人と他の民族の普遍性と差異、日本人の特質とは?民族性とは?その3特性とは?

民族の生成、発展の歴史にも、基本的には、共通な普遍性があります。日本人もまた、その普遍性を持ちつつ、成長してきました。

しかし、日本列島という、地政学的特質に規定され、様々な特性、個性を帯びつつ発展してきたことも、事実であります。

日本列島は、アジア大陸の東端にあって、日本海で隔てられ、四方を海に囲まれ、亜熱帯から亜寒帯地方を含んだ、独自の四季らをもった、海の幸、山の幸、平野の幸に恵まれる豊かな自然を持っています。

この豊かな自然の中で、日本人は、日本人の個性を持った、文化を、大陸など四方の文化、文明や近くは欧米の文化、文明を、侵略されること無く、充分なるクッションを持って自分流に摂取し、創造してきました。

原始における、自分たる人間おも自然と見、その自然をいのちと見る自然と一体となって生きる自然愛好や共同体志向の文化、自分で耕し、その土地を武装して守ろうとするところから発生してゆく独立・自尊、自主の集団に責任をもつ、もののふ文化、そして、近代の過ちを経ての世界平和志向の文化、といった3特性を日本人は持ってきました。

このような地政学的特徴と文化の特性によって、日本人は、異民族に、戦後のアメリカの征服、占領を除いて、基本的には侵略、征服の経験を持ちませんでした。

又、近代の欧米文化の影響にあって、その消化不良からの物真似として、他民族を侵略する非人間的、反民衆的、反民族的行為は秀吉の朝鮮侵略を除き、近代以前は基本的にはやりませんでした。

域内においては、内戦や先住民侵略やウチナーへの侵略を、他の民族同様行ってきましたが………。

この点において、異民族が別の王朝を建てる、といった大陸ではありふれた歴史を日本人は持っていません。

「皇統連綿………」「万世一系………」といった言説も、このような主として地政学的要素に負うのであり、社会的、政治的、主体的要素では、様々な言説があるにしても、特別に神秘的原因によるものではありません。


4. いま一度、国家と民族の関連は?

原始時代を除く、民衆中心の民族共同体・パトリと歴代国家とは一貫して相容れない。

国家とは民衆、民族の共同体の疎外体、「民衆中心の民族」、「民衆の民族共同体」と歴代の「社会構成体(ウクラウド)」とそれを総括する「国家」とはレベル、位相が違う。そして、階級社会では、それは、永続的に対立する。
同時に、民族の位相と社会構成体の位相の違いから、社会は革命され変わったり、国家が変わったりしても、民族はなくならず、その変化に応じつつ、成長・発展してゆくということもしっかり押さえておくべきです。
つまり、社会主義に、仮に社会が変化しようと、民族はなくならない、という単純な事実を忘れてはならない、ということです。
国家は、この差異を誤魔化し、あたかも同一の如く振舞う。
民衆にとって、あるべき国家、つまり民衆共同体は、常に、幻想的で不可視の存在である。

民衆、民族の描く国家と現存の国家、政治的国家、いわんや政治権力とは相容れない、一致しない。

民衆にとっては、階級社会では、常に不可視のイディアルな幻想の共同性、したがって、国家とは、永続対立し、民族(人民)は、この乖離を永続革命で理想の共同体を創出せん、とする。
マルキスト流に言えば、「共産主義」)で一致させようと描く。はて、どうなることやら?


5. 愛国心とは?民衆にとっての“くに(国)”とは?パトリオットとは?

民衆の自主、自立した人間の愛し合う諸関係(場所、食、労働、生産、分配、消費の生活、宗教、科学、芸術ら文化)とその要求、絆がもっともシンプルで、確かな単元となる共同体の謂いである。

自主・自立した民衆の愛し合う男女や友人、知人、共に生き、働き合う、諸関係とその場所の総体、そこでの諸関係と物語、思い出の集積、アイデンティティー、エートス、愛着心の総体が“、ふるさと”、“故郷”と言われる、やや幻想化されるが、一番民衆にとって、確かな社会、共同体のことである。それを僕等は“くに(国)”と言うのである。

愛国心とは愛「国家(こっか)心」ではなく、この“くに(国)”を愛する心、愛「国」(“くに”イクオール=パトリ)心、愛郷心に核心がある。

「祖国」とは愛する人々や家族とその諸関係、その大地、自然の総合の社会、そう言った単元体の謂いである。

それを、を核心とするが故に、僕は、この単元の愛国心の“くに”を“パトリ”、“故郷”、“ふるさと”、“まほろば”と捉える。

社稷を祀る故郷、共同体が国(くに)の原義:、一切の狭雑物を剥ぎ取ってその後に、エキスとして残るもの、それが、“パトリ”である。

ここから、国家が掲げる「愛国心」を吟味してゆくべきである。

僕のHPの2005・3・18「僕のパトリオティズムについて、その1その2その3」を参照してください。


6. 真のパトリオットは現存の国家、政治的国家、いわんや政治権力など愛さない。

現存の社会構成体と国家とその権力を解体し、民衆中心の共同体とその自治体、自治機関に改造してゆく。



7. パトリ論補充

現存の社会の基底部、民衆の生活の中に潜在し、国家、権力の裂け目から、浮上し、顕在化し、成長してゆく、創造、想像されてゆかなければならない共同性、共同体、民衆の自治体(パトリ的人間関係と単元ベースの、思い出、物語の集積としての)への愛着心、アイデンティーを大切にする心、これが僕等の愛国心である。

その共同体の民衆の自治体、自治組織とその自治機関、システム、制度のイメージの創造、従来では評議会、ソビエト、レーテ、フンタ、自主管理組織、人民公社、コンミューンらら。日本では、まほろば、くに、講や結い(?)、邑など。

レーニンの「国家と革命」への一言。彼は、そういった下向した人間分析、人間の共同体志向から分析していない。国家暴力論と暴力革命、プロレタリア独裁が強調され、階級と国家消滅の問題が、人間論とパトリ的民族論の無考察故に、「階級対立非和解」論ゆえ、深く考察されていない。


8. 内包性としての一人の人間の持つ自主性の類性への歴史的下向と類へ向けて開いてゆく、国民国家の壁を越える外延性

いずれにしても民族は現存の国家、民衆と自己民族の抑圧と他民族抑圧、結局類破壊のブルジョア独裁の国家(資本主義生産関係の維持、階級抑圧の)に総括されないもの、それを類に向けて超えてゆくものとして想定されなければならない。

常に民衆中心で、一人の人間の自主性の尊重、啓発に下向する内包性と国民国家の桎梏、壁にとらわれないで、それを超えてゆく外延性を持っているし、そうなければならない。

9. 人間の本性との関連で

以上を人間の本性から捉えなおしてゆくべき。

人間の動物と違う本性、それが、群れ性を、道具的労働を介して自己の命を輝かせるプロセスで生まれる、社会性、つまり、その本質として、人間は自己の向上に向け、己の自主性(=協同性)を開花させてゆこうと闘う。人間の社会性の本質、自主性とは何か?

ここは、僕のHP、8・11の「人間の自主性とは?その一」や8・16の「人間の自主性とは?その2」や「私の幸福論」(オークラ出版)を参照してください。


10. 文化、文明の永続革命としての、民族維新、共同体運動とは?その特質項目について

「共同体(コミューン)」への「国家」、「国民国家」を超克してゆく運動を、別に、この言葉にこだわり、この言葉プローパーで蘇生させる、必要を僕はほとんど感じないが、マルクス主義左翼の人々を今は可なり対象にしているので、そういう目的で、「共産主義」論から規定しなおすとすれば、以下となります。

とは言え、マルクス主義に拘らない、「共同体」志向の人にも分かるように説明します。
a. この人間の自主性(協同性)を鍛え、類性、国際性において、或いは民族性において、開花させてゆく運動、

b. 各人の地位と役割を集団、共同体(創出)運動の中で正しく定め、各人の“居場所”を与えてゆく運動、

c. この点で、各人と社会の命(いのち)を革(あら)ためてゆく運動、

d. 民族が資本主義(国家)とそのグローバリズム運動から起こる拝金主義、個人(利己)主義、低水準な快楽主義、搾取、収奪と闘い、それを克服し、民衆の各人が自主化し、自主性、協同性を打ち鍛え、歴史的に、その本源の類に回帰し、他方では、世界の単一の類に向けて、各人が自己を実現すべく開いてゆく、類の本源を実現して行く運動、

e. 民衆の自己覚醒、自己革新、自己変革の運動を、民族プローパーの分野においては、伝統を評価し、それを温故知新し、革命的に革新してゆく、日本人と人類のいのち(命)を革(あらた)め、維新(いしん)してゆく運動。

f. 民族の類への本源回帰性を一方では歴史的に捉えなおし、他方では、世界に向けて、類的共同性を具体的に実現してゆく一個二重の運動。

g. 自主性実現を根し(ないしは根基)にし、それを伸ばし、愛、幸せ、信義、徳、義ら人間の精神的、倫理的諸徳目を高めてゆく運動。日本人の文化、伝統を捉えなおし、それを革新してゆく。

h. そのための科学や生産の上昇を協同で実践してゆく運動、生産力の向上を必要条件とはするが、それを活かしてゆく、十分条件としての人間の自主・共和を目的とする運動。

i. 民族(日本人)と個人と類の英知、創造力を、他の民族のそれとを融合し、世界的な類の規模で総結集、開花させてゆく運動、

以上のような全てを包含するような、左翼の言う「社会革命」の内容も含む、資本の無政府性に民族性、人間性、人類性、人民性において轡を嵌め、革命してゆく広義の文化(つまり、政治、経済、文化を包含する文化、文明)に置ける大革命、文化・文明の大革命としての永続革命である。


11. 文化、文明の大革命、永続革命の出発点としての反米愛国運動とその統一戦線

以上のような観点で、反グローバリズム、米帝・帝国主義との闘いを繰り広げ、反安保、反改憲の闘いを実行し、民衆と民族の命と自主性を革め、鍛え、育ててゆく運動である。

我々は、この愛国主義運動において、日本資本制帝国主義の文化、文明に、挑戦し、社会革命を開始するのである。

それを、差し当たって日本従属帝国主義の矛盾を衝いて、プロレタリアートら人民大衆の連帯、共闘を要(かなめ)とする人民主義と民族主義を統一した反米愛国の統一戦線運動から開始するのである。

外に対しては反安保、反侵略(反日米両帝国主義打倒!世界革命)、内に対しては、資本主義諸害悪の是正、資本主義に轡を嵌める運動から、これを廃止するヘゲモニーの創出してゆくのである。

これを、「世界共産主義(社会主義)」、「世界プロ独」、差し当たっての人民大衆中心の世界諸民族連邦、反米帝愛国(あいくに)の統一戦線と反帝のプロレタリア統一戦線(自国帝国主義との関係では、執権勢力の戦争準備にあっては、自国帝国主義打倒・革命的祖国敗北主義の)の一個二重の推進を通じて実現してゆくのである。


12. [補論]自己史も含めた戦前・戦後の「愛国論」の総括すべき諸点のメモ

・民衆の側の愛国論、愛国心を積極的に示し、執権勢力の二つのインチキ愛国論、愛国心を公然と批判し、国と民族の進路、在り様を明瞭にしてゆく。

・この提起で、反米愛国統一戦線とプロレタリア統一戦線の理念的基礎を作るべき。

・受身ではなく、攻勢に出るために。また実際攻勢に出れる。

・「革命と伝統」の課題に挑戦してゆく。

イ: 左が、「民族を語る」ことを、「戦争反省、総括から自己禁止」していたことのしっかりした総括。現在の「愛国心」、「愛族心」なきマルキスト左翼の現状が、この30年の後退の根源とすら言って差し支えない。

ロ: 戦前、戦後の誤った「社会革命派」と「民族革命派」の二つの民衆派潮流の総括。

ハ: 自分にひきつけた総括。誕生から幼年期の父母を通じた総括。
自分にひきつけた総括。誕生から幼年期の父母を通じた総括。
中・高、浪人、大学、学生運動、ブントと「裏声」で表現した「愛国」、毛の「反・米愛国運動」としての評価、ブントと日共の「愛国」への対応と双方の限界、赤軍派―連赤のアポリアを請えんとした萌芽、「新しい反米愛国」。
日共と朝鮮の「愛国論」の違い、「新右翼」諸君との切磋琢磨、彼らの現在的問題点、限界。
西郷の発見。
パンフレットNO4の総括:資本の一国性と世界性、労働の側の世界性と一国性の矛盾の相違、依然、資本の絶対的限界性と労働の側の世界性を踏まえ、一国性、国民性、民族性を止揚して行ける優位性。NO4の限界としての民族性の欠落。


ニ: 維新以降の右と左、民族派の総括を維新以降の日本近現代史、140年を通じて行う。



13. [補論]民族論

1) 日本における社会主義的愛国、愛族の道の歴史、レジュメ。

西郷に始まる(連続、永続革命の出発点、自由民権→幸徳→大杉→共産党(山川に始まる)→挫折→回復→隆盛→挫折→もう一度回復へ

他方で、玄洋社・黒流会→北・大川(老荘会)、井上ら農本主義→→挫折→反共へ→米中連合・ソ連崩壊を経て、新右翼の登場→左右連合

2) 社会主義「愛国論」の見地が、一度も正面から、左で追及されていない。

「社会主義的民族論」の追求は、マルキストの脳味噌のコペルニクス的転換、パラダイムの転換を必要としているから。

3) 社会主義的民族論の最大限的見地から問題を立てる。

ここから、「反米愛国論」を整理してゆく。日共の問題の立て方と全然違う見地、こちらのイデイアル、未来で確立する民族の在り様を真っ直ぐに提起する。

重要なことは、民族は、社会が変わっても、変わらず連続していること。

この連続する民族革命の関連、双方向的関連で、社会革命も位置づける。

4) 何故、右翼は敗戦直後反米愛国闘争を提起できなかったか?

何故左翼は反米愛国闘争を提起できなかったか?2段階論と関係あり。



14. [補論]社会主義と民族について

(一)社会主義と民族の原則的観点とは?

1) 社会主義は、どの政治イディオロギーよりも、民族差別に厳しいイディオロギーであり、民族の自主、自決権を尊重する。

それは、人間の本性、本質である、自主・自由・自立にとって、民族の自主・自由・自立、そういう意味での民族の主権が、根本的前提、不可欠の必要条件となるからである。

それは、ブルジョアイディオロギーでの自決権の尊重の水準、質を越えて、そうでなければならない。

何故なら、搾取、収奪、金権を基礎とする特権的階級、資本家(とりわけ独占資本や横暴資本)は、民族主権の尊重より、利潤追求に流されがちだから。

利潤追求のために、他民族抑圧に目をつぶったり、自民族の主権を侵害されることに、鈍感になりがちであるから。

それに、比し、被搾取と収奪、差別の賃金奴隷であったプロレタリアートはより敏感なのであるから。

2) しかし、社会主義国家もまた、国家であり、さまざまな原因から、堕落し、官僚特権階級を生み出す。これは、近・現代史の鮮明に示すところである。

それは、もっとも先鋭な問題として、少数民族や先住民族の抑圧、差別で発生する。

スターリン主義の発生の最初の原因、発端が、グルジョア民族の抑圧であったことを思い出すべきである。

これは、スラブ民族のソ連党やコミンテルンを通じて、域内他民族、域外他民族(の指導者、「コミュニスト」)の支配、侵略、征服に帰結する事態ともなった。

この点で、民族の源郷を愛し、パトリ共同体、パトリ民衆自治体とその文化を最大尊重し、社会主義においてすら、その国家に対して、相対的に自主で、距離を置く。

ここでも、「愛くに主義」のパトリオティズムの原則は貫徹されるべき。

3) 先進の資本制帝国主義の資本家たちは、より鈍感となる。

「国民国家となった民族」として、「諸民族の主権尊重」を誇るかもしれないが、往々にして、それは、少数民族、先住民族を抑圧しているのである。

大体は、域内の多数民族、大民族専制となっているのである。

このような、帝国主義の下での、大民族が抑圧民族の地位にあることは、明白である。

従って、意識的プロレタリアート、社会主義者は、自己の帰属する民族の域内外の他民族抑圧と闘うことを民族的課題の第一に置く。分けても、侵略戦争に反対することに、自民族の最大の課題とする。

他民族抑圧、少数民族、先住民族抑圧は、自らの人間的本性である人間の自主性、そしてパトリ共同体の、自らの否定であるから。愛郷主義者として、その思想的営為にかけて、全てを賭けて闘うのである。

4) 帝国主義相互間での、従属と被従属の問題がある。領土の帰属問題もある。

この場合、この問題が、他民族抑圧の覇権主義、侵略主義に関わってくることであれば、徹底真剣になるが、およそ、プロレタリアートにとって、さほどの問題でない場合、帝国主義間の覇権主義や、侵略主義、帝国主義間の対立に利用されないよう、巻き込まれないように、全力傾注してゆき、帝国主義政治に巻きかまれたり、利用されたりしないように、これと切り離されて関係住民相互間の協議で解決するようにする。

このような問題に関して、問題が広がり、戦争関係に立つなら、「自国政府打倒」「戦争における自国政府の打倒」の「革命的祖国敗北主義」の見地に立つ。

概して、他民族排外主義やショービニズムに巻き込まれないようにすべく独占資本と闘う。

5) 「日本帝国主義は、確かに、従属帝国主義である。しかし、自分自身の帝国主義的利益のために、アメリカ帝国主義への従属を利用している。」

「アメリカ帝国主義もそれを利用している。」

「持ちつ、持たれつ、という点では、ブルジョア的な帝国主義者相互の平等な攻守同盟、階級同盟の性格も有している。」

「或いは、反人民の反共反革命の同盟でもある。」

確かに、この面が、冷戦時代、前面に出た、事は確かである。

しかし、果たして、これが、基本的な主要面、本質といえるでしょうか?

違います。決して、単なる「同等、平等の階級同盟」とは言えず、又単なる、「反革命の反共軍事同盟」とは言えず、「アメリカの占領支配、征服の延長にある、基本的には従属化された、戦勝国と敗戦国、占領、征服国と被占領、被征服国の関係、征服宗主国とその属国の同盟関係」であり、決して対等、平等の同盟関係ではない。

この、見方は、戦後世代のコミュニスト、新左翼が、自己のパトリオティズムを正しく展開できず、倒錯して、表現した結果である。

アメリカ帝国主義は、いろんな性質の同盟関係を結んでいるが、占領征服して、従属化して、同盟関係を結んでいる日米安保の根本的性質の違いを、はっきり見ておくべきである。

ブントら新左翼の「自立帝国主義論」から来る、「対等、平等」の日米安保を「反人民的帝国主義同盟論」と見る見方は、社会主義革命論は正しかったが、間違っていた、ないしは一面的であった。

日米安保は、アメリカ帝国主義が支配し、主導する、日本人抑圧の、従属同盟である。

共産党の32テーゼを引き摺った、「帝国主義復活」否定の「従属独占資本主義、二段階戦略、社会主義革命否定」論は間違っていたが、従属論は正しかった。

日本は、高度に発達した、帝国主義であるが、主権はアメリカが握っている、占領が、継続している従属、隷属国家といえる。

冷戦時代、「安保ただ乗り」的要素もあって、高度成長した面もあるが、朝鮮戦争、ベトナム戦争に加担させられ、常に冷戦の矢面に立たされたし、様々な主権侵害を受け続けたし、高度成長は、基本的には、日本民衆・民族の(労働者、技術者、経営者ら)の勤勉、創意工夫の賜物であり、アメリカのおかげではない。

冷戦が終了し、資本主義は、グローバル帝国主義の段階に到達し、アメリカ一極支配が現出した。

そして、この過程で、日本独占資本主義は、アメリカ独占から集中攻撃を受け、長期不況に落ち込み、長期低迷を強いられている。

しかも、その上、2度のイラク侵略戦争、占領に、加担させられ、今や、イスラム・アラブとの全面的戦争に狩り出されていっている。

この不義、無道性故に、執権勢力は三分解しつつあります。

かかる、事態は、プロレタリアートら日本人民にとって、対岸の火であるでしょうか?
断じて、そんなことはありません。

実質占領の継続としての従属の下で、
a:不道義の戦争にますます加担させられ、それがためにアジアとも敵対しあう関係の泥沼に入り込まされ、日本とアジアと世界の平和を脅かす主要な元凶に成り果てさせられて、いっています。
b:日本民衆の生活危機、貧富における階層分化は益々進展し、容易ならざる事態に入り込まされていっています。
c:アメリカ式スタンダードをもって、日本社会は、病み、「人間の壊れ」が深化している。日本は、表面上とは全く、ことにして、住みやすい、安寧・福祉の社会では全くなくなってきています。
d:この、従属帝国主義権力によって、日本人民、民族は、思想、政治、文化の面でも、決定的に、正常な思考を混乱させられ、精神面、思想面で、莫大な歪み、ねじれを強制されている。
e:従属権力は、この執権勢力内部の分裂、政府危機、政治危機の始まりを、隠蔽し、矛盾を強権的に糊塗するために、一方で、中国・朝鮮排外主義を煽り、他方では、「共謀法」ら強権支配と、テレビ、マスコミを使った、木目の細かいマインドコントロールの洗脳工作で、イディオロギー支配を強化しています。とりわけ、貧富の階層分化らの実態とは、乖離した映像、急所のまずい所の隠蔽、痴呆的な軽薄短小のポピュラリズム、日本国民総暗愚化をはかっています。

日本の対米従属構造は、別の言い方をすれば、これまで日本人民、民族は、この対米従属帝国主義の下、苦しみ続けられてきたが、今や、日本独占資本主義、資本家階級すらが、苦しみ続けさせられ、危機に立たされている、こと、それで、それが、悪循環し、より倍化され、累乗的に日本人民、民族、国民を危機に追い込んでいるということです。

本来、資本主義国、帝国主義国相互間における主権侵害の征服、占領の継続としての従属、被従属の関係は、執権勢力ら支配階級にとって、不利、不当であると同時に、その、不利、不当は、媒介的面も持つが、累乗的に、プロレタリアートら人民大衆に転嫁されて行き、人民大衆、民族の不利、不当と必ずなります。

とりわけ、主権否定の占領の継続としての、従属支配の同盟である限り、民衆にとっても決定的に、不利不当なのであります。

本来の意味で、形式的に銘記されているブルジョア的権利の要求は、民衆の権利、パトリ共同体の権利確立の前提条件である。それが十分になるか否かは、プロレタリアート等のもっと広く、深い、本質的な民族的権利確立という闘いにかかっていますが。

ブルジョア権利としての独立・主権確立の要求は、一時は資本の要求と並存し、平行して、進むが、より深いパトリ的、社会主義的民族独立要求に包摂され、より徹底化されて行き、その要求の赴くところ、それは、資本主義と国民国家の否定にまで行き着くのである。

(二) 日本人(ヤマト)と域内少数民族、ウチナー、アイヌ、域内居住外国人に対して。

ウチナーの無条件の自決権、分離と結合の権利の保障、アイヌに関しても同様。

しかし、ブルジョア的民主主義の権利の枠内では、限界で、プロレタリアート等社会主義的主権確立、独立抜きにはありえない。

日本人のパトリ的、社会主義的独立抜きには域内の少数民族、先住民族の主権確立はありえない。

だから、域内少数民族は共に真のパトリ的、社会主義的独立のために、これまでの歴史において、ヤマトの反省を要求しつつ、日本人もウチナーもアイヌも在日コーリアンも、共に連帯し、10のa〜iで述べたような内容で、闘わなければならないのである。

日本における、在日コリアンとしての域内少数民族の問題も本質的には同じである。

しかし、朝鮮国系コリアンの場合、もっと複雑である。

彼らは、共和国の公民を任じており、一方で日本人、朝鮮人が力を合わせて、日本人の差別、抑圧と闘いつつ、他方で、基本的には、日朝正常化を実現し、国交を正常化することである。

或いは、南北朝鮮の連合・統一を支援し、その過程で、在日外国人としての権利を拡大してゆくことである。

それもこれも含め、日本人の従属支配と、南北朝鮮人の分断支配の元凶、アメリカ帝国主義と足並みを揃え、連合しつつ、共に闘うことである。

日本人と朝鮮人との、自主・パトリ的、社会主義的自主・平等の観点で、過去の日本人の、朝鮮人侵略、抑圧支配を自己批判、批判しあいしつつ、又拉致問題を民衆的に解決しつつ。

日本人の人民大衆中心の社会主義的、パトリ的民族共同体と域内少数民族や在日コリアンのパトリ的、社会主義的民族要求は、対立せず、相補いあって、前進してゆく。